身も蓋もない

いまさらながら、馳星周の『不夜城』を読みました。

北京に上海、台湾といった中国マフィアが抗争を繰り返し、奇妙なバランスを保っている新宿歌舞伎町で、その勢力の間を泳いでいる劉健一。予期せぬトラブルが起きて、身の危険が迫ります。

劉健一は生き延びるために策を弄します。誰も信じず、騙し、裏切り、カモになる奴が悪いんだと嘯きます。彼の行動原理は単純で、身も蓋もありません。

この劉健一の一人称で語られる物語を読みながら絶えず頭の片隅にあったのは、THE BLUE HEARTSの『リンダリンダ』の歌詞の冒頭の一節、「ドブネズミみたいに美しく生きたい」です。

劉健一をドブネズミと評するのは、少し言葉がきついかもしれません。でも、彼はドブネズミの亜種でしょう。さて、その姿は美しいでしょうか。

船戸与一が定義する硬派の特色のひとつに、行動を志すがために、目的があって手段があるのではなく、行動=手段のために目的があるかのような、目的と手段の逆転、あるいは混然一体化があります。その硬派の物語こそがハードボイルドです。

劉健一の目的は生き延びること、それ自体です。生き延びて何かを為したいという目的はありません。彼の人生は生き延びることで完結し、上記の目的と手段の逆転はありません。ですから、彼は硬派ではなく、『不夜城』はハードボイルドではありません。

では何かといえば、まあノワールなのでしょう。

ここで“まあ”とつけてしまうのが、現在のわたしです。

もし単行本の刊行当時、あるいは映画化に合わせた文庫化の際に読んでいたら、“まあ”とはつけなかったはずです。

時代の流れは加速度的に速く、先に書いた劉健一の「身も蓋もない」は、もはや彼一人に止まらず、『不夜城』(で描かれた新宿歌舞伎町)に止まらず、世の中全体が身も蓋もないものになっています。この作品で描かれた人の心の闇、暗黒すらも敷衍され、道端に転がっているのがいまの世の中です。

さて、生き延びた劉健一は、その身も蓋もない世界で如何に生きるのか。

魂の片割れとも思った女を自らの手で殺した劉健一。その姿に、船戸与一の『猛き箱船』の、シャヒーナの死を経た香坂が重なります。続編の『鎮魂歌』で、彼はきっと氷のように冷たい男として登場するはずです。

不夜城 (角川文庫)

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