「もてる」という基準と「かっこいい」という基準

 きのう研究室に若手の人類学者のTさんが訪ねてきて、「人類学の失われた10年」についての話を聞きたいという。でも、話は、最近の若い研究者は、自分が評価されるときや人を評価するときの基準というか軸として、「もてる/もてない」という基準=軸しか考えていないのではないかという話になった。「もてる/もてない」という基準は、「売れる/売れない」ということでもあり、市場原理の基準である。そのような基準一色になっているのは、何も若い研究者だけではないかもしれないが、市場原理主義の蔓延という時代的な要因と、若い頃のほうが「もてたい」「売れたい」という欲望が強いという世代という要因とで、若い研究者のほうが「もてる/もてない」という基準に染まりやすいということはあるかもしれない。
 私も若いころには「もてたい」「売れたい」という欲望が人並み以上にあったと思う。しかし、それ以上に気にしていた評価の基準があった。それが「かっこいい」かどうかという基準だ。「もてる」「売れる」に越したことはないが、それよりも「かっこいい」ことのほうが大事だったと思う。しかし、「かっこいい」という評価の基準が、どうもいまは忘れられているというか、「もてる/もてない」という市場原理の基準に飲み込まれているような気がする。
だいいち、顔のない関係やどうでもいい人たちから「好き」といわれて「もてて」も、たいしてうれしくはないだろう。それよりも、自分が好きな人から好かれたり評価されたりするほうが比べものにならないくらいうれしいはずだ。
論文でも、売れる論文よりもかっこいい論文を書きたいといまでも思う。若い頃は、かっこいい論文を書けば、売れる=もてるはずだと勘違いしていたけれども。もちろん、不特定多数に読んでもらう、売れる、もてることを否定しているわけではない。広く読まれるに越したことはない。かっこよくてもてることは悪いことじゃない。ただ、すくなくとも「もてる=売れる」以外に、それとは違う基準を持っていることが大切だということだ。そして、「もてる」と「かっこいい」とは違う基準だと分かっていることも大事だと思う。そして、いまでも、自分の中では「もてる」ことより「かっこいい」という基準のほうが上にある。
そういうと、それって自分の本や論文が売れないひがみじゃないんですかと言われそうだし、「かっこいい」にあまりこだわって、広くは読まれないようなものを書いているより、ちゃんと市場に評価されるものを書くことの重要性も半分はわかってきたつもりだ。そして、市場で売れるものを書く才能のないことを棚に上げていえば、しかし、それは、「違いが分かる」ということがあっての話であり、それが半分以上になってはだめだろう。
いつの頃か、学者・研究者が狭い学者共同体の内輪向けに書いていて、売れる奴はだめだとぼそぼそひがみで言っているということへの批判が一般的になってきた。その批判は確かに半分は当たっている。けれども、それも半分だけだ。何事にも基準が複数あることを認め、「半分だけ」と考えることが、市場原理がますます蔓延している時代にあっては必要だろう。
しかし、きのうはそんな話で終わったけれども、「人類学の失われた10年」とどうつながっていたのか、さっぱり思い出せない。Tさんは来た目的は果たしたのかな。