odd_hatchの読書ノート

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ロバート・ハインライン「月は無慈悲な夜の女王」(ハヤカワ文庫)-1 未来の月世界はアナルコキャピタリズム

 西暦2073年。人類は月の開発に成功していた。月では岩石に含まれる水を使って、小麦の栽培をして、世界連邦の下の国家に販売している。ただ、自治は認められていない。月は地球にある世界連邦の管理下にあり、流刑囚を送る場所で、つきで生まれたものはそのまま居住民となることができる。彼らは地球から派遣された連邦政府の管理下にあるのだった。
 このとき、ある科学者が月に残された水の埋蔵量をみて愕然とする。すなわち、月は小麦という形で水を地球に販売しているのだが、水の移動は一方通行で、あと7年で枯渇する。そのとき、月に住む300万人の住民は死滅するだろう。しかし、地球連邦はその事態を認識していないし、仮にその事態が到来しても月住民を救うことはないだろうと予測された。そこで、科学者は月世界の独立を計画する。月は地球に行く宇宙船を持たないし、巨大兵器もない(せいぜいが岩石掘削用のレーザー銃程度)。どうやれば、独立は達成できるのか。

 この月世界、および科学者の計画する世界のモデルがユニーク。発表当時には、名前のなかったアナルコキャピタリズム、ないしリバタリアンの主張なのだ。登場人物は合理的無政府主義という。なるほどここに描かれる月社会は国家のない世界だ。この国家なき社会は、マルキシズムファシズムが考える国家主義や国家独占資本主義ではない。国家がないということは、所得の一部を集めて再分配する機能はないし、経済に関する統制や介入も行わないし、犯罪ほかのトラブルに暴力装置を働かせることもない。すなわちそれらはすべて市場に任せることになる。それが可能になる根拠のひとつは、月世界がほかの場所と少し異なるから。すなわち、月に作られた人工都市および採掘場や農場を運営するために、すべての居住民がなんらかの仕事に従事している。そうしないと回らないくらいの小さく閉ざされたコミューンで、しかも常に危機に直面している社会だから。そして、女性が極めて少ないので、一夫一婦制の家族は解体していて、複数の人間が契約に基づいた拡大家族になっている。拡大家族の中では、女性は母であり配偶者であり…という具合の複雑な人間関係を持っている。このような労働と家族が地球の仕組みから見ると、解体しているわけだ。そのような場所だから、生活はそのまま市場であり、人間のさまざまな活動が市場と拡大家族に取り込まれている。
 このアナルコキャピタリズムに典型的なのは、バーで女性に手を出した地球人に対する裁判だろう。月世界では女性が少ないから、男性は女性の承認や命令がなければ触れることさえできない。それを地球人は破る(地球にはそういうルールがないから、犯罪であると知らない)。怒った月世界人はバーの外に出て叩きのめそうとするのだが、殴り合いになるまえに地球人に裁判の権利があることを示す。裁判官は被告と原告が同意するものであればだれでもよい。この小説では通りかかった主人公が裁判官になる。裁判官は陪審員を任命し(これも通りすがり)、二人の主張を聞いたうえで判決を示す。この小説では一回の裁判で結審したが、被告が不同意であれば、別の裁判官をたててやり直しができる。裁判では法を使わない。そんなものはないから。慣習にもとづくモラルやエシックスだけが関係者のよりどころにできるもの(まあ、不注意や故意が即座に市民全員の死亡につながる人工都市だから、厳格極まりない)。このアナルコキャピタリズム独立運動の最中も貫徹されるし、世界連邦と戦争に入った時の一時的な統制経済社会のときを除けば、独立後の社会にも適応される。
 無政府主義というと身構えるようなイメージがついてまわっているが、こうしてみると大した話ではない。たぶんイメージしやすいのは、アメリカの大開拓時代だ。開拓者が勝手に西に西に移動していて、政府の機能は追い付かない(物理的にも、メタファーとしても)。そこで開拓民たちは自分らでルールを作り、運営する。直接民主主義による自治の拡大版とみればよい。

(続く)→ 2015/10/07 ロバート・ハインライン「月は無慈悲な夜の女王」(ハヤカワ文庫)-2

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(このアナルコキャピタリズムは、このちょっとあとにアーシュラ・ル・グィンが構想したソシアリズム、コミューンイズムと比べてみるとよい。「所有せざる人々」「アオサギの眼」など。資源と人口に乏しいエリアでは、資本の蓄積と個人の富が少ない。そうならないと、アナルコキャピタリズム個人主義は成立しないのだろうか。アナルコキャピタリズムが成立する社会の条件は、この地球の国のどれくらいにあるだろうか。)
2014/04/02 アーシュラ・ル・グィン「所有せざる人々」(早川書房)-1
2014/04/03 アーシュラ・ル・グィン「所有せざる人々」(早川書房)-2
2014/04/04 アーシュラ・ル・グィン「所有せざる人々」(早川書房)-3