odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

ウラジミール・ナボコフ「ベンドシニスター」(サンリオSF文庫) 〈凡庸な悪〉が能力と機能の平等を達成しようとする独裁国家。国家に不要とされたインテリの滑稽な抵抗と悲惨。

 ドイツとロシアに隣接としているその架空の国は、パドゥクという独裁者が指導する普通人党が支配している。独裁者の主張は「均等主義(イクォーリズム)」というもので、共産主義は経済の平等の達成を目指したが、ここでは能力と権能についての平等を達成しようとする。そのとき、知性や理性は不要でそれらの判断は党=国家に任せて、国家の権利が国民の生活より優先されるから、国民は労働にいそしみなさいというわけだ。当然のことながら、この主張での平等は最低の知性と理性の水準で達成されるのであり、貧困と飢餓がこの国の普通である。というのも党の指導者パドゥクは年少のころいじめられっ子で、主人公アダム・クルグのような優等生に徹底的に押さえつけられ、悪戯と悪意の標的になった卑屈な人間だったのだ。年がたち、クルグが世界的な哲学者になったとき、パドゥクの党は政権を取っている。

 物語は、クルグの所属する大学が閉鎖されたところから始まる(「均等主義」の主張からすると、インテリは不要な存在だから)。独裁者のおなななじみということで嘆願書を持参するよう要請されたが、クルグは断る。そのような政治的行動をとることは彼の哲学や生活の趣味には合わないし、妻を病気で亡くしたばかり、8歳の一人息子と二人残されたからだ。一度はパドゥク自身が彼に会いたいといい、大学学長に任命するから政権擁護の就任演説をするように懇願される。もちろんクルグは一蹴。そのあと、彼の周囲の人物がしだいに逮捕され行方不明になるのが相次ぐ。若い娘が彼の女中になることを申し出て、同居するようになる。匿名の手紙が届き、指定された骨董店にいくと亡命の手配をしようと手が差し伸べられる。出発の朝、クルグの家に、治安警察が訪れ、パドゥクと息子を逮捕する。
 なんとも陰鬱なストーリーなのだが、そのような重苦しさを感じさせないのは、作家がこの独裁国家の政治体制や監視社会の風景を書くことにほとんど興味がなさそうだから。そのかわりに、詩、シェイクスピア、骨董家具、蝶や鳥など細部にこだわるから。とりわけ、言葉の音の遊びが顕著。ある言葉が語られると、その言葉に意味や音のよく似たさまざまな言葉が連想されて、イメージが飛躍している。そこには英語だけではなくフランス語、ドイツ語、ロシア語など複数の言語が登場。これは翻訳(頑張っているとは思うけど)ではわかりにくいなあ、作家のほくそえみやあてこすりやいじわるがほとんど見分けられなかったから。それに文学史からのイメージの借用もたくさんあるらしい。これもぼんくらな自分の読みではほとんど見つけられなかった。細部のこだわりから元ネタさがし、メタファーさがしをするゲームは、ある種の素養の人には楽しいだろうと想像。
 もうひとつ面白かったのは、ストーリーがスパイ小説のみかけをもっていること。クルグに近づく若いぐうたらな娘、大学の存続のために運動する教授、もしかしたら亡命の手配を申し出る骨董店の親父などが、のちになって別の姿を現すからね。現代の読み手だと、そこらへんはすぐさま見破られるだろうから、融通の利かないクルグの愚直さが滑稽で、悲痛なものになるのだ。クルグは亡くなった妻の幻影を見たり、夢で手紙を書いたり、子供のことを慮ったり、逮捕後に子供の行方を心配したりするのだが、その心情の強さや真摯さが日常の滑稽さや強がりとの対比で際立つのだし、社会に疎外され友人や隣人たちから疎遠にされるクルグの孤独や寂しさが痛切になっていく。ここを丹念に読み取ろう。
 そうしておいて、最後の最後に作家自身が物語に登場。クルグが学生のころに戻り、パドゥクがいじめにおびえ、クルグの級友たちが囃し立て、そして、というところで作家は幕を強制的に閉じる。作家が登場人物たちを舞台や状況から解放したのだね。と同時に、この小説への作家の心情も透けて見える仕掛けなのではないかしら。解説によると、ベルリンで生活していたナボコフ「賜物」参照)は1937年にユダヤ系の妻と一人息子を連れてパリに逃れ、1940年にアメリカに亡命。ヨーロッパに残った弟は強制収容所で1943年に虐殺。1947年にこの小説「ベンドシニスター」を発表。小説に作家の心情を持ち込むのはよい読み方ではないけど、これらの体験と小説の並行関係は容易にみられる。
 再読しても、不思議な小説だなあ、いろんなことを隠すのに熱心なのだなあ、という困惑があり、一方で充実した読書ができたなあと感嘆してページを閉じる。

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