オベリスク備忘録(跡地) このページをアンテナに追加 RSSフィード



オベリスク日録もどうぞ
Camera Obscura もどうぞ
Marginalia もどうぞ

2016-11-01

紅葉の「せせらぎ街道」を走る/村上雅人『なるほど解析力学』/高橋澪子『心の科学史』

| 07:55 | 紅葉の「せせらぎ街道」を走る/村上雅人『なるほど解析力学』/高橋澪子『心の科学史』を含むブックマーク

曇。
あんまり PC で遊んでばかりで、正直言って自分の中が empty になった感じ。このあたりが PC 遊びのむずかしいところだな。昨晩寝る前に中沢さんを読んで、精神が豊かであるということを考えさせられた。

音楽聴く。■バッハフルートと弦楽のための協奏曲 BWV1056(ネヴィル・マリナー参照)。これって原曲フルートのための曲だったのか。ハープシコード協奏曲としてはよく知っているのだが。■モーツァルトピアノ協奏曲第二十七番 K.595 (ブラウティハム、ウィレンス、参照)。名曲

2016年秋・冬_14紅葉シーズンになったので、「せせらぎ街道」を家族ドライブしてきました。せせらぎ街道というのは、岐阜県郡上八幡から高山へ抜ける区間国道472号のことです。岐阜県人としてまだ行ったことがないので、曇りがちな天気ですが思い切って行ってきました。9時頃出発、郡上八幡までは東海北陸自動車道、そこから「道の駅パスカル清見」をとりあえずの目標にして走りました。最初はそこまで行って引き返すつもりでしたが、まだ11時くらいだったし、紅葉はこの先がきれいということで、道の駅食事したあと(牛まん500円がめっちゃうまかったです)、高山の手前まで行きました。やはり聞いたとおり、紅葉パスカル清見の向こうがすばらしかったですね。なかなか車を駐めて写真を撮るところがうまく選択できなくて、いい写真はないのですが、でも、目にしっかり焼き付けておいたつもりです。特にすばらしいのは西ウレ峠のあたりですかね。

2016年秋・冬_17
2016年秋・冬_20

あとは「道の駅なもり清見」から荘川へ抜け(この間の景色もすばらしいです)、「道の駅桜の郷荘川」へ寄って東海北陸自動車道で帰ってきました。なんだか岐阜というか、日本じゃないみたいなきれいな風景も堪能しました(いや、これこそが日本なのかな)。道も全体的に思っていたより走りやすく、とても楽しかったです。4時前に帰れたしね。総走行距離は241.2kmでした!

図書館から借りてきた、村上雅人『なるほど解析力学』にざっと目を通す。本当はもっとじっくり読みたかったのだが、予約が入っているようなのでざっと目を通した。これ、初学者向けのすごくいい本だと思う。わかりやすい本というのは、著者が内容をよくわかっているということだ。そして、頭がよくないと初学者にわかりやすい本は書けない。字面もすっきりしている。きっとまた借りて読み返したいと思う。解析力学って不思議おもしろいのだよね。

なるほど解析力学

なるほど解析力学

この村上先生による「なるほど」シリーズって、既にたくさん出ているのだな。他のも是非読んでみたいと思う。

高橋澪子『心の科学史読了。いま面倒なことが書けないので何だが、これはとてもいい本なので皆さん是非読まれたい。アカデミズムの中で限界までやっておられると思う。それにしても、「研究」はいまやアカデミズム企業においてしか殆ど出来ないが、「学問」はアカデミズムでは不可能だと思う。何故かというのは簡単なことで、学問はすべてが崩壊してしまったところからしか始まらないからだ。著者は(これを自分がいうのは不遜だが)かなりよくやっておられると思う。そしてそれを「研究」と両立しておられる。これは本当にむずかしいことだ。しかし、こんな地味な本がどうして文庫に入ったかは謎である。さらに150ページ近い注が収められているのが凄い。文庫編集部の快挙であろう。
 それにしても「心」というものはむずかしいものだ。心について研究しようとすれば、殆どの人は何らかの(多くは無意識的な)バックグラウンドの上にそれを展開することになってしまう。現在ならそれは「唯物論」ということになる。もちろん唯物論はひとつの先入観にすぎず、何も絶対なものだと誰も証明したわけではない。けれども現在例えば「心身二元論」の立場を取れば、それは暗黙的に「非科学的」と見做されることになるだろう。僕はもちろん心身二元論が正しくて唯物論がまちがっていると言いたいわけではなく、ただいずれも「イデオロギー」にすぎないと言いたいのである。まあ、そんなことを言っていたらアカデミズムで「研究」なんて出来ないですけれどね。クリティカルなのはそこいらなのだよね、結局は。

中沢さんの『女は存在しない』(難解な題名だ)を読み返していて、本書最後の文章である「敗戦後の『私』」(これまでも何回も読み返している)に目の覚める思いがしたので、メモしておく。中沢さんはここでキリスト教を敢て「力の宗教」と呼んでいるが、これなのだ。我々は仏教的な立場から、「力への意志」(これはニーチェだけに留まるものではあり得ない)を考え抜かねばならないということ。しかし、個人的なことを書けば、自分は「無限」が「大悲」として自分の中に沸き上がってくるのをまだ自在に捉えることができないようだ。いまだ、中沢さんの文章にある「カオス収束」のレヴェルな気がする。まあそれはそれとして、近代科学というものももちろん「力への意志」の支配下にある。というか、近代そのものが「力への意志」の全面的な発現なのだ。それが勝利するということは、大袈裟にいえば生命の敗北であろう。我々は「力への意志」の支配下で、全面的闘争のまっただ中で生きることになる。これは幸福の放棄に他ならない。これはまったくニーチェ的な世界である。驚くべし。すでに我々は後戻りできない地点にいるのかも知れない。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/obelisk2/20161101/1477954512
by obelisk 2009-2017.

Connection: close