私的・船戸与一論 その参

『山猫の夏』の弓削一徳、通称山猫は物語の最後に命を落とす。
この作品は作中で名前を与えられない“おれ”という日本人青年の一人称によって語られる。山猫の言動はこの“おれ”が見聞きしたという形でのみ語られる。
“おれ”は最初、安酒場のバーテンをしているところで山猫と出会い、行動を共にし、山猫の死後またバーテンに戻る。しかしその人物像は正反対に変貌している。柔な青年から山猫の雰囲気を身にまとった男へと。
読者は誰も、この“おれ”が恋人と幸せに暮らす未来を想像することはないだろう。彼もまた将来の死を約束されている。

『猛き箱舟』の隠岐浩蔵も死ぬ。歯牙にもかけずにいた部下、香坂の手によって。

山猫と隠岐浩蔵は何故死ななければならなかったのか? それは彼らが硬派だからだ。硬派は自らの死によってしかその物語を終わらせることができないからだ。“おれ”もまた硬派を志してしまったがために、その死を約束されている。

隠岐浩蔵はその死の間際、自分という汚れ役を必要とした日本の戦後民主主義と市場主義の欺瞞を叫ぶ。この叫びは、映画にすればクライマックスだろう。しかし隠岐に死をもたらす香坂の心には届かない。純粋に復讐のみを志す香坂は、その純度を極限まで高めて、硬派として隠岐以上の高みに立ってしまった。その香坂もまた死ぬ。社会がそのような硬派の存在を容認しないから。