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odd_hatchの読書ノート このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2015-04-24

エラリー・クイーン「靴に棲む老婆」(創元推理文庫)

 ニューヨークのまんなかに奇妙な館と一家がいる。女主人は一代で靴の大企業を作ったやり手。心臓をわずらってそろそろ跡継ぎを考える時期にきていた。さて、この女主人コーネリアはとてもユニークで二人の気弱な男を夫にして、6人の子供をもうけた。前夫の3人の子供は奇妙な連中(かんしゃくもちで能無しのサーロウ、発明家気取りのルーエラ、大人になれずに児童書を書いているホレイショ:こいつはチェスタトン「詩人と狂人たち」の詩人探偵ゲイルに似ている)で、後夫の3人はまとも(双子の兄弟で会社経営をしているロバートとマクリン、けなげな乙女のシーラ)。幕開けは、100回目くらいの名誉棄損裁判で負けた夜に、サーロウがロバートに決闘を申し込むところ。この一家と企業の顧問弁護士チャールズはエラリーを知っていたので、決闘が行われないように立会いを依頼する。チャールズの発案で空砲をこめた拳銃を用意したのだが、サーロウの銃からは実弾が発射された。

 ついで明らかになるのは奇妙な遺言で、今回はシンプルに子供の間で平等に分配しなさいということだった。いや、奇妙なことに夫と彼の連れてきたのらくら男には一文も、ちがうな、1セントも渡さない。続いて、マクリンもある夜、射殺されてしまう。そして、コーネリアは自分が犯人であるという遺書を残して病死。靴会社の経営権は困ったことにサーロウが継承するが、サーロウは正気を失い、病院に収監されてしまう。

 みかけは「Yの悲劇」の焼き直し。舞台は屋敷の中に限定され、ほとんど誰も外に出ない。莫大な遺産の行く末を気にする多くの子供たち。女主人の存在感が非常に強く、子供たちは母に好かれるろくでなしか、母に嫌われる社会人。憎悪が交錯し、だれが犯罪を実行してもおかしくない状況。ここらへんの描写、そして論理的な犯人指摘のための伏線貼りとその回収は見事。以上を、探偵小説黄金時代の総決算とみてもよいし、セルフパロディとみてもよい。逆に言うと、探偵小説黄金時代の小説はもうそのままでは書けない、パロディにするか、ファンタジーにしないとならない、ということかな。このあと「災厄の町」からの「文芸」路線に移ることになる。もうひとひねりすると、戦争による大量死を前にすると、探偵個人の力は限定的であり、理性は政治の狂気の前で敗北するという認識もあるかもしれない(「九尾の猫」「フォックス家の殺人」あたり)。

 さらに、後期の諸作品の前駆にもなっているという点に注目。ひとつは、家族の分解と復活。コーネリアの二番目の夫スティーヴンは家の中ではやっかいもので、相手にされていなかった。ところが殺人犯が徘徊し、家族を失ったことで泣くしかないシーラのために思いやりをみせる。危機の状況の中で、自己回復をとげているわけだ。この主題は「フォックス家の殺人」にみることができる。もうひとつは、複数の犯人がいて、ひとりは傀儡であるということ。「盤面の敵」その他に現れる主題だな。このとき、実行犯よりもそそのかしたもののほうが罪が重いとされる。組織の主催者、権力者であれば犯罪を部下に命じた責任は問われるとして、では単なる私人として計画を書いたものはそれだけの罪を持つのか、ちょっと自分にはわからない。まあ、思索者イワンと彼の思想を自分なりに純化して実行するスメルジャコフとどちらがフェードル殺害の責任を負うべきか、という仕方で以前にも問いかけはあったのではある。むちゃくちゃをいえば、アダムが知恵のある木の実を食べて神の怒りに触れたとき、食べさせたイブよりも彼女をそそのかした蛇のほうがより重い罰を受けているのを思い出してもよいかもしれない。他のクイーンの小説でもそそのかしたもの、計画したもののほうが責任を問われる。ここには違和感をもったなあ(刑法がどうなっているかは知らないので、自分が間違っている可能性がある)。

 1943年作。戦争の影はまったくなくて、小説の雰囲気は1920年代と同じ。そしてマザーグースの歌通りの犯行が行われていく。クイーンがここに拘泥しなかったのは、「僧正殺人事件」「そして誰もいなくなった」「私が見たと蝿がいう」などとの差異化を図ったためかしら。奇妙なプレゼントだと、あれほど意味を考えるのに(「悪の起源」「最後の一撃」)。

靴に棲む老婆 (創元推理文庫)

靴に棲む老婆 (創元推理文庫)

靴に棲む老婆

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