「共同体」のイメージ

Morutanさんが、2月17日の日記に、

なんだかトラックバックがうまくいかないのでこちらにリンクを置いておきます。
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/35314889.html

というコメントをくださいました。そのリンク先の「muse-A-muse 2nd」で、このブログの記事が取り上げられています。ありがたいですね。
そこでのコメントに、「代替不可能性が連帯を創りだす」ということについて、

代替不可能性は社会的連帯を創り出す(あるいはそれに基づく)ということなんだけど、これに関しては少しウザそうな田舎的連帯(cf. ゲマインシャフト)を連想するけど、それとは違うのだろうか?

 よくわかんないけど、そういうことにして話を進めると、そういう繋がりって良いところもあれば悪いところもあるように思う。良いところとしては今までの流れで出てきた感じのもので、悪いところとしては田舎的な共有が前提になってそこに何でもかんでも開示したり共有したりしなきゃいけないという圧力が加わること。で、そういうのから外れるとハブられる(情報・物財などを遮断される)。

とありました。私もここで書かれているような「田舎的連帯」は苦手です。人と人との「つながり」が大事といいながら、ベタな関係は嫌いです。自己啓発セミナーやアルコール依存症のセルフヘルプ・グループについてのエスノグラフィーを読んで、みんなの前で抱き合ったり、自分のことを告白したりとか読むと、「よくそんなことするなあ」と読んだだけで恥ずかしくなります。また、社交的でもなく、駅で同僚の姿を見ると、たいてい見つからないように違う車両に乗るような人間です(嫌な奴ですね)。
 しかし、「ウザそうな田舎的連帯」というイメージは具体的にはどんなものなのでしょう。もちろん、ちゃんとした説明ぬきで「代替不可能性による社会的連帯」などといえば、当然のように出てくるイメージでしょうけれども。
もう15年以上前に書いた「閉じた共同体のイメージ」という論文(ウェブサイトの「小田亮の研究ホームページ」にアップしてあります)にも引用した、池内紀さんの『悪魔の本』(講談社現代新書、1991年)に書かれている、つぎのようなイメージでしょうか。池内さんは、ヨーロッパの魔女信仰(ウィッチクラフト)および魔女狩りの舞台を次のように説明しています。

小さな町。いつもどこかから自分を見張っている視線がある。いつもどこかに、こちらをうかがっている眼差しがひそんでいる。ひそひそとささやきかわす声がする。誰もが親しい隣人であり、隣人の特権で、たがいに何もかも知っている。昨日のことも昨年 のことも三十年前のことも承知している。親しみの名のもとに、たがいに監視しあっているような共同体。(92頁)

 私は最近、このような共同体のイメージは、E・W・サイードが批判したオリエンタリズムにおけるオリエントのイメージと同じように、近代西欧ブルジョワ白人男性の主体を形成するために創られた他者像だと主張しています。池内さんは、このような田舎町を訪れたり滞在したりしたことはあっても、オリエントを旅したオリエンタリストと同様に、他のたくさんの本に書かれている上のような共同体のイメージを引用・模倣しただけだといえるかもしれません。たとえば、探偵小説でよくある、都会から田舎にやってきた探偵が感じる、村人すべてが「ぐる」であるかのようにたえず誰かに監視されているといったイメージの模倣ということです。
 しかし、「親しみの名のもとに、たがいに監視しあっているような共同体」なんて、どんな社会、どんな時代にもなかったでしょう。そのような監視による規律の内面化が登場してくるのは、近代になってからです。
 また、人々が同質で、すべてを共有しているというイメージも、都会に住む「近代人」が、自分たちを「個性」のある自立した「個人」=市民と規定するために創りだしたものです。人類学が明らかにしたように、「未開社会」の思考は、同じローカルな共同体に暮らしていても多様で、個人間の差異や利害対立が当たり前のように存在しています。ウィッチクラフトは、このような個人間の差異や対立があるから生じるわけです。
むしろ、近代はそれを均質化していったのです。近代になって、大多数が労働者かつ消費者となり、同じような思考と生活をするようになったにもかかわらず、合理的な「自己選択」の主体という自己のアイデンティティを形成するために、田舎の共同体は同質的だという鏡像が必要だったというわけです。また、採集狩猟社会にも「私有」や「個人の権利」があることは、これまた人類学的研究が明らかにしています。自分の権利について一歩も譲らずに主張するのが、最も「未開」とされている社会での議論です。それが終わった後で、それを分配したり贈与したりするわけです。そういった交換が連帯や社会的なものを作っていくわけですが、「私的所有の権利」(近代資本主義のそれとは異なっていますが)のないところに、分配も贈与も成立しようがないでしょう。「共有」は、「私有」を基礎にした分配や贈与の結果にすぎないのです。
人々が同質で個人が埋没しているという共同体のイメージは、自分たちが「個性的」で自立している合理的な主体だというアイデンティティを形成するためのものですが、これまたオリエントのイメージと同様に、ノスタルジックに構築されたユートピアのイメージにもなります。つまり、「自立している合理的な個人」が、「孤立して自分の利益だけを追求する個人」とされると、その反対像としての共同体は、すべてを共有して助け合う共同体というイメージになります。そこでも、実際の共同体がすべてを共有なんかしていないことが無視されます。オリエンタリズムオクシデンタリズムオリエンタリズムの二元論はそのままに価値を逆転させたもの)は同じ構図から創られます。
 このようなオリエンタリズム的な二元論を完成させたのが19世紀の社会学でした。ゲマインシャフトゲゼルシャフトの二元論はその典型です。そのような二元論において、自分たちの住んでいる都市=市民社会アイデンティティを形成するために、都市=市民社会の反対像=鏡像として、田舎の共同体を「全人格的・没個人的な結合による同質的で閉鎖的な集団」と規定したのでした。オリエンタリズムの二元論は、少なくとも学問の世界では、サイードの批判以降、つねに批判の対象となっていますが、社会学の「市民社会/共同体」の二元論のほうは、いまだに健在です。社会学者は、いまも「共同体の全人格的な絆が崩れて」と、田舎の共同体を実際に知らないのに、何の疑問もなしに書いています。まあ、社会学を誕生させた二元論ですからなかなか対象化できないのでしょうが、人類学を誕生させた「文明/未開」というオリエンタリズム的二元論は批判されてそのままでは使えなくなっているわけですから、社会学者から自己批判が出てこないのは不思議です。
 以上が、いまの研究テーマのひとつである「共同体という概念の脱/再構築」のうちの共同体概念の脱構築ということです。しかし、共同体という概念の再構築も必要です。ちょうど、「文明/未開」という二元論を脱/再構築して、レヴィ=ストロースが「栽培された思考/野生の思考」という見方を提示したように、(市民)社会/共同体、ゲマインシャフトゲゼルシャフトというオリエンタリズム的二元論を脱/再構築することが重要となるわけです。ポストコロニアリズムオリエンタリズム批判は、ただ単に二元論を批判して終わりという傾向がありますが、それは往々にして自文化中心主義となるか、松田素二さんのいう「異質化の罠」*1に陥りがちです。ここでも、(脱)構築主義本質主義批判だけではまずいのです。共同体の概念の再構築とは、たとえば、「閉じられた共同体」というイメージを、「開かれたアソシエーション」などに変えることではありません(それは自分たちのもつ「開かれた」という肯定的なイメージを投影しているだけです)。オリエンタリズム的な二元論が想定したような、固定された境界によって「閉じられた共同体」のイメージは、自分たちのもつ否定的な部分を他者に投影して創られたフィクションだけれども、境界がなく開かれていたというユートピアを作り直すのではなく、その都度、自分たちの生活の都合に合わせて境界をつねに引きなおしていたことの意味を盛り込むことが、再構築と言っていることです。また別の例を出せば、「私的所有のない共同体」という概念を脱構築し、同じように私的所有していたんだとする地点(似非普遍の地点)に留まるのではなく、でも、その私的所有は近代資本主義の私的所有とはまったく異なっている、どちらが個人の尊厳を大事にする私的所有なのかという、現在の支配的イデオロギーを揺さぶるような問いを含んだ再構築が必要だということです。
 また長く、しかもかちかちになってしまいました。次回は短くやわらかめに(って毎回思っているんだけどね)。

*1:構築主義本質主義批判において、植民者/ネイティヴという二元論を脱構築した結果、あたかも支配者と被支配者が対等に交渉していたかのように描くことで、厳然と存在する支配‐被支配関係の現実を無化してしまうという罠