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2017-09-21

筒井康隆「文学部唯野教授」(岩波書店)-1

 小説を読みながら、政治や文化の知識も教えられるというのは稀有なこと。「純文学」と呼ばれるような小説ではめったにお目にかからず/かかることが少なく、むしろ多くのエンターテイメント小説で見ることが多い。吸血鬼退治のバイオレンス小説で人類の起源が論じられたり、密室殺人の謎ときにハイデガーフーコー議論が紹介されたり。このエンターテインメント小説では20世紀の文学理論が紹介されるのである。小説の中で文学理論が出てくるのは面妖であるが、主人公が英文学教授でその講義を実況したのであるとすると納得する。講義で取り上げられるのは

・印象批評

・新批評(ニュークリティシズム)

ロシアフォルマリズム

現象学(フッサール

・解釈学(ハイデガー

受容理論

記号論(ソシュール

構造主義レヴィ=ストロース

ポスト構造主義(デリダ

 後期の講義に登場すると予告されながら実況されなかったのは、フェミニズム精神分析マルクス主義フーコーであり、教授自身による「虚構理論」。

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 とりあえず西洋に限ると、文学について語るのは前からあり、貴族のパーティやサロンでの駄弁であった(その雰囲気を記録しているのが、ラ・ロシュフーコーの「箴言録」)。それが大学で語られるようになり(「文学部」は中世にできたが古典を講話するもので、現代文学や詩を講義するようになったのはいつからだろう。夏目漱石の留学時にはロンドンの大学ではやっていたのかな)、今までの印象や主観で文学を語ると普遍性がなく恣意的だということになる。そこで、他の学問の方法や成果をとりいれて「科学的」になろうとしたのが、上記の文学理論の歴史。参考にしたのは、歴史、宗教哲学美学言語学記号論民俗学政治学心理学など。で、その歴史をこの講義で見ると、他の学問や科学の方法を取り入れた結果、最初に批判したはずの印象批評、好き嫌いの評価と同じところにいます、ぐるぐる回って同じところに戻っちゃいましたね、とまとめられるか。

 発売と同時に読んで(たしか店頭に並んだ初日1990/02/18に買ってその日のうちに読了)、そのときは現在進行中のことが書かれているなあと思ったのだが、四半世紀がたつと、バブルの最後のころの浮かれまくった時期の記録だなあと懐かしく回想する。1980年代後半から(とくに浅田彰構造と力」のブームのあと)に、上記の哲学者が注目されて、さまざまなところに登場したのだった。彼らの登場によって消えたのはマルクスマルクス主義ソ連の崩壊や東欧の脱共産主義はそのあととはいえ、アフガン侵攻と中越戦争ゴルバチョフペレストロイカでもって失望が広がっていたのだった。そのときに、とりわけ構造主義ポスト構造主義の「どんな立場も取らない」というのは、政治的な立場を明らかにしないでなにごとかを言うのに便利だったのだろう。政治的な挫折を経験していない若者には、政治的な権威の代わりにこれらの個別な哲学者らの言説に寄りかかって物事をだべっていたのだろう。というような、1980年代のポストモダン悪口をしておく。

 さて、それからさらに四半世紀たって、文学理論はどうなったのか。自分はリサーチしていないのでよくわかりません。もしかしたら、1945年以降には問題にしないようにしてきた、「政治と文学」がもう一度クローズアップしているのかもしれない。というか、911311のような21世紀の事件のあと、ポスト構造主義ポストモダンのひとたちが中身のないことしか言えず、古い愚直なリベラルのほうが「正論」をいっているような風潮になっているから。その影響は文学文学者に波及していると思う(思いたい)が、さてどうか。

 あと、小説には「榎本奈美子」という美貌の女子大生を唯野教授が追いかけるという話もある。冒頭から数回目まで登場し、そのあと姿をみせなくなる。唯野が小説家として最初のサイン会をするラストシーンになって、彼女は再登場する。彼女は文学理論に出てくる「理想的な読者」の謂いなのだろう。作家は自作を誤読されることに耐えなければならないが、うれしいのは「理想的な読者」に出会うことなのだね。この話は「聖杯の探索」とまるで同じ。

文学部唯野教授 (岩波現代文庫―文芸)

文学部唯野教授 (岩波現代文庫―文芸)

2017-09-20

筒井康隆「文学部唯野教授」(岩波書店)-2

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 「大いなる助走」で同人誌の世界を風刺した作者は、今度は大学文学部をオワライの舞台にする。アカデミーの人たちが身に着けた権威ほどの知性の持ち主でもなくリーダーシップを持っているわけでもないと暴露されたのは1960年代の大学紛争時。それから20年たった1980年代後半になると、大学や研究室の運営におかしなことが次々でてきて、知性やリーダーシップのみならず常識もなさそうだとみられるようになった。まだセクハラパワハラという言葉はなかったが、研究室に女性を連れ込んで暴行した男性教授がいたり、研究室運営などのトラブルで助教授(だったかな)が教授を刺殺したとか(小説に出てくる「黄色い砂」はその事件のできごと)。作家は大学やアカデミーとは無縁だが、その職につく知己は多く、また多くの情報提供者を得て、このドタバタコメディを書いた。公には批判が多かったが、私的には「この通り、実はもっとひどい」という共感が集まったという。おれは大学やアカデミーには無縁で、小説の誇張をおもしろがるだけだが、その職にある人にはリアリズムなのね。

 饒舌な唯野仁教授がいる。ただのひとと名乗るだけあって、俗物でスノッブで風見鶏で権威には弱い。40代で教授になれたが、その推薦を得るために買収やら接待やらの運動をして、主任教授のごまをすり、ライバルを蹴落としてきた。教授になるととたんに勉強しなくなるものだが、このひとは理論の構築とその実践としての創作をやっている。物語はそのような二面性をもっている唯野教授に半年間に起こる学内のドタバタ。パリ留学中となっている友人を別の大学教授に押し込むための運動、なじみのバーのホステスとの情交、匿名で書いた小説が芥兀賞を受賞、そのためのマスコミの追っかけ、学部の享受たちの嫉妬とやっかみ、エイズ罹患の噂のある助手の発狂などなど。それらの事件が起きるごとに、教授や助教授や講師たちがみっともなく、ハレンチで、幼児的な反応を示す。

 大学教授が職業として確立したのは19世紀になってから(この国では後半になってから)で、大学の数が少なくて教授のなり手も少なかった。職業の担い手がごく少数であり、そのうえ専門用語を駆使して訓練を受けないと読めない文章を書くものだから、彼らは国家と学問の権威を身にまとう。戦後になると、大学の数が増え、ポストの数が増えて、かつてのような厳しい選抜はできなくなり、教授に求められた「モラル」も要求されなくなった。そこらが教授などの研究者集団の質の低下になったのだろう、とこの小説を読んで納得する。幼児性があるものだけが学内政治で勝ち抜いて昇進したのか、学内の政治活動で勝ち抜くと幼児性を持つのか、そこらはよくわからない。まあ、文学理論も混迷したうえで、権威を喪失して、相対主義に出していったみたいだが、それに歩調を合わせるように研究者集団もだめになったのか。救いがないなあとため息をつきたくなるのは、この小説の早治大学文学部教授会や研究室の運営や構成員が、大岡昇平「俘虜記」でみるような強制的な無権力状態でこの国の人がつくる組織にそっくりになるところ。けっしてイギリスのジェントルをベースにしたケンブリッジオックスフォードのような個人主義の組織にならないのだよなあ。

 さてそれから四半世紀。この間の長期不況と高齢化社会は大学の運営にも変化をもたらしたとみえる。twitterでフォローしている大学の研究者のつぶやきをみると、この小説のような幼児性を持った教授などは淘汰されたようで、人事はすっきりしてきたと見える。しかし潤沢な研究費はもらえず、教授たちの事務仕事は増え(代行していた教務員などが削減されたから)、文科省などの改革要求に振り回され、学生の質の低下に悩んでいる。とりわけ文系の予算は削減されるばかりであって、優秀な研究者は私学に異動する。こうなると、1990年の「文学部唯野教授」もノスタルジアの対象になっているかもしれない。

 哄笑しながら読みながらも、すこしいらだたしくなるのはエイズの描き方。なるほど1980年代後半にエイズ感染は大きなニュースであり、社会の関心事であった。そこにはエイズ罹患者への偏見もあった。この小説ではその偏見にとらわれた教授や助教授たちの無知と差別デフォルメされて書かれる。差別する者を馬鹿にしているのはよくわかるのだが、そのうえにエイズ患者への悪意も感じられて、居心地が悪い。(笠井潔オイディプス症候群」でも同じ居心地の悪さを感じた)。

文学部唯野教授 (岩波現代文庫―文芸)

文学部唯野教授 (岩波現代文庫―文芸)

2017-09-19

筒井康隆「フェミニズム殺人事件」(集英社)

 紀伊・産浜のリゾートホテルに作家・石坂は招かれる。ブランドファッションをテーマにした仕事をするためだ。ホテルには優れた支配人に美しい妻、見事なコックらがいて、完璧な接客を見せる。ホテルの会長が招いた客は、作家の他に、助教授、実業家夫妻、大手企業の開発部部長の女性、地元の不動産業者社長など。一元の客はお断りの上、一度に宿泊できるのは6人までというエグゼクティブ向け。みな高価な服で身に包み、グルメで、酒に詳しく、高級なホテルの滞在に一部の隙もない。そういう日本離れした「貴族」的な人々。ただ、辣腕の開発部部長はフェミニズム論客でもあって、父権制社会を強烈に批判し、男性の無自覚な差別を糾弾する。最も使用するのは鋭い舌のみである。

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 さて、全員がそろった翌日から、連続殺人が起きた。まず不動産会社社長が、そして支配人の妻が、最後に開発部部長が。地元の人々は羨望はするものの、あまりに敷居の高いホテルには気軽に出入りできない。部屋のみならず、ホテルにも出入りが困難な二重の密室殺人事件になった。所轄と県警の警察が捜査を開始するが、なかなか進展しない。情報もすくない宿泊客は事件を語りだし、さまざまに推理する。一見関連のなさそうな被害者たちを殺したのは誰か?

 表層はこんなミステリー。まずはミステリとしてきになるところから。

・一泊数万円かかるホテルで、一食数万円かかりそうな食事を、一着数十万円する服を着て楽しむ宿泊客。このような人物たちが登場するミステリーはこの国の作としては極めて珍しい。乱歩の時から探偵小説は無銭の高等遊民白昼夢として書かれてきた。昭和30年代のリアリズムを目指した社会派では、たいていの主人公は安月給で生活に追われる警官か記者。なので貴族や富豪で事件が起きても、捜索するものは貧乏人か薄給の公務員。そういう歴史は今でも続いている。ところが英米ではブルジョアや貴族で起きることで、探偵も金を持つか抜群の知性で彼らから尊敬を受ける者たちだった。なので、このミステリーはとても英米的。それこそ20世紀初頭の探偵小説黄金時代を思い出しました。

・そこらへんが反映されているために、宿泊客やホテルの描写はとてもロマンティック。美貌の女性に独身男性が惚れて、三角や四角の関係ができ、それは角突き合わせないで、優雅で気取った身振りと会話を交わす。そのかわりに、普段ミステリーでは描かれないマスコミと葬儀の様子は背景に退いているもののリアリズムで書かれている。これは、この国のミステリーが事件の関係者の描写リアリスティックで、背景のできごとをロマンティックに描くのと対照的。この二つを合わせて、この小説はとても珍しいところで書かれている(自分の知っている「富豪刑事」「ロートレック殺人事件」は似ていても、ここまでは達成していないので、たぶん唯一)。

・作家の石坂も、その他の宿泊客もこのホテルに滞在する間、上流階級のごときふるまいと装いを通す。石坂が離れている妻と電話するとき、会話の口調は庶民のそれだ。宿泊客は生まれながらの上流階級のマナーをもっているわけではなく、このホテルに滞在している間、上流階級出身者の役割と仮面をかぶる。そして上流階級になり切る演技を押し通す。人はTPOに応じてパーソナリティを変え、複数の人格を演出できる、という認識に基づくものだ。そこから数年前の「夢の木坂分岐点」まではひとまたぎ。もしかしたら、この小説も集団セラピーのごときものであったかもしれない。で、役割と仮面、演技と模倣はこの一連の犯罪の主要テーマであるので記憶にとどめておくこと。

 もう一つ重要なのは1989年初出のこの小説は、「文学部唯野教授」と同時に書かれていること。

・「文学部唯野教授」では、後期の講義で「フェミニズム批評」が取り上げられるはずであったが、書かれなかった。驚いたことにこの小説にその講義がある。西洋にしろ封建時代にしろ、社会では父権がとても強く、女性の権利が制限され、家事育児などの労働が無償で行われ、出産も男の意思で決定されていた。それに抗して女性の権利を尊重し社会の抑圧から女性を解放しなければならない。以上、きわめて粗雑なフェミニズム議論。これが文芸理論で有効になるのは以下の文脈で。すなわち小説は18世紀初頭にパトロンを失って商業化された。同時に小説を受容する層が小説批評を公的に担ってきたが、20世紀にそれが機能しなくなる。読者の大衆化であるし、小説の批判する対抗公共圏(ブルジョアとか貴族とか)が失われたから。対抗公共圏のない批評は私的でタコツボ化して批判機能を失うが、フェミニズムの対抗する父権制社会が文学批評の新たな対抗公共圏になる。というわけだそうだ。ま、フェミニズムもさまざまなスクールに分かれているので、一つにまとめるのは難しい。

・という理論の話だけでなく、「フェミニズム」は殺人事件に深くかかわっている。それは男性と女性の恋愛と性交という場面において。詳細を書くと事件の真相を暴露することになるからここまで。

・石坂がこの産浜ホテルにいそいそとでかけるのは、「6年前のすばらしい夏」の記憶があるため。なにゆえに「すばらしい夏」になったのか。つい最近ホテルにくるようになった松本、竹内、長島らには決して明かさない。ホテルの従業員も口を割らない。最後にようやく「全員が全員を愛した」ことだけわかる。はて、なにがあったのか手がかりは少なく、たとえば石坂がしきりにホテルの支配人の妻を「美しい」と口にするくらいか。最後にようやく「全員が全員を愛した」ことだけわかる。たぶん現在の殺人事件にリンクするなにかがある。この謎は解かれない。そこに向けて読者は想像力を働かせる。

 たいていのミステリーは小説の中で閉じてしまう。これはその逆に、事件の解決後にいろいろ考えることがあり、ほかの本や思想に関心が広がっていく。こういう開かれた読書ができる「ミステリー」「エンターテイメント小説」は稀有。気軽に手を出して、驚愕させられました。すばらしい。

(あとずけでいうと、主人公の脚本家・里井が「こんなに幸福でよいのか」とうっとりする「美藝公」がこの小説の「6年前のすばらしい夏」なのかもなあとも思った。あの小説では誰もが誰もを思いやり敬意を払う関係になっていたから。でも、「美藝公」は1980年初出で9年まえになるから無理か。)


 おおそうかそういうことだったか。この事件では、「6年前のすばらしい夏」の記憶にかかわるらしい重要人物が被害者になったわけだが、そこには「中年の主人公が自分の大切なものを次つぎに失っていく(「残像に口紅を」)」テーマが隠れているわけだ。その喪失感を持った者が最後の章で、謎解きをする。これは事件の関係者による事件の振り返りであり、役割のみなおしであるのだが、これは「夢の木坂分岐点」の集団セラピーと同じだ。インストラクターの指導があって、誰かが別の人を模倣する演技をしながら、他者の理解や自己の発見に到達する。この小説では感情の浄化ではなく、事件の真相に至った。

フェミニズム殺人事件 (集英社文庫)

フェミニズム殺人事件 (集英社文庫)

2017-09-18

筒井康隆「朝のガスパール」(新潮文庫)

 複数のレベルの話が交互に進行する。それを抜き出すと、

「1.現実の筒井康隆と読者たち物語世界外の存在

 2.この小説を書いている第二の自己としての筒井康隆

 3.筒井康隆の第三の自己である榛沢たちがいる世界

 4.榛沢が書く貴野原たちの世界

 5.貴野原がやっているゲーム「まぼろしの遊撃隊」の世界 (P329)」

となる。自分の趣味では順番を逆にしたいのだが(そうするとオールディス「世界Aの報告書」と階層と同じであることが明確になるので)、作家がこのように説明しているからしかたがない。

 と書き上げたところで、構造解析は終了。なにしろ、複数の階層がどのような意味を持っているか、それがどのように次第に解体していくかは、「3.筒井康隆の第三の自己である榛沢たちがいる世界」で榛沢が懇切丁寧に説明しているから。そのほかのことについてもほとんど語ることがないのは、榛沢が「論評」という形式を使って、小説の意図から書き方までを説明しつくしているため。これほど読者サービスの良い小説はめったになく、楽しみながら最新の小説理論を学べるというのは僥倖に他ならない。まあ、4度目の論評では、穏やかな言葉ではあるが作品の意図を理解しないで恫喝する読者(「新聞の購読は止めます」など)を罵倒しているので、さあ享楽的読者は作者の姿勢についていけるかな。

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 あとは作家のエンターテインメントを楽しむに尽きる。ことにヒロインのひとりが貞操を失いそうになると、説教をする投稿が入ってくるところ。これはかつて石坂洋次郎 「丘は花ざかり」の新聞連載中にあったこと(臼井吉見「小説の味わい方」新潮文庫)。たぶん作家の念頭にあったはず。八方を丸く収めるために作家のとったたったひとつの冴えたやり方は・・・。あるいはバブル時代の成金が金に飽かせたパーティシーンを書くと、読者の(愚かな)一部がけちょんけちょんにけなす。怒り心頭に発しながらも、作者はその声にもこたえなければならず、作家のとったたったひとつの冴えたやり方は・・・。そんな細部にこだわってもいいけど、別の方向から重箱の隅をつつくようなことを箇条書きで。

・小説の中には階層があって、上位の階層が下位の階層をコントロールしているわけであるが(それが小説を書くということになる)、5の最下層において1の「物語世界外の存在」によって書かれたテキストが5の階層の登場人物によって批判的に読まれる。そうすると、最下層が最上位のさらに上位に立ってしまうことになる。上位が下位をコントロールするという階層のヒエラルキークラインの壺のようにねじれてしまうわけだ。なにしろ、2の作家の書き方は1の読者の要望に基づいてストーリーを改変していくと宣言し、そのように書いている。となると、この小説全体をコントロールしているのはいったい誰?ということになる。こんな奇妙な仕掛けを持った小説が「ある」というだけで大事件。

・1と2のレベルの壁を破るツールはこれまでは封書のみであったが、このとき(1991年10月)にはできたばかりの電子会議室も使われた(別に本になっている)。そこでは今日のネットの「荒し」とも呼ばれる存在もいた。作家のすごいのはそういう連中を小説に実名で登場させたこと。そのことによって「泉卓也」「岡安誠史」「清水伴雄」「井上宏之」らが虚構の登場人物になった。彼らはこの本がある限り、ずっと罵倒と軽蔑の対象になり続ける。はからずも彼らの物理現実における生命よりも長い命を得たわけだ。そのことを、小説発表後四半世紀たってこれらの登場人物のシャドウである彼らはどう思っているか。

・という具合に、小説と作者と読者の境をなくしてしまったわけだが、さらには他の小説にも開かれている。5の「まぼろしの遊撃隊」の戦闘が行われている惑星は別の小説の舞台であるし、4のゲーム開発者は別の小説の主人公であるし、という具合。そのうえ3において「パーティ」を描いた別の小説が言及される(これは著者名をあげておきたくなった。トルストイとゾラ)。読者は作者同様にこれらの他の本に向かって好奇心を広げるのであって、続けてそれらをこの小説の続きとして読むことになるだろう。そのとき本と本の間の垣根というか境がとっぱらわれて、巨大な作品の一部を読者は読んでいることになる。

・「朝のガスパール」とは何か。ベルトランの詩集「夜のガスパールラヴェルの同タイトルのピアノ独奏曲が美しい)」の引用であるだろうし、作中で2回言及されているように、男性の朝の勃起の謂いであるだろうし、毎朝車に積み込まれたり人が担いだりして配達されるなにものかあるいはその運動そのものであるだろう。まあ、おれとしては「とは何か」と問うことにも、それにこたえることにも興味はなく、別のなにかを指し示しているなどと思う必要はなく、「朝のガスパール」はこの小説それ自身であればよい。

朝のガスパール (新潮文庫)

朝のガスパール (新潮文庫)

電脳筒井線―朝のガスパール・セッション〈完結編〉

電脳筒井線―朝のガスパール・セッション〈完結編〉

2017-09-15

大阪圭吉「とむらい機関車」(創元推理文庫)

 大阪圭吉の創造した名探偵は、「青山喬介」「大月弁護士」「水産試験所所長・東屋三郎」の三人。どれもみな同じ。性格がいっしょで、事件のかかわり方も型通り。東屋氏が担当するのは職業がら海に関係したものになるのが特徴になるくらい。まあ、20代の仕事で、なかなか参考書がなかったとすると、このくらいは瑕疵にならない。


とむらい機関車 1934.9 ・・・ 轢死事故をあまりに起こすので、「葬送機関車」と呼ばれる列車の乗務員は事故のたびに花輪で追悼した。その機関車がある冬、七日おきに豚を轢くという事故が4件も続く。いたずらにしてはあまりに悪質ということで調査に乗り出した。なぜ機関車は豚を轢くのか、なぜ7日おきに起こるのか。それらが解明された後に残る動機があまりに痛ましい。当時は、街灯なぞまずなくて、田舎線路では夜はまっくらだったし、車体があまりに重いので、事故をその瞬間に知ることができない。めずらしく一人称の告白文。これが痛ましさを強めている。法月綸太郎の短編に同じ趣向のがあった。

デパートの絞刑吏 1932.10 ・・・  青山喬介探偵譚。深夜のデパートから絞殺されたうえ植え込みに落下された死体がみつかった。絞殺の時刻と落下時刻には数時間の差がある。デパートでは貴金属の盗難があり、死んだのは貴金属売り場の担当だった。当時の銀座にはデパート(せいぜい5-8階くらい)よりたかい建物はまずなくて、アドバタイジングの方法も今日とは異なる。そこに注意しないと、なんのこっちゃになりかねない。 江戸川乱歩「人間豹」1934年 のラストシーンを参照。

カンカン虫殺人事件 1932.12 ・・・ 青山喬介探偵譚。芝浦の造船所で工員二人が失踪し、うち一名が海上に浮かんでいるのが発見された。その死体を子細に見聞した探偵は、さっそく捜査にとりかかる。まあ、半日もしないうちに殺人現場を見つけ、もう一人の失踪者の行方をみきわめ、なんと犯人も逮捕する。手際のいいこと、でも読者は推理のやりようがない。カンカン虫はドックで鋲を打つ仕事のことをいう当時の隠語だったと思う。

白鮫号の殺人事件(死の快走船) 1933.7 ・・・  東屋三郎探偵譚。商船会社で船長を務めた深谷氏は引退したのちも、自宅を海際に作り、夜ごとにひとりセーリングを楽しむ。ある夜、深谷氏は突然不安がり、なにごとかつぶやいたきり。そして深夜、家を出たあと、海上で撲殺死体で発見された。水産試験所の東屋三郎は、白鮫号というヨットを子細に調べて、事件を勝手に一人で操作する。被害者の奇妙な習慣、現場のヨットの状況、関係者の奇妙な行動が最後にぴたりと一枚の絵に収まる。派手なトリックはなくても、こういう傑作になるのだね。「死の快走船」は改訂後のタイトル。

気狂い機関車 1934.1 ・・・ 青山喬介探偵譚。国鉄の駅で頭を鈍器で殴られた蒸気機関車乗務員の死体が発見される。それを見た探偵は、線路のわきの血の跡を追いながら、もう一人の死者を予言し、行方不明の機関車の行方を推理する。手際の良いこと、でも読者は推理の仕様がない。当時の機関車の運行や整備のイメージがつかないからなあ。給水塔から水を入れるとか、炭水車に石炭を詰め込むとか。鉄道線路のわきは民家なぞなくて真っ暗闇だったとか。

石塀幽霊 1935.7 ・・・ 青山喬介探偵譚。夏の真昼に殺人事件発生。青年が家を覗くと、人が死んだばかり。犯人の後を追うと、白い浴衣をきた人物が塀の間に逃げていく。左右に逃げ道はないのに、浴衣の人物はいなかった。古い高名なトリックにもうひとひねり加えた作品。まあ、それで錯視はしないだろうけどねえ。

あやつり裁判 1936.9 ・・・ 窃盗だの放火だの小さな事件で、被告が有罪か無罪かどうかわからないときに、何度も証言する女性がいる。料亭「ぬま半」の女将だが、なぜ無関係な事件で何度も証人になるのか。なかなか人を食ったお話。

「雪解」 ・・・ 青空文庫になし

坑鬼 1937.5 ・・・ 北海道のとある炭鉱の坑内で、火災が発生。防火扉の向こうで一人の坑夫が閉じ込められてしまった。鎮火まで防火扉を管理している技師たちが次々と殺される。坑内の水飲み場には、閉じ込められた坑夫のカンテラが起き放し。ということは、防火扉の向こうで焼き殺されたはずの坑夫が復讐のために姿を隠している? 驚いたことに鎮火した坑内には死体はなく、落盤の危険があることがわかった。東大工学部卒の中年技師が謎を解く。炭鉱の内部という特異な場所を舞台にした密室殺人事件は今後決して書かれることはないだろう。そこに企業経営も含んだ社会問題をからませ、密室殺人事件を起こすという稀代の傑作。戦前の坑内の様子は次の書で補完しておくのが必須。

新装版 画文集 炭鉱に生きる 地の底の人生記録

新装版 画文集 炭鉱に生きる 地の底の人生記録

炭坑の絵師 山本作兵衛

炭坑の絵師 山本作兵衛


 不満があるのは、枚数の制限された短編に複雑なプロットを押し込めたために描写が窮屈で、ほとんど新聞記事か警察の調書を読んでいるみたいなところ。だれがそれを見ているのかあいまいなところで、事件の全貌を大急ぎでかいているので、たいていの短編の前半はたいくつになってしまう。ときには、解決までその通りに進むので、文章を読む楽しさをあじわえないことがある。

 そのうえの若書きで、人物の描き方も類型になってしまうのだよね。冒頭のように、3人のシリーズ探偵がいても区別できないので、ファンになれないうえ、被害者とその周辺人物への共感もわかないし。ストーリーテリング練習中というのがわるような稚拙さ。冒頭が魅力的でありながら、後半端折り気味になると欠点が1935年以前の作品に多い。

 ここらへんは1936年ころから克服されるきざしはあった。「三狂人」とか「とむらい機関車」とか。もしも戦争で若死にしなかったら、戦後の探偵小説の革命を主導する一人になれたかもしれない、複雑なプロットを解明する手腕は戦後派の都筑道夫のような海外派の領袖になれたのではないか、とそういう期待をこめながら、不幸な作家の作品をよむことになった。

とむらい機関車 (創元推理文庫)

とむらい機関車 (創元推理文庫)