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小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2008-04-05

[] 気になる言葉シリーズ・第2弾――「他人に迷惑をかけないなら、何をしてもいいだろ」 20:13

ローランさんがコメントを下さったので、調子に乗って「気になる言葉シリーズ」の第2弾を。取り上げる言葉は「他人に迷惑をかけないなら、何をしてもいいだろ」って言葉です。気になるのは「何をしてもいい」という部分ではなく、「他人に迷惑をかけないなら」というところです。つまり、「他人に迷惑をかける」かどうかということが、このように重大な基準となっているのは、どこかおかしくないかと言いたいわけです。「他人に迷惑をかける」ことがそんなにも避けるべき悪いこととされているのはどうしてなのでしょうか。

 なんらかのかたちで他人に迷惑をかけないで生きていくことは不可能でしょう。もちろん、だからといって、なるべく人に迷惑をかけないで暮らすように努力することは悪いことではないだろうと思われるかもしれません。しかし、人に迷惑をかけることから人との関係が作られていくわけで、迷惑をかけないということは人とのつながりを否定してしまうことになります。もちろん、ひとに迷惑をかけることを奨励しているわけではなく、たとえば、電車の中で背中の荷物をおろさずにひとに押し付けている行為なんていうのは、別にお互いにあなたとつながりなんてもちたくないっていう関係でなされる迷惑だから、やめるに越したことはありません。ただ、混雑している電車では、そこに乗っているだけでお互いに迷惑であるわけで、それを「お互いさま」と感じることで公共圏なるものが作られるわけです。

 そして、「他人に迷惑をかけないなら、何をしてもいい」という言い方の背後には、自由というものを「選択の自由」としてのみ捉えて、「他人に迷惑をかけない自己選択」こそ〈個〉の尊重だという思想があります。実際には、どのような選択も他人に迷惑=影響を与えるわけですが、そのような迷惑=影響をもちゃんと計算して、最も自分にとって利益の大きな選択をすることが、自律的で自由な主体の証というわけです。そこには、他人への迷惑は、自分の利益にならないということが含意されています。

 最近、「迷惑をかけない」ためにということを理由にした出来事がありました。まず2月には、プリンスホテルが、周辺住民や他の泊り客に迷惑をかけないためにという理由で、司法の決定にも逆らって日教組の集会の「グランドプリンスホテル新高輪」の予約を取り消すということがありました。そして、今回の映画「靖国YASUKUNI」の上映中止を決めた映画館も、理由として「観客や近隣に迷惑をかける」ということを挙げています。「安全・安心」や「迷惑をかけない」ことが、他の何よりもまして大きな価値となっているからこそ、ホテルも映画館もそのような理由を持ち出せば理解が得られると思っているわけです。もちろん、街宣車で抗議をすると脅す右翼団体を非難したり、自主的に上映自粛を決めた映画館や予約取り消しを決めたホテルを批判したりすることは間違っていないでしょう。しかし、ホテルや映画館が「集会の自由」や「言論・表現の自由」を侵害していると批判することはできません。憲法で保障されている「集会の自由」や「言論・表現の自由」は、国家権力がそれを侵害することから守っているわけで、たとえば、映画館が「客が入らない」という理由である映画を上映しないことや、民放テレビ局が、視聴率を取れないという理由で特定の番組を流さないことは、まさに「選択の自由」です。街宣車がきて騒音をまきちらす事態になったとき、ホテルや映画館に「迷惑だ」とクレイムがくることは、ホテルや映画館の利益にならないのですから。

 今回の事件で、よくヴォルテールの言葉とされる「私はあなたの意見には反対だ。しかし、あなたがそれを言う権利を、私は命にかけて守る」という言葉が引用されています*1。もちろん、その言葉は、文化庁助成金が使われているから、「税金の使い道」をチェックするための国政調査権という名目で試写を要求したアホな国会議員たちへの批判として向けられるべきものです。そもそも仮にその映画が日本という国家を批判するものだったとしても、その言論や表現の自由を守るために税金を使うことは当たり前のことです。「美しい日本バンザイ」みたいな映画だけに助成金が使われるほうがよっぽど問題でしょう。ただし、このヴォルテールの言葉を批判の矢としてホテルや映画館に向けることはできません。ホテルや映画館の公共性などといっても、いまの社会では、私企業としての自分の利益のための「選択の自由」のほうが大事であるのですから。私たちがすべきことは、「集会の自由」や「言論・表現の自由」を根拠にした批判の言葉をホテルや映画館に向けることではなく、そのような「選択」がホテルや映画館にとって、むしろ利益にならないということを思い知らせることでしょう。私個人は、二度とプリンスホテルには泊まらないことを決意し、周囲の人たちにも、宿泊や結婚式のときにプリンスホテルを利用することを思いとどまらせるようにしようと思っています。同じように、映画『靖国YASUKUNI』を上映する映画館に見に行きますし、上映中止にした映画館はなるべく行かないようにしようと思います(ホテルとは違って他に選択の余地がない場合もありそうですが)。「選択の自由」には、「選択の自由」で対抗するしかないわけです。

 ようするに、問題は、ホテルや映画館に「迷惑だ」というクレイムをいれることを当然のように受け入れてしまい、ホテルや映画館側に、それを理由に集会や上映を取りやめるほうが利益になると思わせてしまっている私たちのほうにあるといえるでしょう。いまの市場社会では、憲法が国家権力による侵害から「言論・表現の自由」を保障してくれていても、実際に私たちの「選択」を保障してくれるわけではありません。そっちのほうは、「選択の自由」の名の下にせばめられています。そのような社会にあって「言論・表現の自由」の恩恵を得るには(ヴォルテールのように「命をかけて守る」なんて気張らなくても)、まず、「選択の自由」を私たちも行使して(ただし、安くて便利という経済的=勘定的合理性による選択ではなく、「気にくわねえ」という感情的合理性によって)、「不買」をしながら、それと同時に、「迷惑をかける」ということが生きていくうえで当たり前のことであり、お互いさまであること、そして「迷惑」をかけるかかけないかを判断の基準としてしまうことが、人とのつながりを切断してしまい、けっきょくは私たちの「自由」を無意味なものにしてしまうことを、頭のどこかに置いておくことが大事でしょう。

つまり、「他人に迷惑をかけないなら、何をしてもいいだろ」という言葉は、かえって私たちの「自由」をせばめてしまっているわけで、プリンスホテル「不買」運動とともに、この言葉の追放からはじめないとね。

*1:この言葉は実際にはヴォルテールの言葉ではないようですが。私自身はこの言葉はちょっとヒロイズムが入っていて、それほど好きな言葉ではありません。そんな大げさなことを言ったりしたりしなければ「言論の自由」が守れないとしたら、私のような勇気のない普通の人間にとってはそれこそフリーライドするしかありませんからね。

ローランローラン 2008/04/08 03:12  「他人に迷惑をかけないなら、何をしてもいいだろ」って言葉は、僕も嫌いな言葉です。すべての行動が「他人に迷惑をかけないならば」という基準に収斂されていくのは、なんかおかしいなと感じてました。その「なんかおかしい」という気持ちは、たぶん、「人に迷惑をかけることから人との関係が作られていくわけで、迷惑をかけないということは人とのつながりを否定してしまうことになります」と小田さんが述べたようなことを無意識に察知していたためではないかと思います。僕の身の周りの人で「人に迷惑をかけないように」行動しようとしている人がいますが、身近な人にそれをやられると寂しいところがありますね。拒絶されている気がしますから(実際にそうかもしれないところが怖いですが)。そういう人と接していると、たまには頼ってくれていいんじゃない、と思うことがたまにあります。
 今の世の中では、「人に迷惑をかけること」は「甘え」とか「依存」とか呼ばれて病理化されていますよね。でも依存のない恋愛なんか想像できませんし、親子関係もそうだと思います(これ書いていて、前に小田さんが「共依存」の話をしていたの思い出しました)。たぶん、「甘え」とか「依存」という言葉は、主体的で自分の選択に責任をもてる個人という今日的な倫理を肯定するための仮想的として登場した(か病理化された)言葉なんでしょうね。こういうことは、意識しないと気づきづらいですね。ニーチェやフーコーはなかなかすごいことをしたのだなと思いました。

>(ただし、安くて便利という経済的=勘定的合理性による選択ではなく、「気にくわねえ」という感情的合理性によって)

 勘定と感情をかけているんですね。こういう言葉(言葉遊び)は好きです。あと、「気にくわねえ」という言葉も個人的には好きです。今どきなかなか聞けない言葉ですけど。僕個人としては「良い/悪い」という基準より「好き/嫌い」という基準で物事を判断する人と接している方が好感がもてるのですが、その違いを考えてみると「良い/悪い」で判断する人びとは、「社会的に」良いか悪いかということを判断しているのであり、そこに語る人の意見が存在しない。反対に「好き/嫌い」の基準では、「俺は気にくわねえんだ」というように、そこには自分の意見や感情しか存在していないという違いがある。たぶん、「みんなが〜だといっているから」ではなく「俺が〜だと思ったから」という説明の仕方のほうが、個人的には納得できるし信頼できるのだと思います。あ、余談ばっか書いている…

養田養田 2008/04/09 02:30 こんばんは。最近、頻繁に更新されているようなので楽しみにさせてもらっています。

私が、「迷惑」でまず思い出すのは「タバコ」のことですね。タバコを吸わない人が迷惑を被っているという最近のあれです。仲間内にタバコを吸う人がいると、それこそ鬼の首を取ったかのように騒ぎ立てる最近の風潮を見ていると、「そこまで言わなくてもいいのになぁ。」と思います。私は恋人がタバコを吸う人だったら、「あなたの体に悪いからやめてね。」と言ってあげます。「私を含めた皆に害が及ぶし迷惑をかけるからやめて。」とは言いません。それは、相手の配慮の問題だし、小田さん風に言えば「迷惑」によって作られる関係もあるように思えるからです。それを、頭ごなしに「タバコを吸う人は皆に迷惑をかけるからどこか行って吸って。」なんて言ったら、ローランさんがおっしゃっているように、「良い/悪い」の基準だけが適用されていてなんだか嫌な感じがします。「あなたは、私に気を遣ってくれるだろうから言いますけど、私はタバコの匂いが嫌だからやめて下さい。」と言われた方がよほど納得がいきます。

タバコを吸っている人って、周りの非喫煙者に対する「甘え」でそれをやっているような気がします。それは、決して悪い意味ではなくバランスを持った人間関係に依存しているように思えますね。

oda-makotooda-makoto 2008/04/09 22:58 ローランさん、養田さん、コメントありがとう。なんか、好意的なコメントをリクエストしたみたいで(したんですけどね)申し訳ありません。「迷惑」を掛け合うことは「贈与」と同じなんだということが主旨でした(ギフトが「毒」という意味もあったというモースの指摘思い出してください)。ただ闇雲に迷惑をかけたり贈り物をしてもだめで、両方ともけっこう面倒くさいことですが、その技法こそが文化というか、洗練ということなのでしょう。

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