幸福とかモダンウォーフェア2とか

最近色々ありまして、人の幸福とかそのようなものを考える日々。
僕はどうも、自分がよそから持ち込まれたものでやりきれなくなればなるほど、なんでもないところで笑顔が漏れるタイプの人間のようです。一時間くらいかけてお風呂につかって、冷凍庫で冷やしたビールマグにエビスなんか注いで泡立ててるとき、もう尋常じゃなくニコニコしていたようです。頬が緩みきっておったそうな。自分が向き合っているナニを客観的に考えると、もう少ししかめっ面をしていてもよいような気がしたので本当に意外でした。
こういうのも、心のバランスを取るってやつなんでしょうね。
無心に何かをして(それが何をもたらすかとかは置いておいて)ただ、あることがあるように、あるままで嬉しい、というのも貴重な時間なのだと思います。

さて。
一歩一歩、書いてゆこうと思いますが、まずは時間の残酷さをうつくしいと思う問題について。
いわゆる幸福というやつは努力次第で手に入ることもあるし、まったくの無作為で降りかかることもあります。不運というやつも同様であります。たとえば、僕が現在、誰かに頼らずとも一人でご飯を食べてゆける程度にどうにかやっているのは単なる偶然の幸福であり、ひもじい境遇にある人からすれば「おれとお前の間にどんな差があったというのだ」と感じる部分であるといえます。努力だのなんだのもありますが、結局のところ、僕が単に幸運だったというだけの話です。僕の手にする一万円札と、職を失った人の一万円札と、ビルゲイツの一万円札は、同じものですがそれぞれ別の意味を持ちます。
ですが、時間の経過だけは誰にもひとしく降りかかり、等しく残酷です。僕はそこをうつくしいと思うのです。時間が流れてゆくという残酷さだけは、この世のどんなものも差別しません。時間は僕らを均しく、同じに扱います。
僕はそれを、本当にうつくしいと思います。

努力の末に幸福が来るとか、そういう因果を信じて裏切られた人を見ました。
その努力は本当に正しい努力だったのかとか、そういうことを問うのは簡単だし、努力は無駄じゃないよ、と慰めるのも簡単です。でもそのどれもが違うような気がしています。ただ、時間は均しく流れていて、あなたも、わたしも、あのひとも、そのひとも今まで完全に同じ時間の中を生きてきて、これからも完全に同じ時間の中を生きてゆくのよ、としか言えないような気がします。
僕はそんな時間のうつくしさを伝えようかと口を開きかけ、そして止めました。うつくしさは人を癒したりはしません。人の心に何かを届けるというのはとても難しいものです。立場や関係が、いつの間にか僕らを、均しい目線で話せないように変えてしまいました。冬の夜に雨は降り、時間だけが同じように過ぎてゆくのでした。

さて。
明日はモダンウォーフェア2の発売日です。人数を数えるような感覚で人を撃ち倒すゲームに没頭しながら、幸福が云々の話するナニもないだろうよ、という心の声がとても人間的でいいな、と思います。
明日は少し、殺したり殺されたり、悲鳴を上げたり竦んだり、そんな戦争機械となって過ごそうかと思います。これもまた、心のバランスの話なのよね。