ジョン・エリス・マクタガート『時間の非実在性』

晴。
早く寝て遅く起きる(笑)。寝すぎ。インターネットの(自分の)基本的な部分というか、だらだらとネットを見ているというのがなかなか統合できない。何だかこのところ自分のツラが気に食わないし。やな顔をしている。もう少しがんばってみないとな。

ベートーヴェン弦楽四重奏曲第十番 op.74 で、演奏はベルチャQ。ベートーヴェンを聴いていると自分の小ささがよくわかる。それはそんなに悪い気分ではないね。しかし、生命力って何だろう。フロイトのリビドーみたいなものでもあるし、東洋の伝統でいう「気」みたいなものでもあるけれど、どうもはっきりとは把握していない。けれども、確実に存在する。

モーツァルトのピアノ協奏曲第十番 K.365(二台のピアノのための)で、ピアノはユジャ・ワン、第二ピアノと指揮はラハフ・シャニ。録音がいまひとつよくない。演奏はむしろ平凡。せっかく二人でやっているのだから、もっと生き生きと掛け合って欲しかった。アンコールのチャイコフスキーも、もっと表情をつけて、メルヘンちっくに。って何だかピアノの先生みたいですね。

夕方、カルコス。
ジョン・エリス・マクタガート『時間の非実在性』読了。永井均訳・注解と論評。なかなかおもしろかった。特に訳者があの特異な独我論を主張する永井均氏なので、その殆ど傲慢ともいえる解釈と論評は非常に刺激的だった。永井均氏については、検索すればこのブログでも何度か言及している筈である。
 本書はその題からわかるように、時間が存在しないことを論証したものである。なに、時間が存在しないだって、そんなことがあるものかと、大部分の人は思われるであろう。そう、じつはその当り前の「常識」は正しく、その意味でマクタガートのいうことは、事実としてはまちがっている。しかし、である。いや。まずひとつの事実から述べよう。我々がふつう思うところでは、時間は一本の、向きのある座標軸のようなものであり、その一点が現在、そしてその一点の現在は座標軸の上を過去から未来へ向けて動いていく、そういうイメージであろう。そして敢ていえばそれはまったく正しいのだが、それを受け入れた途端、著者の議論は効力を発揮し、時間が存在しないことを強力に証明してしまうのである。ではなにか、やはり時間は実在しないのか。そう、ある意味ではそう言ってもよい。では、お前の言っていることは何かということになるであろう。
 正直言って、自分の考えを述べるのは面倒であるし、そもそもそれに興味がある人など居る筈もないので、適当にいう。我々の時間の「知覚」は厄介なのだ。我々はどうしても現在を「点」と捉えてしまう。しかし音楽を聴けばわかるように、我々は実際は時間を点として知覚しているのではない。では、ベルクソンの「持続」が正しいのか? まあベルクソンは取り敢えず措いておこう。とにかく我々は現実的に時間を「点」として知覚しておらないのに、そのことの「知覚」そのものとしては、「現在」というものがあって、それは点であると「知覚」するしかないのである。ではどうしてそんなことになっているのか。残念ながら、自分の理解はそこまでである。
 また、物理学的な見方からいうとどうなるか。確かにニュートン力学では、時間は一次元の座標軸であり現在は一点である。ただし、ニュートン力学の方程式は時間の「向き」を作り出さない。つまり、時間が反転しても、ニュートン力学の方程式は同様に成立する。さらに相対性理論になるとどうか。相対性理論では、運動の仕方によって時間の流れ方や同時刻性が変ってくる。(ただし、因果律は破れない。)さらに、量子力学になるとどうか。量子力学ではシュレーディンガー方程式は時間発展に関して決定論的である。その意味でニュートン力学と同様であるが、波動関数の収縮は完全に確率的である。これがアインシュタインの認められなかったことである。そしてこれまで、すべての実験で量子力学に対する反証は挙げられていない。さらに、量子遅延選択実験によれば、量子は驚くべきことに過去を改変するようにふるまう。自分には、これが量子力学に反しないことしかわからない。
 いずれにせよ、自分がかつて生まれ、いつか死ぬことは確実である。マクタガート永井均はそういう言い方を咎めるが、まあ自分のような頭の悪い者にはどうでもいいことである。天才的な哲学者たちは何でもいえばよい。それは結構おもしろいのだから。ある意味「病気」だけれどね、まあ自分も病気であるし。

時間の非実在性 (講談社学術文庫)

時間の非実在性 (講談社学術文庫)

敢ていえば、完全な決定論と自由は両立する。しかし、どうしてそんなことになっているのか。これはまた別レヴェルの問題である。これは自分にはきわめてむずかしい。事実しかわからない。
そして、これはマクタガートや永井の言いたいことなのか知らないが、存在の奥の世界では時間は存在しない…。時間は我々の認識の作り出すものなのだ。我々はそのフレームから出ることは(ふつうは)できない。もちろん僕もできない。
時間についても、死ということを考えないといけない。死が究極のリアルであるということは、ここにおいても真実である。我々は必ず死ぬ。どうほざいても、それは誰にもどうすることもできない事実なのである。