加藤典洋『敗者の想像力』

晴。
しょうもないことばかりやっているせいで、精神が empty な感じ。

モーツァルトのピアノ協奏曲第十二番 K.414 で、ピアノは内田光子、指揮はジェフリー・テイト

バルトークの「管弦楽のための協奏曲」で、指揮はピエール・ブーレーズ。すごい演奏だな。まさしくシカゴ響のための曲。

ブーレーズの第二ピアノ・ソナタで、ピアノはマウリツィオ・ポリーニ。自分にはいまだに前衛たることを已めていない演奏。若い人には是非挑戦して欲しい古典だ。
東京その他での「ポリーニ・プロジェクト」とか、録音がないのかね。あったらいつか聴きたいものだが。
とかで検索していたら、ポリーニの新譜が出ていることに気づく。おお、何ということ! ショパン・アルバムということである。たぶんもうダメな演奏だろうけれど、ポリーニだから買うしかないな。しかし、シュトックハウゼンなんかはついに録音しないで終わるのか知らん。

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わたくしはこの Tumblr が好きである(エロじゃないっす)。
加藤典洋『敗者の想像力』読了。まあまあだった。僕は加藤という人はよく知らないが、まずまず勉強もされている方だと思う(エラそうでごめんなさい)。しかし「まあまあだった」とは書いたが、僕はたぶん本書がまったく読めていないと思う。文体に強度がなさすぎて、文章の意味を取るのが自分にはむずかしい。たぶん自分には加藤氏は読めないのだろう。だから、この感想はほとんど意味がない。まあ加藤氏はそのうちまた読んでみたいと思う。なお、本書オビに著者の顔写真が載っているが、理不尽な発言で申し訳ない、僕はこのツラは文章家としてダメだと思う。そもそも僕は結構ひとを顔で判断するので(見当ちがいもしょっちゅうありますが)。バカですね。

敗者の想像力 (集英社新書)

敗者の想像力 (集英社新書)

昨日本屋へ行ってきたのだが、いまや新書はつくづくヒドいことになっていますね。特に老舗の講談社現代新書の劣化が著しい。ここにいまの日本の文化状況の一端が見えていると思う。まあ仕方がないね。

いまジャンバッティスタ・デッラ・ポルタの『自然魔術』の翻訳を読んでいるのだが、相も変わらず「マヨラナ」を「マヨナラ」と書き誤っている。前にも何度か書いたのでまたかと思われる人も…いや、そんな人はいないと思うので同じことを書いておくが、この植物はハーブの一種であり、ラテン語では majorana、英語でいうマージョラムで、「マヨラナ」が正しい。これも前に書いたが、かの碩学林達夫までも誤っているくらい*1、日本では猖獗を極めた「伝染性誤謬」(トマス・ブラウン)である。けれども、さすがに最近では正しい表記が殆どになってきたと思っていたが、こんなところで再見した。原語を見ていて誤るとは考えにくいが、著者の思い込みか、それとも辞書の誤りか、何なのだろうか。かつて誤謬が拡散したのは、たぶん最初の頃の辞書が誤っていて、その辞書を引き写したその後の辞書に受け継がれたものであろう。この「辞書の引き写し」で新しい辞書を作るというのはかつては散々行われていて、当の林達夫がそれについて一文を草しておられるくらいである。林達夫が何度もエッセイの題材としているとおり、翻訳というものはむずかしいものであるな。

*1:『歴史の暮方』所収「拉芬陀(ラヴェンダー)」というエッセイ。中公文庫版で確認した。なお、これは坪内逍遥訳のシェイクスピアの翻訳が誤訳ではないかというもので、その合間に西洋本草学の蘊蓄が語られるという洒落たエッセイである。なお、管見の限りでは、現代におけるシェイクスピアの翻訳で林達夫の考察を取り入れているものは見たことがない。まあよく知らないのでいい加減ですが。