odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

ウィリアム・アイリッシュ「死者との結婚」(ハヤカワ文庫) 秘密が露見することに怯える想像力が不安を掻き立てる。

 「男に捨てられたヘレンという女性がいた。彼女は八ヶ月という身重ながら財産も身寄りもなく、何の希望もないままに故郷のサンフランシスコへ向かう列車に乗り込む。しかしそこで富豪のハザード夫妻と出会ったことで、彼女の人生は大きく回転し始めた。何と列車が転覆事故を起こし、ヘレンはハザード家の新妻グレースと間違われ、病院のベッドに横たわっていたのだ。良心の痛みを感じながら、ヘレンは子供のためにハザード家へ身をまかせることになり、生まれて初めての幸せな日々を過ごすことになった。だが……。(裏表紙サマリ)」

 品切れ状態が長いらしい。これに限らずアイリッシュ=ウールリッチ全般に関することではあるのだが。こういうふつうの人々のスリルやサスペンスを楽しむ傾向がなくなったのかしら。かつてはこれを原作にした邦画が作られたという。
 アイリッシュの登場人物の特徴は、
1.負の聖痕をもっている。それは貧困であったり、犯罪に加担したり、嘘をついていたり、など。露見してはならないという強い意志がある。露見することが自分の破滅を意味すると考えている。この思い込みは激しいし、他人に共感してもらおうと考えることができない。自分を客観的に見えないか、見えたとしても自分の弱点を強調するように見てしまう。なかなか合理的・論理的、理性的な判断をすることができない。だから、負の聖痕を隠すために、新たな(愚かしい)行動をとることになり、それがさらに自分を追いつめることになる。行動の結果、克服に成功することもあり(「暁の死線」「幻の女」「黒いカーテン」)、失敗することもある(「恐怖」「死者との結婚」)。言っては何だが鬱になりやすそうな人たちが多い。
2.大きな想像力をもっている。それも悪い方向への。自分が観察されていると思い込む。彼、彼女は負の聖痕を持っていて、それを隠さなければならないから、観察されることを嫌う。そして、観察している(と思い込んでいる)相手に対して、適切ではないコミュニケーションを取ろうとする(排除しようとするか、抱き込もうとするか)。それが彼、彼女をさらに追い詰めることになる。アイリッシュの文章は、彼・彼女の内面のようで外面であるような微妙な膜のところにある視線で描かれていて、彼女の過剰な想像力が不安な方向に書きたてられていくのを強調し、読者の感情移入を誘い込む力を持っている。
 この小説では、ハザード家に身を任せたヘレン=パトリスが婚約者の両親や弟に不安を感じていくことになるのだが、この状況はクィーンの「フォックス家の殺人」と同じなのだ。安定した家族に外から一人の人が入ることによって、不安定になるという点で。ヘレンの行動は上のような特徴にまとめられるので、誤っているのだが、彼女には助けを求める人がいなかった。もしも、この一家の系類にエラリー・クィーンのような分別と共感を持っている人がいたら(その前提としてヘレンよりも合理的・理性的な立場にある両親や弟がヘレンの異変に気づき、共感に由来する行動ができたら【彼らはヘレンに共感しているのだが、彼女には伝わらない。ここにもコミュニケーション不全がみられる】)、この悲劇は起こらなかっただろうに。アイリッシュの世界は、神=理性=探偵から見放されたところ、とでもいえるのかな。