ベアトリーチェ・ラナというピアニストを聴く

昧爽起床。晴。
 
NML で音楽を聴く。■ショパンのピアノ・ソナタ第二番 op.35 で、ピアノはベアトリーチェ・ラナ(NML)。昨日この曲をつまみぐいしたので、全曲聴きたくなって NML で適当に選んで聴いてみた。このピアニストについては何も知らない。強引で乱暴な、いわば荒削りな演奏だが、大きさと深みがあってじつにおもしろい。よい意味で野蛮な演奏。ベアトリーチェ・ラナ(1993-)はイタリア出身で、ヴァン・クライバーン・コンクールで銀賞その他の受賞歴があるが、これがコンクールで評価されたとはちょっと驚く。ま、大きなダイヤの原石といえ、それが評価されたのだろうな。すっくと直立する世界軸 axis mundi には素直に感心した。音はきれいとはいえない。

■同じディスクにベートーヴェンの「ハンマークラヴィーア・ソナタ」が収録されている。正直いってこのソナタは長くてしんどいので、頻繁に聴くわけにはいかないが、一枚のディスクに若手がショパンベートーヴェンの大曲を収めるとはなかなかにナマイキ(?)なので、ちょっと聴いてみた(NML)。結論からいうと、ショパンと同じようにスケールの大きな演奏だが、(わたしには)あまりおもしろくない、あちこちつまみぐいしただけで終わった。晩年のベートーヴェンを演奏するには、まだまだ人生経験が足りない、とでもいった感じ(本当に彼女の人生経験が浅いといっているわけではありませんよ、たんなる比喩です)。
 なお、検索していると彼女のディスク、「ゴルトベルク変奏曲」の録音の記事が結構ある。へー、大曲を好んで演奏するのかな、ナマイキだ(笑)。ちなみに「ゴルトベルク変奏曲」を録音するピアニストはいまはとても多くて、このしんどい曲を、いちいち聴いていられない。まさに、グレン・グールドの影響はすごいな、ってなる。
 
■上でショパンがおもしろかったので、練習曲集 op.25 を同じベアトリーチェ・ラナのピアノで聴いてみる(NML)。一般的にショパンの練習曲集 op.25 は op.10 に比べ、落ち着いていて詩的、そんな風にいわれることが多いと思うが、なるほど、ラナのショパンの抒情的な表現は見事なもので、じっくり聴かせる第7曲が、この曲集のベスト演奏なのかも知れないなと感じた。こういう表現もできるんだな。しかし、最後の二曲のようなバリバリとちょっと強引に弾いていく魅力もあって、このピアニストの大きさと(特に)深さはやっぱりめったにないもの。うん、ラナにショパンは合っていると思う。

「僕は友達が少ない NEXT」(2013)を観る

昧爽起床。曇。
よく寝た。
 
昨日アップしたのとはちがう色の牡丹が咲いた。こんな色の、前からあったっけ?

フランス菊が咲き出した。ネモフィラは丈夫だな、長いこと元気に咲いている。
 
小説、映画、ドラマ、マンガ、アニメ、音楽、ゲームなどのコンテンツにおける暴力表現の氾濫を見ると、我々が(少なくとも想像力における)暴力を好んでいる、望んでいることは明らかだ。これは現在が管理社会で、安全・安心をほとんど「強制」されることに対する(動物的な)対抗措置なのであろうか。それとも、人間は本質的に暴力を好むといえるのか。
 スポーツをしたり、スポーツを見ることの愛好も、暴力の代替措置であるとも考えられる。
 
Bruce Liu spielt Rameau, Chopin & Liszt | ORF-Radiothek
ブルース・リウの 2024.2.24 東京コンサートの期間限定配信から、ショパンのピアノ・ソナタ第二番 op.35 をつまみぐいして聴く。特に驚きのない演奏。ブルース・リウは 2021年のショパン・コンクール優勝者であるが、いまはポリーニアルゲリッチのようにはいかないなと痛感する。
 同じコンサートより、ラモーの「クラヴサン小曲集」「新クラヴサン組曲集」からを聴く。これは惹き込まれた。ラモーはそれほど聴いたことがないので、よい演奏はありがたい。才能ある若手が、往年の大ピアニストがあまり演奏しなかった曲をやってくれるというのは、いいな。ほんと、ラモーなんかはそれにぴったりだと思う。全部でほぼ20分。
 なお、ブルース・リウは CD でラモーを録音しているが(NML)、この演奏会の方がいきいきしていてずっといいと思う。同じ曲で比較してみるとよくわかる。この録音は NML でかつてちょっとだけ聴いたが(2023.11.22)、やっぱり、それのみで演奏家の才能を判定するのはムリだな。演奏家が、時によってちがう演奏をするのは当たり前なのだから。
 でもまあ、「才能」って何だかよくわかんないもんだけどね。例えばアルゲリッチの才能を疑う人はいないだろうが、じゃあアルゲリッチがいつもすばらしい演奏をするかというと、そうとは限らないわけだし。
 

 
昼食のパスタに自家製パセリと初物タマネギ。うまい。
 
ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。カスタードクリーム+ブレンドコーヒー462円。
 岩田慶治道元との対話』の続きを読む。道元ってきわめて厳しい人で、『正法眼蔵』なんてとてもわたしには読めないだろうと敬して遠ざけてきたのだが、本書を読むと、わからないなりに読んでいいんじゃないかと思い始めた。道元からの引用を読んでいると、そんな感じ、架蔵して眠っている岩波文庫本にでも、目を通してみるか。
 しかし、岩田慶治という人、こんな東洋的精神のかたまりのような人が、かつてはまがりなりにもアカデミズムの中に存在できたなんて、驚きである。いまでは不可能なのではないか、知らんけど。もっとも、アカデミズムの中で、当時でもたぶんまったくの異端、傍流の人だったろうが。
 
ひさしぶりにカルコス。2.13 以来か、本当に行かなくなってしまった。無くなったら困る本屋なのだから、もっと行かないととは思うけれど、本はあまり買ってはいけないことになっているしなあ。
 今日の釣果。ちくま学芸文庫で『概説 人工知能』(2024)。西野嘉章チェコアヴァンギャルド』(平凡社ライブラリー2024)。岩波文庫でカントの『人倫の形而上学 第一部』(文庫2024)、ゲルツェン『ロシアの革命思想』(文庫2024)。「これは欲しい」と思う本だけ買ったが、文庫本4冊で6000円超えかよ、きびしいなあ。
 ちくま学芸文庫で『資本論』の新訳が刊行され始めたが、最初はレジにもっていこうとしていたのだけれど、あやうく思いとどまった。
 新書本も何か買おうと思っていたが、いろいろ見ても気が滅入るばかり。いや、こちらの感性がにぶっているだけでしょうけれどね。
 

 
道元との対話』を第三章まで読む。わたしごときに本書がわかるとはいえないんだけれど。そもそも、テキトーに眺めているだけで、読んでいるとはいえない(わたしはどんな本でもそんなものだ)。でもまあ、わかんないともいえない。ただ、わたしは余計な知的にむずかしすぎる本を読み過ぎで(どーせ、よくわかっていないのだ)、それらを解体し尽くしていないということは確か。って、たんに未熟なだけなんだけど。
 
夜。
夕飯に蕗(フキ)とじゃこの当座煮。蕗は採れたてのせいか、やわらかくてクセもなく、みるみる減っていった。
 
僕は友達が少ない NEXT』(2013)第12話(最終話)まで観る。2期はラブコメ成分多い。やー、最後までぬるま湯で終わると思っていたので、修羅場展開はちょっと驚いた。まあしかし、またうやむやなのかな、そこはよくわからなかった。でも、このダブルヒロイン、選べないでしょ、原作はどうなってるのかな。
 どうでもいいが、うすうすそうじゃないかと思ってたけど、これ、聖地は岐阜とか名古屋だよね。各務原と犬山の間の犬山橋とか、名鉄でえっと思い、JR名古屋駅構内で確信した。いわれてみれば、JR岐阜駅のホーム待合室もそうだ。岐阜市内の長良公園は知らなかったが。てか、買い物で名古屋へ行くってんだから、舞台は(いちおう)岐阜ってことかな(群馬も混じっているらしい)。岐阜はアニメの聖地、かなり多くてうれしい。って俺バカ?

調べてみると、なるほどー、原作の舞台ははっきりと岐阜や名古屋がモデルになってるのね。アニメでは関東が混じっているというわけか。また、原作の終わり方も調べた。まーこれはどう終わっても不満が出るよねー、仕方がないと思う。

こともなし

晴。黄砂か?
 
昼食に高野豆腐と初物のエンドウを炊いたもの、家族旅行で買ってきた鯛みそなどを食う。
 
PC メイン機のバッテリーランプが高速点滅してバッテリーエラーを示していたけれど、バッテリーをいったん外して再び装着したところ、ランプが消えた。この PC は 2015.9.3 に購入したもので、もう8年を超えて使っている。基本的に、外付けディスク(いまは SSD)に Linux Mint を入れて、Windowsデュアルブートの形にして(メインは Linux Mint で)使ってきた。
 
Ruby で遊ぶ。AtCoder ABC348, 349 など。
 
牡丹咲く。


なんか怠惰な一日だった。
 
夜、早寝。

お互いの(直接的)共感可能性を失った時代 / 「僕は友達が少ない」(2011)を観る

曇。
 
NML で音楽を聴く。■モーツァルトジート長調 K.574、ピアノ・ソナタ第十六番 K.545、アダージョ 変ホ長調(K.516 から、オラフソン編)、ガルッピのピアノ・ソナタ ハ短調〜第一楽章、モーツァルトのピアノ・ソナタ第十四番 K.457、アダージョ ロ短調 K.540、「アヴェ・ヴェルム・コルプス」(リスト編)で、ピアノはヴィキングル・オラフソン(NMLCD)。
 承前。初心者向けの「やさしいソナタ」といわれるピアノ・ソナタ第十六番がじつに愛らしい。また、弦楽五重奏曲第四番 K.516 のアダージョのピアノ編曲は、ヴィキングルがこの音楽を愛していることが伝わってくる。ピアノ・ソナタ第十四番は王道的演奏で(緩徐楽章の、短調に転調する中間部の美しさ!)、わたしの(恥ずかしながら)あまり知らない K.540 は、曲の魅力がよくわかった。で、最後はリスト編曲の「アヴェ・ヴェルム・コルプス」なんてのをもってきながら、違和感なくまとめてしまう。まったくすばらしい。
 ヴィキングル・オラフソンは時に「アイスランドグレン・グールド」なんていわれたりするが、グールドとは随分とちがった演奏家だと思う。グールドはよくも悪くもその「異常性」が直ちに明らかなのに対し、ヴィキングルはちょっと聴いただけではむしろ平凡のようでもあり、つまりはわたしたちの「日常」部分で勝負している。そこが、まずはちがうところだ。
 
 
スーパー。いまにも雨が降りそう。ポイント3000円分、現金で還ってきた。
 
昼。
いちおう世界史では、古代、中世、近代・現代、というような歴史的区分をする。いまや、その「現代(モダン)」が終わり、次の時代に入ったことが明確になってきた。それは既に聡い人たちによって「ポスト・モダン」という名が付けられているが、それではあんまりだから、何百年か経ったあと、(それでも人類が生き延びていれば)別の名が付けられることであろう。
 この時代の特徴はいろいろあるが、ひとつは「人文学」が死んだ時代であると特徴づけることもできるだろう。すなわち、人間が「メディア」(=記号、情報)という中間的媒介(medium)なしの、お互いの(直接的)共感可能性を失った時代、というものである。記号や情報の媒介は、直接的な共感可能性を殺す。それは、人間を非常に孤独な存在にするだろう。そして、高度資本主義による、精神、文化面の世界的な画一化と、貧困化。感情の幼稚化と記号的理性の独裁。人間精神からの「自然」の消滅と全面的都市化。
 ってのは、これまで散々書いてきたことだけれど。
 
ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。ハニーディップブレンドコーヒー451円。
 岩田慶治道元との対話』(文庫版2000)を読み始める。副題「人類学の立場から」。生きた仏教とすっかり縁のなくなってしまった日本人は、本書を読むといいよ。干からびた仏教学ばかりが進む現代日本。それにしても、わたしは既に道元の死んだ歳を超えているのだな。凡人は困ったものである。
 帰り、金属団地脇の街路樹のハナミズキが、きれいに咲いていた。いまにも降りそうな天気は何とか降らないでいる。
 

 
夜。
僕は友達が少ない』(2011)第12話(最終話)まで観る。やー、特にこれといったドラマはなく、最初はペースがつかめなかったが、バカバカしい日常系に近いとわかるとおもしろくなったな。ラブコメ成分はそこまで強くないが、しかし、女の子たち(+男の娘ひとり笑)が皆んなかわいいねー。とりわけ二人のメインヒロイン、いつもいがみあっている(でもほんとは仲がいい)夜空と星奈が甲乙つけがたいかわいさ。ツンデレだし笑。主人公の小鷹は、最初はよくわからなかったけれど、次第に好感がもてるようになった。こういう作品は、いまはちょっとないね。2期も観る。

 
僕は友達が少ない NEXT』(2013)第4話まで観る。2期。おもしろい。1期よりラブコメ成分が強いな、いい感じ。って、俺バカか笑。

こともなし

晴。薄曇り。
夢。東大の受験日当日に、受験票をなくして試験が受けられない。まあいいかと思って、本命の京大の受験票を探してみると、これもない。あちこち探す。
ひさしぶりに夢をよく覚えていた。まだ他にも断片的に覚えている映像がある。
 
NML で音楽を聴く。■ハイドンピアノ三重奏曲第十八番 Hob.XV:18 で、演奏はトリオ・ヴァンダラー(NMLCD)。■モーツァルトピアノ三重奏曲第六番 K.564 で、ヴァイオリンはヴィルモーシュ・サバディ、チェロはチャバ・オンツァイ、ピアノはマルタ・グヤーシュ(NMLCD)。これでサバディ、オンツァイ、グヤーシュによるモーツァルトピアノ三重奏曲全六曲を聴き終えた(厳密には、あとディヴェルティメント K.254 がある)。余計な自意識のようなものが感じられない演奏で、じつに気持ちがよかった。配信のいいところは、こういう無名だが自分に合った演奏家と出会えることだ。CD時代では、不可能だったろう。■メンデルスゾーン交響曲第一番 op.11 で、指揮はパーヴォ・ヤルヴィチューリッヒ・トーンハレ管弦楽団NMLCD)。パーヴォ・ヤルヴィは重心が低くて好ましい。メンデルスゾーンの「凡庸さ」は、すばらしいんじゃないか?
 
 
昼飯にシメジとツナの炊き込みご飯、三葉の卵とじに三葉の味噌汁。
(今日の「キャッチ!世界のトップニュース」が興味深かった。イランのイスラエルへの報復攻撃だが、イランが紛争拡大の意思を示していないのであまり深刻に考えていなかったけれど、イランがイスラエルへ直接大規模攻撃したのは初めてで、その意味でやはり深刻なのだと。今後は、イスラエルの出方次第ということらしい。アメリカは、イスラエルのいかなる報復措置にも参加しないというメッセージを出している。以上、番組からの知ったかぶりで、わたしが知ってもどうしようもないこと。)
 
県営プール。夏日。
万札をくずしたいのでプール近くのコンビニで何も考えずポカリスエットを買ったら、900ml もあるやつだった(179円)。デカッ。
金華山に連なる山々の新緑が美しい。街路樹のイチョウの芽吹き。
帰りに肉屋。
 
夕方、コンビニまで歩いて車の保険料を支払いにいってくる。
4.1 に、わたしが生まれて此の方ずっとあった最寄りのバス停がなくなった。次のバス停と近かったので、統合されてコンビニの前へ移ったということだろう。
 
夜。風呂から出て寝ころがってぼーっとしているうちに、そのまま眠ってしまう。

荒川洋治『文学のことば』

日曜日。晴。
昨晩はアニメを観ながら寝落ちした。深夜にいったん目覚めて、電気を消してもう一度寝る。
 
NML で音楽を聴く。■シェーンベルクスケルツォ ヘ長調、プレスト ハ長調で、演奏はプラジャーク・クヮルテット(NMLCD)。■ベント・セアンセン(1958-)の「Adieu」「Angels' Music」で、演奏はアルディッティ弦楽四重奏団NMLCD)。■リゲティのチェロ協奏曲で、チェロはルノー・ドジャルダン、指揮はピエール・ブルーズ、アンサンブル・アンテルコンタンポラン(NMLCD)。
 
Mäkelä Conducts López Bellido & Mahler 5 | Chicago Symphony Orchestra
クラウス・マケラの指揮、シカゴ交響楽団による、マーラー交響曲第五番の演奏の配信(全曲、70分)――各楽章の冒頭数分をつまみぐいして聴く。細部は精緻であり堅固に構築されスケールも大きく、マーラーが完全に消化されているが、情感的に(わたしには)あまり魅力的でなく、というかモノトーンで退屈であり、全体を聴く気にならなかった。若きクラウス・マケラは「天才」とされ、既にロイヤル・コンセルトヘボウシカゴ交響楽団を率いることが決まっており、マケラ時代が来るともいわれている。
 いま「才能と魅力がある指揮者の不足」は深刻で、各団体、困っているのがよくわかる。マケラくらいのクラスの「才能」になると、奪い合いだ。
 しかし、音楽を楽しむってなんだろうね。シンプルに音楽を楽しみたいものである。
 

 
「二人だけの道」 - okatakeのブログ
「こういう清潔で正しく、しんみりほのぼのする夢のあるドラマが茶の間から消えてしまった。」ほんと、いまや何でも複雑知的でむずかしすぎる。人間らしさ、ってなんだろう。
 
いい天気で庭へ出る。

ブルーベリーの花がたくさん咲いた。

アイリス。

ソラマメの花。実が生(な)ったら食べる。

白いスミレ。生命力の強い雑草なので、老母は庭から抜いてしまうそうだ。
 
 
図書館。鶴見俊輔さんと長田弘の対談集『旅の話』(1993)、荒川洋治のエッセイ集『文学のことば』(2013)、池川玲子『ヌードと愛国』(講談社現代新書2014)、藤津亮太『ぼくらがアニメを見る理由』(2019)その他を借りる。
 
コメダ珈琲店各務原那加住吉店にて昼食。いつものトーストサンド+ブレンドコーヒー1160円。おなかいっぱい。
帰りに老母のために手芸屋「トーカイ」へ寄る。あちこちでツバメ飛ぶ。
陽射しが強くなって車内が暑い。AUTO のエアコンは冷房が入るようになった。
 
 
長時間、ごろごろぼーっとする。
 
 
図書館から借りてきた、荒川洋治『文学のことば』(2013)をさらっと読了。エッセイ集。著者が若い人とその文化にほとんど何の興味も関心もないのがわかる。ま、それがダメな態度なのかはわからない。若い人だって概して老人には興味がないものだ。きたない、きもちわるいと思っていたって不思議はない。
 しかし、荒川さんはもはや現代、現実にもあまり興味がないのではないか。停滞し、退廃し、空気がよどんでいる。まあ、古くさい、それもよいのかも知れないが。わたしはつつましやかで古くさいのはきらいでない。

 

 
夜。
老父が三葉をたくさんもらってきたので、おひたし(山葵ポン酢和え)にして食う。ウチにも三葉はあるのだが、このような食用として畑で栽培されたものではなく、雑草として生えているので、小さくてかたいそうだ。かつては茶碗蒸しに添えたり、味噌汁に入れたりして食べた。
 
僕は友達が少ない』第9話まで観る。

チョ・ナムジュ『サハマンション』

深夜起床。ぼーっとする。
 
NML で音楽を聴く。■モーツァルトの 二台のピアノのためのソナタ K.448 で、ピアノはマリー=ルイーズ・ヒンリクス、クリスティアン・ツァハリアス(NML)。2024.3.19 に二度聴いた演奏。同じ演奏を聴き返すことがめったになくなっているわたしなので、めずらしいことである。
■ガルッピのピアノ・ソナタ ヘ短調〜第一楽章、モーツァルトのロンド K.494、C.P.E.バッハのロンド ニ短調チマローザのピアノ・ソナタ第四十二番(オラフソン編)、モーツァルトの幻想曲 K.397 (断章)、ロンド K.485、チマローザのピアノ・ソナタ第五十五番(オラフソン編)、ハイドンのピアノ・ソナタ第四十七番 Hob.XVI:32 で、ピアノはヴィキングル・オラフソン(NML)。
 新しい時代を切り開いてゆく、稀な精神たるヴィキングル・オラフソンの、モーツァルトを中心としたアルバムを、半分くらい聴く。ヴィキングルは才能ということでいったら、現在もっとも才能あるトップ100人の音楽家を合わせたより、才能があるだろう――なんていうのは、冗談みたいなもので、無意味なことではあるが。聴いていて、心底驚嘆、驚愕すると共に、やっぱりこういう才能は現れるものなんだなとつくづく思う。

 
Concert de clôture du Festival de Pâques, avec Renaud Capuçon - Radio Classique
シューベルトピアノ五重奏曲 イ長調 D667 で、ヴァイオリンはルノー・カピュソン、ヴィオラはポール・ジーンタラ、チェロはユリア・ハーゲン、コントラバスはロレーヌ・カンペ、ピアノは藤田真央。いわゆる「ます」五重奏曲。
 速めのテンポのキビキビとした演奏で、演奏者たちの息もぴったりであり、なかなかよかった。2024.4.7、エクス=アン=プロヴァンス復活祭音楽祭におけるライブ録音。なお、この曲の演奏は配信の後半である。
 
朝。晴だけれど薄雲がかかっている。
二度寝する。
 
コダーイの「夏の夕べ」で、演奏はオルフェウス室内管弦楽団NMLCD)。
 
スーパー。五倍ポイントの日。春キャベツが一玉280円もするぞ(買わない)。ガラポン抽選会があって6度回したが、ぜんぶ白玉(ハズレ)だった。
暖かい。夏日の予報。
ウチの桜の花は終わったな。
 
昼寝。
 
珈琲工房ひぐち北一色店。チョ・ナムジュ『サハマンション』の続き。承前。暗鬱な小説だな。
帰りにドラッグストアへ寄る。外気25℃。
 
 
図書館から借りてきた、チョ・ナムジュ『サハマンション』(原著2019、邦訳2021)読了。斎藤真理子訳。チョ・ナムジュはベストセラー『82年生まれ、キム・ジヨン』の著者で、わたしも『キム・ジヨン』は読んだがもう詳しいことは覚えておらず、日本ではフェミニズム小説として流通しているという印象とだけ。
 本書は巨大企業の独裁統治する管理都市国家「タウン」を背景にしているディストピア小説とでもいえ、諸事情から「タウン」に住めないいわばアウト・カーストの住む、老朽化した「サハマンション」を舞台にしている。サハマンションの住人たちは、「生きる目的」もなく、生きていてもちっとも楽しそうでない、閉塞して、ただだらだらと日々を消費しているだけ、というように描かれている。ラストは企業統治の「真実」に少し迫りそうでもあるが、結局よくわからない終わり。
 まあ、「管理社会を批判的に描いた」といえるかも知れないが、わたしにはあんまりおもしろい小説ではなかったし、社会風刺、社会批判が小説の目的なら、出来がよいとはいえない気もする。ただただ、やる気、生きる気のない人たち、たとえ声を挙げ行動しても、結局しぼんでしまう、というような小説。それは、決して独裁企業体のせいばかりではない、たぶん著者のせいなんだろうとわたしは思う。サハマンションも、「タウン」と大してかわりはない、サハマンションは(「タウン」とちがい)管理されていないように見えて、じつはそうでない。それが現代というなら、そうなのかも知れないが。管理社会で「管理」するのは権力であり、暴力であるように見えるが、それにちがいはないけれど、つまるところ、じつは自分の心が自分を「管理社会」に合わせて管理しているのだ。
 
夜。
僕は友達が少ない』(2011)第4話まで観る。