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小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2009-11-05

[] C・ダグラス・ラミスガンジーの危険な平和憲法案』を読む 19:46

 C・ダグラス・ラミス『ガンジーの危険な平和憲法案』集英社新書、2009年8月刊

Isbn:9784087205053

 不思議な本でした。

 ガンジーの独立についての構想の異様ともいうべきラディカルさは、今回のこの本ではじめて知りました*1。それだけでもこの本は読む価値があります。ガンジーが考えていた「独立=自立」とは、インドの70万の村ひとつひとつを自立した共和国にするというのですから。

 想像してみてください(ジョン・レノンみたい)。70万の共和国! そのひとつひとつが主権をもちます。たとえ、村が集まって「タルカ」をなし、タルカが集まって地域をなし、地域が集まって州をなし、州が集まって連邦をつくるとしても、州や連邦に権限や強制力はなく、村のために助言と提案をするだけ。あくまでも主権をもった村=共和国が全インドを埋め尽くす。すごい。

 ガンジーは、インドの村の平均人口が400人くらいと言っています[77頁]。インドの1950年の人口が約3億5000万人ですから、ガンジーのいうように70万の村があるとすると、ひとつの村の人口は約500人。もちろん当時でも都市の存在が平均を押し上げていますから、たしかに、村の人口は平均400人ぐらいになるでしょうか。

 この400人という数字がポイントです。このブログの読者ならピンとくるでしょうけれども、ちょうどレヴィ=ストロースのいう「真正な社会」の規模です。つまり、ガンジーは真正な社会を共和国とし、非真正な社会から権力や主権を奪い取り、そのことによって非真正な社会から暴力を剥ぎとって霧散霧消させようと構想したわけです。再びすごい。

 これはたんなる「直接民主主義」の実現や「地方分権」とはまったく違います。400〜500人の、主権を持った共和国ですよ。これは、5万人や数十万人の自治とか地方主権とか直接民主主義とはまったく性質を異にしています。そして、それこそがこの本で紹介されているガンジーの構想のラディカルさのポイントです。

 けれども、ダグラス・ラミスさんは、独立前のインドや明治時代のようにほとんどの人びとが村に住んでいた時代ならいざしらず、農漁村も産業資本主義システムに完璧に組み込まれた現代社会では、ガンジーの村中心の「逆さま国家」の実現可能性はないといい、村の代わりになるのが「市民社会」だとしてしまいます。

 ダグラス・ラミスさんは、「市民社会」を、自分の前著『ラディカル・デモクラシー』から引用して、つぎのように言っています。

 大衆社会とは違い、市民社会は一個の群ではなく、公式および非公式の多様な集団や組織の複合体であり、そこに結集する人びとの目的も政治、文化、経済と多種多様である。[148頁]

 そして、市民社会は、「国家を乗っ取ったり取って代わることをせず、国家と立ち向かい、国家を置き去りにし、国家をコントロールする」[149頁]点で、ガンジーの逆さま国家思想と似ていると言います。しかし、この「市民社会」が「非真正な社会」であるのは明らかです。これでは、真正な社会(これは現代の都市でも可能です)が主権をもって自分たちのことを決めていく*2という、ガンジーの逆さま国家思想*3の本当のラディカルさはなくなり、ただの平凡な「ラディカル・デモクラシー」になってしまいます。

 ガンジーの構想のラディカルさを紹介したあと、そのラディカルさを消去するという意味で、不思議な本でした。

*1:ガンジーの『わたしの非暴力 1・2』(みすず書房)を読んでも分からないですからね。

*2:したがって、国家に立ち向かう必要もコントロールする必要もないし、主権をもつという点で「地域エゴ」ということもなくなります。地域を超えた道路建設とか水利問題とかは、まったく権限のない「州」とかが助言とか勧告をしたりするのでしょうが、意見が一致したときでも、いくつもの共和国(村・ご町内)がお金や労力を出しあって自分たちで建設することになるのでしょう。しかし、意見の相異のあった場合は、外交問題になります! 一つの共和国=村・ご町内も、自分たちの意見を通そうとすることが「外交問題」となると、さまざまな説得と納得の言説を用いなければならなくなるし、内部の400人も自分たちが行うことを自分たちで決めるという主権をもつことになれば、さまざまな意見を言うようになり、その内部でも説得と納得が必要となって、「主権在民」の生きた実地教育の場となるでしょうね。

*3:上の方に行けばいくほど権限や権力がないという意味での「逆さま」です。

都会の自然人都会の自然人 2009/11/06 02:04 文化祭で授業がなかったので、退屈してまた書いてしまっている自分がいますが、何年か前、自分はNHKでガンジーの特集番組と世界中に見られる女性の機織に関してのレポート番組をほぼ同じ時期に見たことがありました。ガンジーの番組で極めて印象的だったのは、ガンジーが糸と糸車、糸車を廻す女性の姿を自らの思想の特権的なシンボルにしていたということです。それを見たときに同時に、自分は世界中の女性の機織の様子をつないでいった番組のことを思い出しました。機織の番組は樹の枝を何本も並列させ、極めて簡潔な機織機(?)にして手作業で縦糸と横糸を編み合わせていく様子が特に印象的なものでした。僕は人類学の門外漢ですが、素人の直感にしたがってしまえば、「糸と糸車、機織、女性」というセットが世界中に普遍的に見られるということは、そのセットがまさに「真正な社会」を出現させるマトリクス(行列、母胎)となるべき何かであるということを指し示していると思えます。糸を扱い、糸車、機織機を動かす女性がそのマトリクスを表現する特権的なフィギュールであるように思えます。それは真正な社会のフィギュールではないでしょうか。女性が編み物(テクスト)を織る。そして織り上げた編み物をすぐに解いてしまう、そしてまた新たに再び編み始める。編み物を織り上げる女性、ペネロペーのフィギュールはひとつのテクストから別のテクストへの生成変化、生成消滅を反復する運動そのもののフィギュール、小田先生がよく書いていらっしゃる例をかませると連歌のように連なっていく変換そのもののフィギュールだと思います。テクスト間の変換を、一つのテクストが死に向かうと思いきや、新たなる生を獲得する運動であると考えるならば、変換には死を生へと反転させる不思議な行列(マトリクス)があるということになります。変換を思考するには、その変換を司る行列(=母胎)を想定するという考え方でいいのかどうかもわかりませんが、とりあえずそのように考えてみます。すると僕は、『今日のトーテミスム』の最終章でレヴィ=ストロースが「ルソーとベルクソン」の重要性を強調してやまないところを勝手につまみ食いして、上述したマトリクスが、レヴィ=ストロースの構造そのものであり、時間の運動を可能ならしめるベルクソン的構造であるというふうに考えてしまいます。糸と糸車、糸車を廻す女性、機を織る女性、本当に美しいと思います。糸車を廻し、機を織る女性から学ぶことが「真正な社会」、真の直接民主制を現実のものとすることへとつながるのかも。再び小田先生の仰っている例を念頭に置けば、そのような美しい女性のフィギュールは「真正でない社会」を束ねるマッチョなシンボル、父性的なメタファーではなく、それとは別の「真正な社会」を編み上げるシンボルなのかも。なんだか世界中の「糸と機織」に着目した人類学的研究なんてあったら、それはそのまま「真正な社会」の実現にダイレクトにつながる研究になるのかもなどと想像を逞しくしてしまいました。そしてアフリカから人類が世界中に広まっていったとするならば、機織が発明された現場はどのようなものだったのだろう、それが伝播していったときの様子、電波に伴う変換の過程はどんなものだったのだろうと思いもします。支離滅裂、トンチンカンかもしれませんが、先生の読書ノートを一読してこんな感想をいだきました。

八島八島 2009/11/09 19:25 はじめまして。
私もこの本を読んでガンジーのラディカルさに驚いたくちです。
そのラディカルさを消去する。確かにそのとおりですが、ガンジーの構想をたんなる夢物語に終わらせないひとつの道として、ダグラスさんは「市民社会」を持ち出したのでしょう。
それが有効かどうかは別として(有効ではないとお考えでしょうが)、どのような方法がありうるとお思いでしょうか?念のためつけくわえておけば、これは「代案を出せ」などとくだらないことを言いたいがためではありません。

oda-makotooda-makoto 2009/11/10 01:19 八島さん、コメントありがとうございました。
ダグラス・ラミスさんは、ガンジーのいう村と市民社会とは「非暴力」と「主権在民」という共通性があり、現在では村に主権を戻すことは考えられないことだから、受け皿になるのは市民社会だと言っているのに対して、上のエントリーで私がいいたかったのは、400人の村と数十万人、数百万人の市民社会では、「非暴力」も「主権在民」もまったく異なるものになってしまうから、市民社会は受け皿にならないということ、それが真正な社会と非真正な社会の違いだということです。ダグラス・ラミスさんも、村での非暴力は日常的な当たり前のことだと言っています。そこでは、たとえ暴力沙汰になる恐れがあっても、たいてい、話し合うことをするということです。しかし、市民社会ではそのようなことは当たり前のことではありません。そのための制度や空間やメディアを作ることが必要となるし、数十万人の規模となるとその話し合いも(制度やメディアに媒介されることで複雑性が縮減され)質がまったく異なってきます。
もし、市民社会の「非暴力」と「主権在民」の重要性を述べたかったのなら、なにもガンジーの構想を引き合いに出すことなしに言えることだし、質の異なるものになる以上、引き合いに出すこと自体、奇妙なことというか不思議なことだというわけです。
ガンジーのラディカルさに驚いたならば、そのラディカルさを本気で活かす道を考えたいと思っています(ダグラス・ラミスさんは本気で活かそうとしていないようです)。ガンジーの村中心の構想は、アナクロニズムであり、村を理想化した本質主義だという批判があることは承知しています。けれども、そのラディカルさを活かすのであれば、過去の村ではなく現在の都市にも400〜500人の社会を設定して、そこに主権を戻すという「想像」を少なくともすべきだったし、そのほうが面白いし、そしてそれは(それこそ「普通の国家」ではありえませんが)実現可能なことだというのが、私の主張でした。

八島八島 2009/11/11 09:54 お返事、ありがとうございました。
エントリーの主旨は理解しているつもりです。

>そのラディカルさを活かすのであれば、過去の村ではなく現在の都市にも400〜500人の社会を設定して、そこに主権を戻すという「想像」を少なくともすべきだったし、そのほうが面白いし、そしてそれは(それこそ「普通の国家」ではありえませんが)実現可能なことだというのが、私の主張でした。

こちらですね。面白いことというのは同意いたしますが、私のちっぽけな想像力では「実現可能」とまではとても思えないのですよ。(実現できればいいと思っていますが)
いずれこちらのお話が詳しく展開されることと思います。これからも楽しみに読ませていただきます。

吉村幸喜吉村幸喜 2009/11/18 22:07 はじめまして。四国の山奥で農業で現金稼いでいる百姓です。セルトーの検索でたどり着いて以来勉強させてもらってます。学術的な知識も言葉の使いまわしもできませんので恐縮しながらのコメントです。
もし上のような状況になったらと想像してみました。ご存知のように田舎の小さなコミュニティは俗に言う社会的なルール(非真性的な?)とは別に働くルールや力関係が強く働いています。現在では幸いなことに「ムラの力」が弱ってきているので私のような資本もなく歴史のないものでもなんとか暮らしていけますが、どのような形であれ制度化されたものが侵入してきて、政治的な意志というか志向をはっきりと試す場所ができるととたんに息苦しい力関係が強化されてきそうで少し腰がひけてしまうなあと感じました。もちろんその意味では主権在民の練習の場にはなるでしょうけど、裏に隠れている力関係が強化されそうだなあと感じました。そうなると職住の場が狭い範囲に限られているので(たとえば親の職場の序列が学校における序列にアカラサマに反映されます)弱者は逃げ場がなくなるかもと思いました。

余談ですが、田舎のムラからもとりこぼれてしまうような連中が存在します。メディアにも公式文書にも表へ上らないですが、贈与的関係で助け合い、情報交換し、拾い仕事(賃仕事)を探し、といった緩やかなネットワークがあります。
この仲間のあいだで先生のHP上の論文も興味深く拝見させてもらってます。自分たちの世界をつくったり内在化する言葉に接する機会が街とは違って少ないのでこのようなブログや古本にはずいぶん助けられています(私たちの理解度や習熟度は別にして)。
無言で覗くだけではだめだなあと感じ、今回は思い切ってコメントしました。稚拙なお礼を兼ねた反応だとご理解ください。
それではこれからも楽しみに「なんとかやっていく」方法をあぶりだすために読んで行きたいと思ってます。
(的外れは重々承知ですが文章でまとめる能力がなくてごめんなさい。)

oda-makotooda-makoto 2009/11/19 13:00 吉村幸喜さん、コメントありがとうございます。
こちらこそ、読んでいただいていると書いていただくだけで励みになります(ただ「先生」という呼称は慣れておらず、むずがゆいのでご勘弁を)。

>ご存知のように田舎の小さなコミュニティは俗に言う社会的なルール(非真性的な?)とは別に働くルールや力関係が強く働いています。現在では幸いなことに「ムラの力」が弱ってきているので私のような資本もなく歴史のないものでもなんとか暮らしていけますが、どのような形であれ制度化されたものが侵入してきて、政治的な意志というか志向をはっきりと試す場所ができるととたんに息苦しい力関係が強化されてきそうで少し腰がひけてしまうなあと感じました。

と書いておられますが、確かにそうなんだろうなあと思います。ただ、歴史学や社会学の研究によっても、そのような「ボス政治」や「ムラの力」は、とりわけ戦後になって逆に村の自治能力が喪失した結果だということ、つまり日本中の農村を保守の票田にするために(農村は社会主義政党の支持基盤でしたから)、援助金漬けにした結果、外部から(つまり国から)お金を取ってくることが「ムラのため」になってからだということが言われていますし、僕もその見方を支持します(「利権」があるからそれを独占しようとするわけですから)。
 ですから、おっしゃるように、村の自治能力が壊れたままで、自治や主権をといっても、それが練習によって回復するかどうかはあやしいかもしれません。そして、都市の町内会はそのような自治の経験すらないのですから、もっと大変です。ただ、そのようなリハビリをあきらめるかどうか、それを自分たちで決めることからはじまるのでしょう。

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