odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

ハルク・ホーガン「わが人生の転落」(双葉社) 世界で一番有名なプロレスラーの栄光と没落を本人が語る。

ハルク・ホーガンの自伝翻訳書。本国アメリカでもベストセラーとなった本書の読みどころは、映画『レスラー』をはるかにしのぐスーパースターの転落ぶり。消えぬ肉体の痛み、息子の交通事故、そして妻の浮気と巨額離婚裁判……。スポットライトを浴び続けたスターレスラーが人生の光と影を初めて明かす。
双葉社

 一般的なところでホーガンの情報をまとめると、
・1980年新日本プロレスに初来日。フレッド・ブラッシーがマネージャーとして帯同。このときはぱっとしなかったが、2回目以降の来日から爆発的な人気を得る。タイガーマスク、猪木、藤波らと黄金時代をつくる。視聴率が常に20%を超えるくらい。人気のあったのは、体が大きく陽性であることもさりながら、日本のプロレスの細かい動きを見につけて来日のたびに新しくなっていったところ。
・とはいえ名勝負の記憶はほとんどなくて、1982年と翌年のIWGP決勝戦くらいかな。アンドレや藤波、長州の試合はほとんど記憶にないや。
・1983年にWWF(当時)のビンス・マクマホンと契約。翌年からの全米侵攻を開始する。1984年第1回レッスルマニア開催。第3回ではアンドレ・ザ・ジャイアントをボディスラムで投げるという「事件」を起こす。あとは1989年の日米プロレスサミット直前にアルティメット・ウォーリアーに負けたのも「事件」。
・1988年以降にアメリカでは反ステロイドのキャンペーンが始まる。プロレスにもその摘発が始まる。ビンスが被告、ホーガンが検察側の証人になることから二人の仲が壊れる。ホーガンはWWFを退団。しばらくハリウッドでTV番組の制作、主演を務める。エリック・ビショフの統括するWCWに移籍。nWoでヒール人気。
WCW崩壊の翌年2002年にWWF復帰。同年のレッスルマニア18回大会でザ・ロックと対決。2005年で退団。このころにはビッグショーにしかでない特別な存在になっていたな。
・2005年から2007年にかけて人気リアリティ番組『Hogan Knows Best』に家族ぐるみで登場。
 このあたりは週刊プロレスで知っていたこと。この本での面白い証言は
・プロレスデビュー前にヒロ・マツダにしごかれる。というかプロレス入りを諦めさせるために、スパーリングで足を折られる。紆余曲折を経てデビューするとき、ゲイのパット・パターソンらにいたずらをしかけられる。「デビューするには俺のモノをしゃぶれ」「試合のあとに掘らせてもらう」など。ホーガンと対戦相手に「勝て」と命じて、20分フルタイム。こんな具合に、レスラーになるためには高い壁があって、なかなかインサイダーにさせなかった。なまはんかな気持ちで入ってくる連中を落とすための仕組みなのだろう(だから「ケーフェイ」や「ワーク」が知られない)。
・「ワーク」の仕組みを入門以前に知っていた。それはリングサイドで試合を見ていたときにわかった。あと、バンド時代に観客を乗せるための「しゃべり」を担当していて、それがのちのパフォーマンスに役立っていたということ。
・「ワーク」とはいうものの20世紀ではそれほど細かい打ち合わせをしているわけではない。観客との「会話」で望んでいることを知り、臨機応変に対応していた。そこはホーガンは天才であったということになる。それを見抜いたビンスもすごいが。のちにWWFに復帰したとき、ロックが細かい打ち合わせを希望してきてショックを受ける。
1984年にAWAからWWFに引き抜かれ、ビンスといっしょに全米侵攻を開始する。このとき、ビンスとホーガンは夜毎徹夜でプロレスや興行を語り合う仲間であった。それが反目するようになるのは、組織が肥大し互いに会う機会が減ったことと、1988年の反ステロイドキャンペーンと裁判から。互いに裏切られたと思ったのだろう。直後にホーガンが離脱し、2002年に復帰したときにはビンスvsホーガンのアングルが続いた。この契約が解消したのはホーガンに覆面をかぶせて「ミスター・アメリカ」なるギミックをやらせてからだった。
 こういうインサイダーの打ち明け話は面白かった。ただし本の主題はリングのことではなく、家族について。
1984年の全米侵攻以降に結婚した。しばらくは妻も巡業に帯同し、パーティ三昧の生活を送っていた(同時にステロイドマリファナ、コカインなどを摂取していたことを告白している)。ただ、グルーピーとの無軌道な性生活は送っていなかったらしい。観客の心はつかめても、女の心は理解できない。まあ1年に400試合、3日以上の休暇をとらないというワーカホリックな生活をしているのだから。この仕事に対する勤勉さ、禁欲振りはすさまじい。たしかにこういう生活になじめないものはすぐに脱落していくよなあ。デビュー以降、体に悪いところがなかったことはないというし、痛み止めを服用しないと持たないのだろう(アルコールと痛み止めの過剰摂取で命を落とした選手はたくさんいる)。
・妻が巡業に飽きてから家を購入。妻が家好きで豪邸をいくつも建てる。建築仕事は妻の兄弟に発注された。ホーガンの稼ぐ金に依存する連中がたくさん現れたわけだな。子供もできたが、ほとんど家にいることがない。いつの間にか妻はアル中になり、ホーガンに対する虐待(コトバによる)を繰り返す(ホーガンは共依存の関係になったと思えた)。
・「Hogan Knows Best」のころには、娘ブルックが歌手デビュー。全米一位になるも、マネジメントに妻がしゃしゃりでてうまくいかない。
・2007年に息子ニックが自動車事故を起こし、同乗の友人を意識不明の重態にしてしまう。そこから民事訴訟があり、また妻からの離婚請求も起こされる。家族は離散。誰もいない家でホーガンは自殺の直前まで追い詰められる。
・それを克服したのは「ザ・シークレット」(信じれば叶う」のように「引き寄せの法則」を主張する成功哲学書)を読んだりDVDをみたことから。
 ホーガンが自己啓発にはまったことについては問題にしない。彼のように聡明であれば、家族の関係についてもっと早い時期に問題を解決できたのではないか、ということかな。一年中全米、全世界を飛び回るレスラーは家族を持つことが困難。多くのレスラーが数回の離婚を経験している。場合によっては奥さんに殺されたり、その逆のケースもあるのだから。複数の外部の人間を交えて、家族間のカウンセリングを受けていればなあ、そういうケアを会社がしていればなあ、と思った。この本は、WWE離脱以降に書かれているから、ビンスその他の個人や組織の悪口もある。一方、エリック・ビショフの高評価は意外(まあ自分が個人的にビショフを好かないからだ)。
 離婚や交通事故その他のスキャンダルの渦中に書かれたもので、マスコミの報道とは異なる情報が書かれている。裁判を射程にいれた自己弁護も入っていると思うので、この本の内容(とくに離婚と交通事故、薬物乱用など)についてうのみにしないほうがよいだろう。

 1983年の猪木vsホーガン IWGP第2回決勝戦
www.nicovideo.jp

 1987年のレッスルマニア3のホーガンvsアンドレ
www.nicovideo.jp


<追記 2015/7/26>
ハルク・ホーガンWWEが解雇 人種差別発言のテープが流出

アメリカのプロレス団体WWEは7月24日、看板選手のハルク・ホーガン(61)を解雇したと発表した。約8年前に録音されたとみられる会話の中で、人種差別発言を行っていたことが理由と見られている。解雇発表の中で「WWEは様々な国の出身である従業員と競技者で成り立ち、ファンは世界規模である通り、国籍、文化、人種を問わず個人を尊重し、受け入れます」と強調した。

芸能サイト「RadarOnline.com」によると、ホーガンは2007年に、娘で歌手のブルック・ホーガンさんが黒人男性と付き合っていることに不満を述べた会話の中で、黒人への差別用語である「ニガー」を使用していたという。大衆紙「ナショナル・エンクワイアラー」が入手した録音テープで明らかになったという。

ホーガンは、芸能誌「ピープル」で「8年前の会話で、私は攻撃的な言葉を使っていた。そのような言葉を使うのは、社会的に受け入れられないことだ。言い訳の余地もなく、謝罪したい」とする声明を発表している。
ハルク・ホーガン、WWEが解雇 人種差別発言のテープが流出 | ハフポスト NEWS


 2000年前後の「アティチュード時代へ突入したWWFのショーには、露骨で短絡的なものがあふれ返った。汚い言葉、女性蔑視、あからさまな人種差別的発言、セックスを連想させるもののオンパレードだった(ビークマン「リングサイド」早川書房)」だった 2007年ころだと、娘ブルックの歌手デビュ―とその売り出しのやり方で、娘との関係は悪化中。リアリティ番組「Hogan Knows Best」でも不和があらわになっていた。そのあと、ホーガンは、妻の不貞、巨額離婚裁判、自殺未遂、息子の自動車事故と裁判などでボロボロになる。
 共和党支持できわめて保守的なオーナーの組織でも、21世紀の10年代には看板レスラー、レジェンドスーパースターでも差別を許さない組織になった。そういえば、WWELGBTをカミングアウトしたレスラーがいて、現在も現役だ。
 アメリカプロレスというと、かつて(そうだな1970年代終わりまで)は人種や性の差別がリングの内外で激しくあったところ。白人男性でないレスラーはたいてい差別に苦労したエピソードをもっていた。それが21世紀の10年代では、背景がどうであれ、過去の発言であっても、ヘイトスピーチを容認しないという社会的合意をWWEのみならず社会が持つようになった。その流れは止まらない。