岩城けい『Masato』/Pat Shaughnessy『Ruby のしくみ』

晴。
昨晩は、衝突して跳ね返る動く円たちを描画するプログラムを書いてみた(参照)。 JavaScriptOOP で書いてみたけれど、結構うまくいって嬉しかった。
音楽を聴く。■ラヴェル:ラ・ヴァルス、クープランの墓(ブーレーズ参照)。「クープランの墓」好きだな。ラヴェルっていいね。色いろ他の演奏も聴いてみるか。

図書館から借りてきた、岩城けい『Masato』読了。『さようなら、オレンジ』で話題になった著者の新作。以下ネタバレに注意。間をおかず一気に読了するだけのおもしろさはある。父親の仕事の関係でオーストラリアで暮らす日本人家族の話で、主人公は13歳のマサトだ。急速にまわりの(日本人にとっては)外国人たちに馴染んでいく少年と、異文化を受け入れられない母親、そして頼もしくなっていく息子を基本的に肯定する父親が、葛藤を繰り返していく。その過程の記述は読ませる。でも、ありがちといえばありがちな話だ。最終的に小説は少年がオーストラリアの高校へ進学するところで終わり、母親は日本に帰ることになる。しかしむしろ、小説はここから始まらないといけないのではないか。本書では、どうしてもこの母親が「悪役」のように読めてしまうが、自分はこの母親がこれからどうするかに興味がある。さても、とりあえず離婚ということになるのか、どうか。もしそうなったら、マサトはどう思うのか。この母親こそが我々旧弊な日本人なのであろう。自由に世界へ羽ばたいていく Masato には、何の心配も要るまい。少なくとも彼よりは母親の方が、自分に近いようにも思われる。

Masato

Masato

本書でマサトが母親に「I hate you!」という場面があって、そこには「お母さんなんか、大嫌いだ!」という訳が付いているが、果たしてこの両者はこの対応関係でよいのだろうか。もちろん自分には何とも言えず、実際にオーストラリアで暮らす著者の感覚が正しいのだろうが。自分にはこの英語はかなりキツく感じられる。日本語の方はまだどこか甘えが入っていてもおかしくない言い方だ。そして、「甘え」に相当する英語はないのである。

Pat Shaughnessy『Ruby のしくみ』にざっと目を通す。本書は自分にはまだ遠くに仰ぎ見る高峰だ。しかし、孤立を強いられている独習者には、色いろ目を通しておいて全体像をぼんやりとでも掴んでおく必要がある。本書は Ruby の本ではあるが、それ以上にプログラミング言語の実装に関わるそれという性格が強い。これを読むと、もともと Ruby の実装には非効率的な部分が少なくなく、様々な人たちのコミットにより次第に高速になってきたということがわかる。しかし、そのような行為に人びとを駆り立てる、それだけの魅力が Ruby にあったということだろう。それが稀有なことなのだ。
Rubyのしくみ -Ruby Under a Microscope-

Rubyのしくみ -Ruby Under a Microscope-

 しかし、完全独習者というのはどうしたらいちばんよいかねえ。これはプログラミングに限らず、自分のいつも気にかけていることである。本当はよい師匠が居るのがいちばんいいのだが、なかなかそういう幸運な人ばかりではないであろう。プログラミングに関しては、ネットを見たり様々な本を読んだり他人のコードを解読したりするだけでなく、とにかくやってみるというのが大切な気がする。無謀にもまずコードを書き、ブログにでも載せて恥を晒すと。まあ誰も見てくれなくても、色いろ自分のためになる。ドン・キホーテたることが大切なのだ。恐らく自分は初心者の域から出られまいが、それでもプログラミングが楽しいことは確実である。(AM0:19)
 僕は、ゲームで遊ぶより、ゲームを作る方が遙かに楽しいと思うよ。ただ、仕事にしてしまってはまたちがうかも知れないが。

googlebot が先日作ったランダム・ダイアリー経由でやって来た。何か笑える。