odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

筒井康隆「虚航船団」(新潮文庫)-4

2017/10/04 筒井康隆「虚航船団」(新潮文庫)-1 1984
2017/10/03 筒井康隆「虚航船団」(新潮文庫)-2 1984
2017/10/02 筒井康隆「虚航船団」(新潮文庫)-3 1984

 第3部で特徴的なのは、話者の意識の流れや発話内話が優先順位を持たずに垂れ流しのようにえんえんを書かれることであるが、もうひとつの実験があって、すなわち途中から句読点が消えていくこと。最初から句点(、)の少ない文章であり、改行の少なさもあって、字面はとても読みにくそうに見えるのであるが、実際はそれほどでもない。書かれている内容が文体の面倒くささとは別に、きわめて卑俗で滑稽でグロテスクなところにあるからだろう。話者の頻繁な転換はぜひともノートをつけることを薦め、できれば第1部の文房具の狂気と確執の関係を頭に置いたうえで読み進められたい。
 種々のタイポグラフィーもしっかり楽しんだうえで、文庫版の後半に至ると驚くべき状態になる。すなわち、文庫版467ページから556ページまでの約90ページの間、ついに改行がなくなるのである。前作「虚人たち」も改行がないという設定であったが、あちらでは会話の「 」の前後には改行があったのであるが、ここでは発話の「」も文字列の中に組み込まれてしまう。さらには、539ページから556ページまでの約20ページでは、読点(。)も消える。
 ではそのながい改行なしの文章はひとりの話者がえんえんと発話内話を垂れ流すのかというと(ジョイスユリシーズ」最終章)、そういうことはなく、それ以前よりも頻繁に話者は入れ代わり立ち代わり現れ、しゃべりまくっては死んで次の話者に取って替えられる。誰のおしゃべりで内話なのかはおのずとわかる仕掛けになっているので、恐れる必要はないにしても、この改行なしの90ページはいちどに読み切るべきであって、読書のための二、三時間を用意してからページを開くことを強く勧める。途中でページを閉じたり、さらに一夜の合間を入れたりすると、物語がわかなくなるばかりか、文章のリズムに乗れなくなる(リズムを復元するのに時間がかかる)という障害を起こしてしまうから。
 途中には♯や♭の音楽記号が現れ、当然読者は作者の指定に応じて読書のピッチやトーンも変えなければならない。途中で休みを入れると、音感が狂うから、やはり休憩を挟んではいけないのだ。この一大ジャムセッションは一気に体験するに限る。
 そのうえで、ここには小説の別のレベルの人物が現れる。そのなかには、第1部と第3部にそれぞれ一回しか現れない「ゴールキーパー」なるものもいるのだが、注目するのは、作者を代弁する虚構の「俺」の登場であり、作者に届けられたファンレターの少なからぬ悪罵である。そうすると「朝のガスパール」で使った表を改変すると、
「1.現実の筒井康隆と読者たち物語世界外の存在
 2.この小説を書いている第二の自己としての筒井康隆
 3.筒井康隆の第三の自己である「俺」とその家族がいる世界
 4.文房具と鼬族たちのいる世界
 5.物語の人物たちが虚構の人物であると認識しているゴールキーパー
となる。物語のほぼすべては4のレベルを書いたものであるが、第3部の後半になると3のレベルが闖入する。息子に「作家になりたくない」といわれて消沈したり、マリナ・クズリの陣痛を描写するために妻に経験を聞き出そうとしてとんちんかんな会話になったり、2の作者が聞いた選挙演説が採録されたり、1の読者が送りつけた悪罵のいくつかが書かれたり。初出当時は「私小説」を書いたのかとおもったりもしたが(そのころ大江健三郎「新しい人よ目覚めよ」などを発表していた)、読み直すとそんなに単純ではない。


 おおそうかそういうことだったか。ここでは実験的に4以外のレベルを書き込んでみたのだが、そこに新たな方法と実験があると認識したわけか。じっくりと練って、タイミングを計って、展開したのが「朝のガスパール」。そのうえ「朝のガスパール」にはマリナ・クズリとコンパスの間に生まれて最後の印象的な言葉をつぶやいた息子とおぼしき「イタチとコンパスのあいの子」が登場する。
 いやあ、初読の時はこれ一冊で「世界」を描き切った閉じられた小説かと思ったけど、このエントリーでは触れなかった過去の自作のパスティーシュやパロディが頻出し、しかも1980年代の一連の実験小説の布石を打った「開かれた小説」だったのだね。質量ともに、作者の代表作にして傑作。くどいけど時間をかけてじっくりと読むことを推奨。