オベリスク備忘録(跡地) このページをアンテナに追加 RSSフィード



オベリスク日録もどうぞ
Camera Obscura もどうぞ
Marginalia もどうぞ

2017-06-09

高橋源一郎『大人にはわからない 日本文学史』/トーマス・マン『ファウスト博士(中)』

| 10:06 | 高橋源一郎『大人にはわからない 日本文学史』/トーマス・マン『ファウスト博士(中)』を含むブックマーク

晴。
寝坊

バッハトッカータ ホ短調 BWV914 で、ピアノクララ・ハスキル

モーツァルト交響曲第三十六番 K.425 で、指揮はカルロ・マリア・ジュリーニ。1982/7/19 Live.

昼から図書館。いまひとつ元気なし。スーパードラッグストア

図書館から借りてきた、高橋源一郎大人にはわからない 日本文学史読了。どうも以前読んだことがあるようである。「ようである」というのが既にテキトーであるが、読んだはずだ。と読んでいて思った。まあそれはどうでもいいが、どうも源一郎さんは自分にはついに権威になってしまったなと感じた。どうも言っていることがすべて正しいという他ないような感じがする。何だか文学は終ったというようなバカがいるけれども、じつは樋口一葉綿矢りさは同じ。確かに。赤木智弘石川啄木は同じ。確かに。ところで、赤木智弘っていまではもうほとんどの人は忘れているよね。90年代日本語OS が替った。確かに。でも源一郎さん、ウィンドウズはビル・ゲイツがひとりで作ったんじゃないですよ(たぶん一行もコードを書いていない筈である)。という具合で、すべて正しいのだ。のではあるが、自分にはじつはやはり文学は終ったような気もしてきている。というかこのところ、人間は信用できないし、人生は生きるに値しない、そういうことが根本にあるのが「文学」という気がし出したのである。じつに古くさい文学観だし、自分がかならずしも人間を信用していなくて、人生は生きるに値しないとだけ思っているわけではないのだが。しかし、自分がそのように思っていなくても、事実はまた別なのではないかと思うようになった。しかしまあ、もう小説なんて何でもいいというふうになってきたのが正確なところかも知れない。いや、そんな投げやりな感覚を吹き飛ばしてくれる、おもしろ小説を期待しております。小説ウェルカム。

大人にはわからない日本文学史 (ことばのために)

大人にはわからない日本文学史 (ことばのために)

しかし、源一郎さんの引用で読んでいると、啄木も太宰もじつにおもしろいね。こういう人間のクズ文学史祭り上げられているというのは、文学史パンク性を証明するものだと思う。そもそも文学史に名前が残っている文学者たちって、ほとんどがある意味ビョーキ」な人たちばかりなんだから。おもしろいな。知っているかい、日本近代文学最高傑作のひとつとされる『死の棘』を書くために、島尾敏雄はわざわざ不倫をして、夫婦生活破壊してみせたんだぜ。ホント、偉大な小説家って、人間のカスだよね。ってまだ『死の棘』未読なんですけれど。

いまの小説家たちは、まあマジメでふつうの人が多いですよね。いやあ、ホッとするなあ。

夕食後に寝てしまう。12時前に起きて読書

トーマス・マンファウスト博士(中)』読了。ますますおもしろい。中でもレーヴァーキューンの手記は、食事のために一気に読めなかったのが残念なくらいだった。なるほど、これがあるがゆえに「ファウスト博士」なのだな。ようやくわかりました。マン記述のしちめんどうさには呆れるが、これもまたじつに読んでいて楽しい理由のひとつである。どうもふつうにエンターテイメントと呼ばれる小説は実際にはこれほどこちらを entertain してくれないことが多い。別にエンターテイメントを腐すわけではないが、たいていはもっと幼稚でうんざりさせられてしまうこともあるから。しかしマンが俗衆に自分小説がわかる筈がないと思っていることも明白で、俗衆のひとりとしては複雑な気持ちにならざるを得ないこともまた否定しがたいけれども。

マンの描く俗物たちの描写には過剰なまでに生気があるが、やはりマンにこのような俗臭がなければ不可能なことではないだろうか。そこらへんがこの端倪すべからざる小説家の巨大なところでもあろう。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/obelisk2/20170609/1496970403
by obelisk 2009-2017.