Hatena::ブログ(Diary)

odd_hatchの読書ノート

2016-07-05

マイケル・サンデル「これからの「正義」の話をしよう」(ハヤカワ文庫)-2

 続けて後半。

f:id:odd_hatch:20160704082641j:image

平等の原理(ジョン・ロールズ) ・・・ 社会契約が薄ばれているのは。ロックは暗黙の合意といい、カントは仮想上としたが、ロールズはどちらでもない説明を考えた。社会で契約を結ぶとき、当事者間で知識や交渉力の違いがあって、必ずしも等価の契約になるわけではない。ロールズはそこで、当事者のいずれも「無知のベール」をかぶっていて知識や交渉力などの非対称性がない状態を考える。そうすると、人々は契約を結ぶときに、功利主義選択するわけではない(ゲーム理論の囚人ゲームになるのだろうか)。言論の自由信教の自由などの基本的自由をすべての人に平等に与える、社会でもっとも不遇な立場にある人びとの利益になるような社会的経済的不平等しか認めない、という原理になるという。

ロールズ議論はそのままでは受け入れがたい主張であるみたいで、さまざまな反論がでているみたい。「無知のベール」を原初状態にするけど状況の中で人は情報入手に努めるし他人の意見もきくだろうからそんな状態はないだろうとか、努力や勤勉さも恣意的要因(育ちとか生まれとか)になるから他人より多い所得を得る資格にはならないというのは暴論とか、実力主義を否定すると美徳や社会の価値が減じるのではないかとか。自分はロールズの意見はよくわからないので、まだなんともいえない。ともあれ、正義を契約や所得などの読者の生活や労働に近いところで考えられるようにしたのはすごいこと。)

アファーマティブ・アクションをめぐる論争 ・・・ アファーマティブ・アクション(英: affirmative action)とは、弱者集団の不利な現状を、歴史的経緯や社会環境に鑑みた上で是正するための改善措置のこと。ここでは大学入試にあたってのマイノリティの優遇策を検討する。白人の受験者が入試に失敗して訴訟した(入学したマイノリティよりテストの点がよいのに入学できなかった)事件を例にとる。白人学生の側は動機を成績を評価することを要求し、大学は使命とそれにかかわる基準であることを主張。前者はカント的な正義であり、後者はロールズ的な正義といえないこともない。

(われわれは名誉や美徳が正義に関係するという思い込みを持ちやすい。そのうえ成績は自分の手柄であるとも思い込みやすい。上記の例では大学入試に合格するのが名誉と思ったり、合格できる資質や知識や費用を持っているのが正義であるとするような。今のところはアメリカでは大学の主張が受け入れらているよう。この国ではアファーマティブ・アクションどころか、朝鮮学校への差別がいろいろあるという事態でここまでの議論にはなっていないのではないか。)

誰が何に値するか(アリストテレス) ・・・ アリストテレスは、政治は人々に善き習慣、良き人格、市民道徳を持たせ、討議する力と実践的な知恵を獲得することだという。ここらの考えはおいておくとして(自分にはよく理解できなかった)、正しさを定義するときには、問題となる社会的営みの目的因(目的、最終目標、本質)を知らなければならないとされる。営みの目的因は通常問われることはないが、使用する人の範囲を拡張しようとするときに、再定義され論争がおこる。

(ここでは足に障害のあるプロゴルファーにカートの使用を認めるかどうかという裁判をケース・スタディにした。多くの既得権益者は「ゴルフは歩くもの」と主張するが、裁判所は「ショットが重要で、移動方法は本質ではない」と判断。これに似た話は、同性パートナーシップを認めるかどうかだろう。同性のパートナーは家族を解体するという主張に対して、家族の目的は何と問い直すことになる。そうすると、同性パートナーと異性パートナーの差異はないことがわかる。)

たがいに負うものは何か(忠誠のジレンマ) ・・・ カントロールズは正が善に優先する、その理由は自由の尊重にある。アリストテレスは善(名誉、機会、地位など)を無視して正義を考えることはできないという。リベラルの考えは前者にあるが、しかしコミュニティ(家族から国家)の連帯と責務の問題では前者だけでは説明や判断のつかないことがある。公的謝罪と補償、歴史的不正に対する共同責任、家族や同胞がたがいに負う特別な責任、仲間との連帯、コミュニティへの忠誠、愛国心などなど。近代の社会では個人は複数のコミュニティに所属するからそれぞれのコミュニティから生まれる連帯と責務がコンフリクトしたり矛盾したりすることがある。そのときには、個人の自由や「正」では判断・決断できないことがあり、コミュニティから得られる物語や社会的な善を理解せずには決められないことがある(それでも決められないことも)。

(歴史的不正や公的謝罪の例は、ナチスの犯罪(ドイツ)、従軍慰安婦(日本)、ネイティブへの差別アメリカオーストラリア)などがある。これらに比べ、日本の不寛容さやあいまいさが際立っている。自分の引き受けていない問題には道徳的責任はないという考えに基づいた政策であるためだろう。一方、家族や国家の成員はおのずとたがいに連帯や責務を持つという考えもある。このふたつの考えは反発しあうものではなく、同時に主張されることがある。自分の都合に合わせたダブル・スタンダード適用しているのだ。ひどいのは愛国心を理由に人種差別を行うケース。)

正義と共通書 ・・・ 個人の自由や市場に流通する商品とは別に、コミュニティの成員が共有する善がある。功利主義選択の自由だけでは、社会共通善を共有できないし、それは個人の善き生を実現することもできないだろう。なので、正義には美徳を涵養することと共通善を考える立場がある。これを進めることが新たな社会の構築に必要。その時、政治(それに参加する市民の考慮すべきこと)のテーマには、(1)市民権、犠牲、奉仕、(2)市場の道徳的限界、(3)不平等、連帯、市民道徳、(4)道徳に関与する政治、があるだろう。

(ここはアメリカ草の根民主主義の伝統が暗黙の前提になっているとおもう。市民が政治に参加すること、市場や個人主義の暴走を指摘し食い止める働きをすることがあったうえでの、上のテーマになる。そのような市民参加がないところで上記のテーマをあげると、この国のように、ファシズムが「道徳」を押しつけ、多様性を無視して、ファナティックな価値観で国民を統合・管理することになるだろう。上のテーマはオーウェルの「1984年」のような全体主義国家では、抑圧と差別の題目になってしまう。)


 講義の面白さは、ケーススタディの事例にある。講義のつい最近に起きたことで、耳目を集めた事件。しかしその事件の当事者の主張や第三者の判断などが、正義を巡る議論の根幹にかかわっているという指摘。指摘された原理や規範、あるいは考え方がほかの事件や事態にもつながっていて、そちらはまだ未決着であったり、これから問題になるとされたり。正義や徳を考えてきた人の古い議論が、実のところは現在にもつながっていて、それを考えることによって彼らの古い議論が現代に生き生きとした見方をしめしている。講義の前に教授はゼミなどで学生や院生とたくさんの事例を議論して、取捨選択したのだろう。そこには新分野テレビなどで最新情報を入手する活動もあって、政治哲学という「おかたい」学問を現在の問題を掘り起こすヴィヴィッドな思想の運動にする。このようなスタイルはアメリカのスクールでは一般的であるのだろうが、この国では新鮮に見える。

(ただ、サンデルケーススタディは、教授の設定した枠組みに限定されていて、逸脱するような指摘や回答を許容しないという批判がある。

no title )

 それにしても、と思うのは、取り上げられる事例は30年前には起こりえなかった、想像のうちにあった問題ばかり。代理出産、臓器販売などがそう。この30年間の科学と医療の技術進化とそのビジネス化はおどろくべきほどのスピードで変化したのだ。さまざまなマイノリティ人権やアファーマティブアクションは公民権運動の成果であるが、30年前には実験中で批判されることは少なかった。人権の拡大と保守派バックラッシュが路上や現場でせめぎあいをおこしていて、1960-70年代の政治運動では触れられることが少なかった問題。徴兵と志願兵と傭兵は逆に、30年前には時代遅れであったが、50年前以前には問題になっていたことが新たな視点でよみがえった。格差の拡大と所得の再分配高度経済成長では見えにくかったが、グローバル資本主義と不況の時代では人々の関心を呼ぶ話題。

 人権の範囲の拡大、グローバル資本主義化、科学技術の発達が正義や共通善の適用範囲を変えてしまった。そのために、正義や共通善が意味ししているところや範囲も変わってきた。当然、人々の行動規範や政治に要求することも変わってきたが、まだ人々の共通理解に至っていない。そのために、正義や共通善がゆらいでいるようにみえる。