odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

クロード・ドビュッシー「ドビュッシー音楽論集」(岩波文庫) ワグネリアンを脱したドビュッシーからみると、19世紀の音楽は間違いの歴史。

 ドビュッシー1862年生まれ。最初の成功は1894年の「牧神の午後への前奏曲」。20世紀に入ってから重要作をたくさん書いて、1918年に死去。この本は1901-1905年ころに雑誌や新聞に掲載した短文をまとめ、作曲者自身が編集して出版したもの。ほとんどが時評。こうしてみると、グスタフ・マーラー(1860-1911)、ワインガルトナー(1863-1942)、リヒャルト・シュトラウス1864-1949)が同世代人であることに改めて注目。
 もうひとつ、わかいころにマラルメの定例会に参加して詩人他の芸術家と交流していたことに注目。それがいくつもの歌曲になったわけだが、彼らとの交流のせいか、文章を書きなれている。ときにフランス文学研究者にして翻訳しきれないところがあるにしても(たぶん当時であれば、流行語とかパロディとかがすぐにわかっただろうが)、文章は流れるように書かれていてる。でも、その時代の気分のためか、ときに韜晦と揶揄の度が過ぎ、何をいいたいのか、何を指摘したいのかがわからない。この意地悪さは彼の内向的な性格に帰してもよいのかしら。なるほど、ほとんどしゃべらないけど、文章は妙に雄弁というのはよくみられることだ。

クロッシュ氏 ・・・ アンティディレッタントのクロッシュ氏の紹介。ほとんど自画像とみてよいかな。彼の主張は音楽を哲学や形式でもって理解しようとするな、「自然」「美」をみろ。同時代の音楽論にロマン・ロラン「ベートーヴェンの生涯」アラン「音楽家訪問」があるので、そのような音楽論と対比してみることが重要。同時に、ドビュッシーの音楽とのつながりもみること。

ローマ賞とサン=サーンスとをめぐる対話 ・・・ 当時のフランスの音楽教育とその権威であるローマ賞の批判。オラトリオという課題が今日的でないし、ローマ留学というのもアナクロ、ですって。

交響曲 ・・・ 「ベートーヴェン以降交響曲は無用になった(P47)」という主張。主題とその展開という形式、繰り返しなどをドビュッシーは嫌う。(でも「第9交響曲」は賛美)。

ムソルグスキー ・・・ ムソルグスキー「子供の部屋」讃。(ちなみに、ジャンケレヴィッチはこの作品とドビュッシー子供の領分」との類似を語っている)。

ポール・デュカース氏のソナタ ・・・ デュカスの珍しいソナタについて。ほめているのかけなしているのかよくわからない。

演奏家 ・・・ ワインガルトナー、シュトラウス、モットル、リヒターらのドイツ人演奏を批判し、「アラベスク」の音楽であるバッハを称揚。

オペラ座 ・・・ 保守的でマンネリなオペラ座の運営批判。「ペレアスとメリザンド」の上演のために奔走していたころに書かれた。

アルトゥル・ニキシュ ・・・ 禁を破って日曜にニキシュ指揮ベルリン・フィルを聞いた感想。ほめ殺し、だよな。あと当時パリにはちゃんとしたシンフォニック・ホールがなかったとのこと。この演奏会もサーカス場みたいなところで行われたらしい。

マスネ ・・・ 当時の人気作曲家マスネへの95%の皮肉と5%の共感(比率は当社調べ)。

野外の音楽 ・・・ 軍楽ばかりが鳴る野外の音楽ではなくて、もっと別の「偉大」な音楽を構想。まあ、一昔前はナポレオン三世の王政で、普仏戦争があって、ドレフィス事件があって、軍楽の響きは高らかだったろうなあ。

喚起 ・・・ シェイクスピア好きのドビュッシーによるウェーバー讃(歌劇「オベロン」は真夏の夜の夢を原作とする)。

ジャン・フィリップ・ラモー ・・・ フランス音楽の伝統の輝きとしてのラモー讃。オペラ「カストルとポリュックス」について。ドビュッシーがラモーに認めたのは洗練された優雅さ。まあ、これに尽きる。当時(1903年ころ)はおろか1995年でもラモーは認められていないと訳者はいうが、そうでもないだろう。ガーディナーやミンコフスキーの優れた上演があったし、クラブサンのCDもたくさんあった。

ベートーヴェン ・・・ ワインガルトナー指揮ラムルー管弦楽団の演奏評。書物を通してしか自然をみないベートーヴェン。それに対する回答が「海」とか「雲」とか「野を渡る風」「西風の見たもの」「雨の庭」「雪が踊っている」「音とかおりは夕暮れの大気に漂う」「月光のふりそそぐ露台」なんだろうな。

民衆劇場 ・・・ フランスに民衆劇場がないというので、改革案を出しているような、民衆劇場というアイデアを揶揄しているような、なんとも判別しかねるなあ。

リヒャルト・シュトラウス ・・・ ほぼ同世代の作曲家のパリ公演の記録。自作の「イタリアより」「グントラムの抜粋」「英雄の生涯」というプログラム。これもほめているようなけなしているような。ドビュッシーからすると「同じにしてくれるな」がメッセージかな。

リヒャルト・ヴァーグナー ・・・ たぶん1903年コルトー指揮による「パルジファル」フランス初演の様子。でもドビュッシーは呼ばれなかった模様。まずドビュッシーは「バイロイト劇場」というシステムが嫌い。でも「パルジファル」の音楽は好き(とりわけ第3幕)。人物はほとんど滑稽で、クリングゾルが興味をそそられるくらいという。愛憎半ばする文章。

ジークフリートヴァーグナー ・・・ 才能を引き継げなかったリヒャルトの息子への手厳しい批判。ジークフリートヴァーグナー(1869-1930)

セザール・フランク ・・・ 老フランクへの奥歯にもののはさまったような妙な賛辞。

忘却 ・・・ いつも同じレパートリーで変りばえのしない音楽を聞かされる一方で、忘れられた大家を思い出そう。たとえば、スカルラッティ親子のナポリ楽派。

グリーグ ・・・ グリーグの久方ぶりの来仏演奏会。まあ、さんざんな評価。

ヴァンサン・ダンディ ・・・ ダンディのオペラ「レトランジュ(他国人、異邦人)」初演の批評。まあ、さんざんな評価。

リヒター博士 ・・・ ハンス・リヒター指揮コヴェント・ガーデン・オペラによる「指輪」上演の様子。イギリスに行ったのかな、それともオペラハウスが来たのか不明。まあ、さんざんな評価。

ベルリオーズ ・・・ 「ファウストの地獄落ち(通常は「劫罰」と訳される)」の舞台上演。まあ、、さんざんな評価。

グノー ・・・ 当時の人気作曲家グノーへの45%の皮肉と55%の共感(比率は当社調べ)。

公開状 ・・・ フランスで大人気になったグルックの批判。彼のおかげで、音楽と言葉の関係がぎくしゃくし、フランスの音楽のよいところをスポイルしたとのこと。


 ここからドビュッシーの考える音楽を救い上げるのはなかなか難しく、手紙や他の文章、同時代人の証言などから編集しないといけないだろう。まあやってみるか。
・この人にとっては19世紀の音楽は間違いの歴史で、彼の目指す音楽を汚し、だめにしてしまった。リュリ、ラモー、クープランの「明晰で、優雅で、単純で自然な朗唱(P318)」である音楽がグルック以降なくなってしまった。せいぜいベルリオーズのいくつかが参考にはなるものの、ワーグナーの模倣をしている一派とか、スコラ・カントルムのような政府直属の学校に巣食う保守派とかは真似したり、学んだりしてはならない音楽だった。
ドビュッシーの考える正当な音楽は、バッハ、モーツァルトベートーヴェンまでは継承された(作品に好き嫌いはあるが)。そのあとのロマン派(シューマンメンデルスゾーン、リスト、ワーグナー)は規範にしてはならない。
・参考になるのは、ロシアの天才たち。ムソルグスキーが最高峰で、リムスキー=コルサコフチャイコフスキーあたりが参考になる。そのほかのエリアの音楽は酷評。
・この人には音楽は観念ではない。イデアの世界にあるものではなくて、もっと具体的で日常的なものだった。でも生まれた音楽が聴き手を選ぶのはあいにくなこと。
 では、新しい音楽はどうあるべきか、というとこの本からはわからず、そのあとの作品を聞いて言葉にしなければならない。それは自分のできることではないので置いておく。まあ、自分の好みでは、なるほど1900年以降の作品のほうが聞きでがあるなあ。とりわけ好きなのは晩年の3つのソナタ管弦楽曲より室内楽やピアノ音楽が好ましい。オペラと歌曲はもう少し聞きこまないとよくわからない。たくさんあるドビュッシー論では、ジャンケレヴィッチ「ドビュッシー」がいまのところもっともよく可能性を感じさせる内容をもっている。
 あと、この本では本文よりも註のページ数が多い。それは参考にも勉強にもなるけど、文学を専門にする訳者ひとりで註を作ったのはよくない。音楽に関するところでは、クラオタには周知なことが漏れていたりする。たとえば、「リヒャルト・ヴァーグナー」の註でコルトーの指揮活動について1905年以降を知らないというが、カザルスの本を読めば1930年代半ばでも指揮をしていて、録音が残っているのがわかる。
Brahms Double Concerto for Violin and Cello in A Minor,Op.102(Casals,Thibaud,Cortot 1929)
www.youtube.com
ラモーのオペラでも、1995年当時ですでに全曲録音が複数あって、主要曲を聞けたが、言及はない。そういうところが惜しい。音楽の専門家の協力を仰ぐのはありでしょう。
(あら、訳者は「ドビュッシー音楽之友社を書いていたのか。うーん、感想を書かずに処分したから、中身はそういうものだったのだろう。)