”広い空を駆け巡る/飛行機乗りの青年がいた”
 ”下に続く草原を/彼は眺めて思い出したよ”
 というのは遊佐未森『ふたりの記憶』の歌い出しだけれど、久々に聴いてみて、歌という形式をとることによって言葉は単線的な認識を強制するものになるんだよなーということを改めて認識した。僕はふだん歌詞とか文字媒体で読まない人間なので尚更そうなのだが、やはり歌の詞の最強ポイントってそこにあると思う。言語に対するある種の手癖を拒絶する機能というか。supercellの歌詞つらい問題の話かよ。そうです。
 ベタだけどそういうところ(単線的な受容の強制)でやっぱり初音ミクの消失ってうまいよなーというのがあって、でもそういうのって人間というハードウェアのクラッキングっぽい感じもあって、理性の名のもとに詞を解したいと思う人はやっぱり嫌だったりするのだろうか、いや、でも程度問題ではあれ一事が万事そうじゃないのか、それとも程度こそが問題なのだろうか、とか考えていたけれどまあそういう話は思い入れのある人間がすべきであって僕の仕事ではない。好意は人間のセキュリティ・ホールだと我らが王は語っていたけれど、あの台詞本当に好きですね。あまり言及している人間を観測しないが。