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2017-12-14

イワン・ツルゲーネフ「父と子」(新潮文庫)

 1859年5月にペテルブルグの大学に通う学生が夏休み(?)で実家に帰ってきた。都会の雰囲気をぷんぷんと匂わせる医学生の友人といっしょ。やることがないし、とくに気を引くことがないので、学生二人はぶらぶらすごす。その田舎には貴族の未亡人がいて話をしたり(恋に発展しそうになるが、手も握らず)、軍人として西ヨーロッパを遍歴した英国風紳士と角突き合わせ決闘をすることになったりする。事件らしい事件はこのくらい。実家に戻った医学生は父の仕事の手伝いで、チブス患者の解剖を行ったが、指に傷を負って感染し、数日で亡くなってしまった。ストーリーはこんな風。20世紀小説の速い展開や冒険・アクション、奇想、ほら話などを期待すると完全に肩透かしを食らう。

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 解説でもストーリーより、若者の発する「ニヒル」にだけ注目して、一種の思想小説として読もうとする。そこには自分の感想もあるが、それに行く前に小説の背景を簡単に見ておかなければならない。

 すなわち、19世紀ロシア(小説の発表は1862年)では上からの近代化が進もうとしていた。西ヨーロッパでは産業革命と市民革命を経験して、国民国家が誕生していたが、ロシアにはその波は届いてこない。昔ながらの領主制に帝政があり、貨幣経済の遅れは資本主義の発達を進めず、全人口の大半を占める農民は文字の読み書きができず、無教養であった。これではいかんということで王様が上からの近代化を進める。有望な若者をフランスなどに留学させ、外国人の技師や教師雇用して首都周辺に科学技術都市をつくり、外国資本による工業化を進めようとする。足かせになるのは大規模地主と農奴制生産性が上がらず、差別の制度化は世間体が悪い。そこで1860年代に農奴制の廃止を宣言する。

ネクラーソフ「デカプリストの妻」(岩波文庫)

荒畑寒村「ロシア革命運動の曙」(岩波新書)

 その影響が訪れているのが、この「父と子」の舞台になる村。父の世代はデカブリストの乱などを見聞きした世代で、フランス自由主義ルソーヴォルテールディドロなど)の薫陶を受けた保守主義者。自由経済になるのは結構だが、農奴制の存続には反対しない。彼らが保守的になるのは、外国資本や外国資本の流入インフレが進行しているからであり、農奴制の廃止が経営コストを増加させるからである(そのような苦悩を父の世代は口にする)。そこに民主主義デモクラシー)の薫陶を受けた子の世代が帰ってくる。彼らは大衆や民衆の力で権力を打倒し、全員参加の政治システムを作ろうとする。個人自由よりも社会の利益の方を優先するから、ときに自由は抑圧されることも構わないとする。なので、「父と子」の対立は、単純な世代間の差違にあるのではなく、ロシアの特殊事情における自由主義民主主義対立ということになる(封建主義に反対するという点では、同意が成立する。その先の改革路線と思想の対立だ)。

 では「ニヒル」を気取る主人公バザーロフの「ニヒリズム」とは何かであるが、ある政治的な主張を象徴するものではない。バザーロフはデモクラシストを名乗り、反権威・反芸術を気取るが、同時に強い大衆嫌悪や生活嫌悪をもっている。バザーロフは田舎の無教養な使用人や農民を馬鹿にし、彼らの生活を嘲る。そうするのは、彼が大学に通い、医学という最先端知識に触れているから。それが大衆や生活を嫌悪する由来。同時に、実際に権力をもっている「父」の世代にも反発する。ここは理論的というより、感情的。なにしろ、バザーロフ20歳は学生であり、権威や権力を持っていないうえ、田舎ではどこのコミュニティにも属していない(言葉の端々からすると、大学においてもそう。学生組合や団体には所属していないようだ)。政治活動をしているわけでもなく、単に個としているだけで、食い扶持は親や他人にしのいでもらう。そういう根無し草で自立できていない若者。なので、「ニヒル」はたんに何もしないことのいいわけであり、他人に冷笑的で、議論においては「どっちもどっち」の過激相対主義をとり、大衆や生活を嫌悪しながらも、特別な存在である存在を認めてほしい(でも積極的なアピールはしない)。まあ、自己観念が肥大して、社会から疎外された者の心理的な分類であるとみたほうがいい。

 この「ニヒル」の自己観念の肥大は、たとえばウィルソン「賢者の石」サルトル「エロストラート」「一指導者の幼年時代」山田正紀「神狩り」三島由紀夫仮面の告白」などにみられる。その先駆者としてバザーロフをとらえればよい(あとドスト氏「地下生活者の手記」の語り手も)。こういう連中は昔からいたのだなあ。(読書前にはこの青年をドスト氏「悪霊」のスタヴローギンやキリーロフなどと比較しようかともくろんでいたが、無理でした。)

 あと、19世紀末のロシアは50年後の日本に多くのところで重なるように思えた。産業革命や市民革命が外から取り込まれ、上から強制される。それが社会の分断や混乱を起こすのだが、インテリは国や社会の近代化に好意的であるが、その実現は極めて困難。さらに自由主義民主主義は身に付きずらいのであって、土着の思想や精神と折り合いをつけがたい。そのようなインテリや知識エリートの苦悩の在り方が、小説に書かれる。主題や書き方に違いはあっても、この意識は日露のインテリやエリートは共有していると見えた。

 なお、今回読んだのは米川正夫新潮文庫。v行の表記や繰り返しの表示記号が昔のものなので、読みずらい。岩波文庫新潮文庫の新訳が出ているので、そちらをお薦め。かつて読んだ「猟人日記」を再読しようかと思っているが、こういう内容と文体では手を伸ばしずらいなあ。

父と子 (新潮文庫)

父と子 (新潮文庫)

父と子 (岩波文庫 赤 608-6)

父と子 (岩波文庫 赤 608-6)

2013-11-19

アレクサンドル・ソルジェニーツィン「ガン病棟 下」(新潮文庫)

2013/11/18 アレクサンドル・ソルジェニーツィン「ガン病棟 上」(新潮文庫)


 もうひとつの読み方は、スーザン・ソンタグ「隠喩としての病」(みすず書房)のサンプルとして読む方法。

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 作者の書き方は、20世紀の小説には珍しいポリフォニックなもの。気になる人物をメモしたら、患者側で8人、医師側で6人。その関係者を含めると40人くらいが登場するのではないかな。オレークの病室はたぶん8人部屋で、ときに全員が加わった議論があったりする。こういうたくさんの人数で会話させる「パーティ」をうまく描ける小説家は非常に珍しいが、ソルジェニーツィンは絶妙。たくさんの人々を会話でもって書き分け、個性を演出し、各人のここに来るまでの履歴とここにきてからの打ちひしがれから人物を造形していく手腕はすごい。この技術はなみではないよ(ドスト氏、トルストイなどロシア作家はうまい、一方この国の作家だと誰?)。そこに苦いユーモアが加わるのだから、ページを読む手が止まらない。

 ソンタグ隠喩としての病」は以下のように、ガン(と結核)を語る。すなわち、

「病気は内面的なものを激化するための言語で、自己表現のひとつとされる。すなわち病気にかかったものは内面化されていた性格や欲望が顕在化し、公開したくないものを公開するもの。なので、病気は解読するものになる。で近代人は感情表出を避け、無表情なニヒリストであろうとするから、病気はその仮面をはがし、道徳的な罰を与えるものになる。そこでは病気の責任は患者個人にあるとされる。ときに患者が侮蔑的にみられ、人生の敗北者であるとされる。(自分の要約)」

スーザン・ソンタグ「隠喩としての病」(みすず書房)

 その観察はこの小説でもみられることで、ガン患者は次のような反応を示す。不意に災厄が自分にだけ訪れたことへの怒り、未来が奪われたことの失望、自分の価値の喪失、詩を直面することの恐怖、希望を持てないことからの抑うつ、過去の振り返りからの自己嫌悪、恐怖を救うものへの過剰な期待(1950年代からサルノコシカケや金コロイドなどにガン治療効果があると思われていたんだ)、同病者への嫌悪、医師看護師への敵対感情、病院の外への憧憬、などなど。人によって、現れはさまざまで、怒りっぽくなる人もいれば沈黙するだけの人もいるし、威張る人もいるし、勉学に励む人もいる。このような多様なあり方が、小説に登場する。

 エフレム・ポドゥノフは無学な日雇いで全国を行脚後、がんで入院。トルストイの「人は何のために生きるか」を読んで感銘をうけ、患者たちに問いかける。すでに治療不可のため退院後、駅で野垂れ死。ヴァジムは若い鉱山技師放射能を測定して鉱山を見つける技術を開発しようとしている。すでに末期症状。ジョームカは16歳の少年。足を切断することになり、望んでいた職業に就くことができなくなる。マーシャは17歳の少女。乳がんに冒され、乳房を切除することになる。この二人の出会いとマーシャの涙までは印象的なボーイ・ミーツ・ガールの物語。このような死や社会からの排除を前にしたさまざまな状態が描かれる。

「いつか死ぬだろうとは恐ろしくはないが、今すぐ死ぬのは恐ろしい(上巻P381)」

がこれらのまとめになるのかしら。

 さて、患者も描かれる一方で、医師看護師も描かれる。彼らは生の側にいるが、こちらは主に政治で翻弄される。すなわち恒常的に物資と人手が足りない。上からのコネで病院に入ってきた連中はやる気がなく技術も不足、しかし党員であり家族が権力者なので排除できない。溢れた仕事は平党員や非党員にまわされ、疲労しきっている。ドンツォフという40代のX線治療医師はあまりに放射線治療を行ったために被曝しすぎて、自身に白血病が発見される。ヴェーラ・ガンカルトは若い意欲にある女性医師であるが、多忙のために婚期を逸しそう。しかも病棟の患者が勝手に自己治療や民間療法を実行するのを苦々しく思う。まあ、制度の疲弊(当時ソ連は国民の医療費負担はゼロだった)による矛盾がこのような現場に押し付けられていたわけだな。そこの苦慮も見なければならない。もちろん、パターナリズムまるだしで、患者を見下す医師も描かれていて、作家の視線は容赦ない。

 こうした病棟は社会そのものであって(ああ、忘れていた、このウズベク地方の病棟にはさまざまな民族の人がいる。なかには朝鮮人も日本人も働いている)、その多様な描きとりは見事。さすがと治療や看護の仕方は古く、人々の暮らしも変わってしまったが、ガンや死という非日常生活には現代にも通じる。むしろ中年以降になって身近な人のガンや死を知るようになるとここの描写は痛切だ。

2013-11-18

アレクサンドル・ソルジェニーツィン「ガン病棟 上」(新潮文庫)

 ソルジェニーツィンは1918年コーカサス地方の都市で生まれる。学生時代から短編を書いていたというが、1939年に召集され砲兵隊に入隊。以後、各地を転戦。1945年ベルリン侵攻中に、逮捕され、モスクワに戻される。以後8年間の収容所ラーゲリ生活を送る。1953年に刑期終了。カザフ共和国に追放(この小説にあるように、囚人は刑期満了後は故郷やロシア国内に戻れない追放令を受ける)。スターリン死後、この追放令は廃止され、中部ロシアの都市に帰還し、中学教師になる。小説書きを開始。最初に認められたのは「イワン・デニーソヴィチの一日」1962年。「ガン病棟」は1963-67年に書かれたが、発表が断られた。スターリン死後の「雪どけ」で自由な表現が可能になったかにみえたが、揺れ戻しがあって、彼のほとんどの小説が国内で出版されない。そのコピーが海外に流れ、西洋各国でロシア語版と翻訳版がでて、名声が高まる。1970年ノーベル文学賞を受賞するも、出席できず。以後、国外追放市民権はく奪、逮捕など流転の人生を送る。この時期、ソ連による人権侵害の例としてソルジェニーツィンとサハロフ(と彼らを支援したチェリストムスティスラフ・・ロストロポーヴィチ夫妻)の動向がさまざまに報道された。国外追放後はアメリカに移住。

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 「ガン病棟」は1955年2月初旬(上巻)と同年3月上旬(下巻)を時代にする。これはスターリンの没後2年。すでに1953年12月ベリア銃殺、1955年マレンコフ辞任(あと最高裁判事の全員更迭があったと作中で延べられる)のあと。翌年にフレシチョフノの「スターリン批判演説がある。とりあえずこれくらいの背景があることを確認しておこう。

 というのは、この小説は2とおりの読み方が可能であって、ひとつは20世紀の「死の家の記録」として読むやりかた。これは小説の大状況に注目する読み方だ。すなわち、作家の代弁者と思しき35歳のガン患者オレーク・コストグロートフの身上にあるように、収容所に関係する人々がこのガン専門の病院に集まっている。オレークは上記の作者の半生とほぼ重なり、戦車兵として「大祖国戦争」に参加するも、ベルリン攻略後逮捕されて8年間の収容所生活を送る。この病院で雑役婦をする40代のドイツ系の婦人エリーザベト・アナトーリヴナは、1935年に夫とともに逮捕され、そのまま生き別れている。オレークと同じように追放指令のために高等教育を受けていながらも、低給で不安定な仕事にしかつけない。夫や娘を探しているも、もちろん見つからず、40代前半でありながら60代に見える風貌に疲れている。レフ・レオニードヴィチという中年男性の医師収容所付きの医師として4年間勤務していた。パーヴェル・ニコラーエヴィチ・ルサノフは逆に小スターリンともいえる尊大で無能な小官吏(ドスト氏やゴーゴリ以来の類型的・典型的人物だ)で、数多くの市民、労働者告発し逮捕させた(いまではスターリン死後の急変におびえている)。シェルビンという老人患者は、ルサノフのような官吏が指導する労働組合の下にいた労働者。くるくる変わる指導を忠実に守り、ノルマを達成し、友人・知人を密告して、生きながらえてきた。彼はオレークを前にして、自分の半生を振り返る。いわく、恐怖におびえ、暴力に沈黙し、指導者の恫喝に協賛してきた。それは市場のイドラ(@フランシス・ベーコン)にとらわれてきたことの現れ。そして今、ガンで余命のないときに存在の意味、人生の価値を探すことに集中する。

 こんな具合に収容所が描かれる。収容所体験は、独特の隠語を生み、人の見分けのつくようになっているらしい。オレークは時に、その種の隠語を使うことによって(「歌と笑いの天国に行ってきた」「99人が泣き1人が笑う所」など)、収容所体験を伝える。この収容所体験についてはいずれ読むだろう「収容所群島」でもって考えることにしよう。

 とりあえずは、収容所メタファーがガン病院と動物園にあることに注意しておこう。共通点は、理由なく束縛が個人(個体)に強制され、無期限に収容されるというところ。もうひとつは、あらゆる階層が集められ、階級やステイタスの価値がはぎとられること。プライバシーがなく、尊厳を失わせるような行為が行われること、あたり。

「日常的な関係、恒久的と見えた人間関係は、数日どころか、数時間のうちにこわれ、損なわれてしまった。(下巻P230)」

 これはオレークの退院時の述懐だけど、入院するときでもいっしょ。このような損壊があるのが収容所であり、病棟。

 まあ、以上はメタフォリックな類似であって、病院システムが収容所そのものであると考えるのは間違いなので念を押しておく。この小説は現代医療の忌避を主題にしていないからね。そうではなくて、収容所象徴される監視と権威の社会の病理を似たような環境の病院を舞台に描いたことが重要。

2013/11/19 アレクサンドル・ソルジェニーツィン「ガン病棟 下」(新潮文庫)

2013-11-15

アレクサンドル・ソルジェニーツィン「イワン・デニーソヴィチの一日」(新潮文庫)

 シューホフはマローズ(厳寒)のなか、目を覚ます。考えているのはこのまま毛布に包まっていること、食料をたくさん手に入れること、昨日残したパンをいつ食べるかどうやって盗まれないようにするか、などなど。班長の起床の合図でバラックを抜け、朝の点呼(今朝の気温は零下30度に達していない)を受けて、朝飯にいく。薄い粥と野菜汁と一日300gのパン(季節と仕事次第で配給量はひどく異なる)をゆっくりとかみ締める。手先が器用なのでスリッパなどを作って現金やタバコを手に入れられるのが彼の強み。

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 朝食後はすぐさま再点呼を受けて、労働場へいく。今日は作りかけの工場の組み立て。零下30度の寒風を防ぐために、別の班に割り当てられた壁紙を盗む。配給の鏝は出来が悪いので、シューホフは仕事場に隠しておいたのを使う(もちろんいつか盗まれるかもしれない)。暖炉ができてまきをくべる(もちろん別の作業場の資材を盗んだものだ)と少しは暖かくなる。なにしろバラックには氷柱が垂れているくらい寒く、頻繁に点呼で起こされるので彼らは睡眠不足なのだ。シューホフはキルギス人と組んで壁のレンガを積み上げる。彼は熟練した職人で、そのために班でも一目置かれている。しかし重要なのは個人の資質もさることながら、どれだけよい班長の元にいるかだ。班長の資質によって、仕事の割り当てや評価、食事の配給量も変わる。班長も組織を維持するためには、差し入れを独占するわけには行かない。周囲にうまく配分し、ときには買収に使わないといけない。それをなまると、囚人から袋叩きにあうだろう。単調ではあっても、自分にしかできない仕事が割り当てられていればシューホフもほかの仲間も熱心に働く。もちろん、班単位で作業成果が評価され配給その他に差がつくとなれば、ふてくされてサボタージュをしているわけにはいかない(この班制度と集団のノルマ、連帯責任という制度は、スターリンの作ったものだ)。

 シューホフは今日は優れた働きで、昼食二人分を食べることができ、夕食のパンを別の囚人からもらうことに成功した。エストニア人から購入したタバコは良質のもので、作業場で見つけたナイフのかけらは点呼で見つからなかったからあとでしっかり研いでおけば内職に使えるだろう。こういう日が3653日続いた。閏年のために3日増えたのだった。

 シューホフは1924年生まれで戦車乗りとしてドイツ戦線に配属された。一度ドイツ兵に捕まったことからスパイ容疑に問われ(修正憲法だったか刑法のために裁判不要)、10年の刑期になる。すでに8年を経過した古参囚人だ。彼は希望や期待を持たない。いつか釈放される無実がわかると考えると、それが覆されたときに失望を生み、生きる力を失わせるから。また、世俗の肩書きを持ち込んではならない。囚人にあるとき世俗の世界で何をしたかは評価に値しない。収容所で役立つことができるか、それだけが重要なのだ。こういうきわめてプラグマティックな考えを持たないと収容所では生き延びることはできない。「中佐」など世俗の権威を捨てられない囚人もいるが、いずれ挫折するだろう。

 こういう非人間的な世界が描かれているのだが、一気に読み通せるのは、シニカルで皮肉な笑いが随所にあるからだろう。あとは食に対する貪欲な欲望とその描きかたかな。水のような「野菜汁」とかコーリャンで作った塩気すらなさそうな「粥」、肉ではなく骨をしゃぶる、そんな食事がなぜかとてもうまそうでご馳走のように思えるのだ。収容所がそんな場所でないことは、もっとシリアスな「収容所群島」を読めば一瞭然。にもかかわらずこのようなユーモア文学として書かれたのは、いくら「雪解け」時代でもシリアスで悲劇的な収容所を描くことが不可能であったことと、それこそドストエフスキー「死の家の記録」があるからだろう(なにしろ「収容所群島」の登場人物は「死の家の記録」の収容所にあこがれるのだ。食事がパンとソーセージだけだということで)。

 さて、この本は独立して読むだけでなく、ほかの収容所文学と一緒に読むべきだろう。高杉一郎「極光のかげに」「スターリン体験」フチーク「絞首台からのレポート」、フランケル「夜と霧」。必読は「フレシチョフ秘密報告」。少し見方を変えて大岡昌平「俘虜記」、野間宏「真空地帯」などなど。そして20世紀が未曾有の「収容所」と大量死の時代であったことを想起するべきだろう。

イワン・デニーソヴィチの一日 (新潮文庫)

イワン・デニーソヴィチの一日 (新潮文庫)

2013-11-05

江川卓「謎解き「カラマーゾフの兄弟」」(新潮社)

 「カラマーゾフの兄弟」は米川正夫訳のを、古い河出書房版全集で、たしか5日間で読んだのではなかったかな。療養中だったもので、それこそ一日に10時間くらい読んでいたのだ。こういう読書だと飽きてくる(小説の内容にも読書という行為にも)のだが、そこは「カラマーゾフの兄弟」、まるで飽きることがありませんでした。とはいえ、登場人物約60名、それぞれに別個の物語、主題があり、大状況としての善と悪の問題があり、それらの主題をつかまえられたかというとまるでおぼつかない。いくつかの細部は鮮明に覚えているのだけどね。そこで、読み達者な先人の読書ノートを拝見することにした。

 ドストエフスキーは言葉に他の意味を持たせることが好きだった。たとえば「黒」という言葉から連想されるイメージを次々に文章に追加していくような。そのような言葉に注目していくと、通常のドストエフスキー研究とは違った視点で彼の人物と作品を読むことができるかも。それに加えて、バフチンではないが、言葉の多義性、文体の多様性によるポリフォニーも楽しみましょう。そんな具合で「カラマーゾフの兄弟」を読んでみよう、という趣旨。章ごとのまとめは以下の通り。

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1.カラマーゾフという姓 ・・・ この奇妙な言葉は、カラ=黒、マーゾフ=塗るの合成語らしい。でも、カラには「天罰」「神罰」とか、男性性器とかの意味もあるよ。黒のイメージでも、プーシキンの詩の中に「黒い男」=父親殺しというのがあって、それをドスト氏は知っていたらしい。フェードル殺しをおもうと意味深だよね。書かれなかった第2部でアリョーシャが皇帝暗殺を企てるらしいが、そこまで布石を打っているかもしれないね。

2.黒いキリスト ・・・ 黒からイメージすることにはいろいろあるけど(たとえば悪魔)、この小説だと不幸とか苦悩だね。登場人物の中でとりわけ深い苦悩を持っている人物は、何かを塗られているイメージを持っているのだ(とりわけ「大審問官」の序章で母にうんこを塗られる幼女)。とすると、カラマーゾフ=黒を塗る人で、苦悩や不幸を強いる人というわけなんだ。色を塗られた人物はとくにアリョーシャのまわりにいる。彼らはアリョーシャと仲良くなることで、アリョーシャを強い人格に変えていったんじゃないか。アリョーシャは色を塗りかつ塗られることで、黒いキリストになったとおもう。(キリストの語源が「油を塗られたもの」であることからの派生)

3.好色な人たち ・・・ 第3編のタイトルは「好色な人たち」。通常それで連想するのはフェードルとドミトリィだけど、よく読むとイワンもアリョーシャもゾシマ長老もスメルジャコフも好色だ。しかも好色は甘いというイメージを一緒に持っている。

4.巡礼歌の旋律 ・・・ 近世ロシアでは巡礼が家々をめぐって喜捨をえていたらしい(彼らの多くは身体障害者)。彼らは巡礼歌を歌っていたが、主なレパートリーは「神の子アリョーシャ」と「ラザロ」。富裕な生活を捨てて信仰に生きた巡礼歌のアリョーシャは同名の人物の造形に影響していて、ラザロのいやな臭いはスメルジャコフやリザヴェータらのくさい人びと、あるいはゾシマ長老の遺体の腐敗などに反映している。ドスト氏は、読者が小説からこれらの巡礼歌を想起することを期待している。

5.薔薇と騎士 ・・・ ドスト氏はカソリックが嫌いであったが、ゾシマ長老にはカソリックの意匠がいろいろある。それはゾシマ長老をアッシジのフランチェスコに重ねるためだった。両者の人生の経緯はパラレルな関係があり、またゾシマは登場人物に「騎士」と呼ばれ、フランチェスコは騎士にあこがれたのだった(フランチェスコは「貧困」を姫とすることで騎士的人生を送った)。そこまでしたのは、イワンの大審問官という告発に対する答えをゾシマ長老の生涯でもって対抗しようとしたため。

6.3と13の間 ・・・ この小説でドスト氏は3と13に非常にこだわる。こだわりのあまり小説の細部につじつまがあわないこともできた。とりわけ3がイエスが布教を行った期間、13が不吉な数であることに注目し、それがアリョーシャにちりばめられていることに注意。書かれなかった第2部でアリョーシャは33歳で死ぬことが予想されるが、それはイエスの死んだ年齢と同じ。

7.蛇の季節の中で ・・・ 最終章で死んだイリョーシャを追悼する父スネルギョフは、凧が乱舞する空を語る。この凧はロシア語では蛇を意味している。作中には蛇が何度も登場し、たいていは男性原理=性器、および黙示録にある悪の支配のメタファーだ。蛇が30匹ほど飛んでいる空は、ドスト氏の考えるロシアであって、それは黙示録的な終末の世界であった。

8.白いキリスト ・・・ 18世紀末に鞭身派と呼ばれる異端ないし民間宗教が現れ、皇帝の知己を得るまでになった。この宗派では去勢すること、マリアを崇拝することを特徴とする。父親殺しスメルジャコフはどうやらこの去勢派であり、しかも位の高いものであったらしい。とすると、去勢派の去勢という行為は、フェードル殺し(父親=蛇の男性原理)につながる。スメルジャコフは去勢派の「白いキリスト」とみなすことができ、黒いキリスト=アリョーシャと対比される。ドスト氏は去勢派の白いキリストがロシアを救うとは考えなかった。あとイワンを訪れる悪魔とスメルジャコフが似ていることにも注意。

9.臆病なユダ ・・・ イワンは自分の思想をスメルジャコフに吹きこんで、いわば人体実験をしていた。そこにはスメルジャコフを「下僕」と呼ぶような傲慢さと侮蔑があり、農奴解放後とはいえ貴族の家人であるイワンは農奴スメルジャコフを人間扱いしなかった。しかしフョードルの死後、スメルジャコフは「自立」しイワンを思想的に追い詰めるまでになる(彼はイワンを臆病者と呼び、イワンにとってはオブセッションとなる)。ここにナロードニキの人民蔑視というか尊大さの反映を見ることもできる(そうだ)。また、スメルジャコフの扱いはユダとパラレルである。去勢派の「白いキリスト」が、物語の中ではユダ(裏切り者)とされる。

10.兄弟愛の表裏 ・・・ 「兄弟」がタイトルになっているのは、兄弟愛がテーマになっているから。ドミトリー、イワン、アリョーシャの3兄弟にとっては父親殺害事件は兄弟愛を再確認していく過程でもある(しかし、ドミトリーに対するイワンとスメルジャコフは、カインとアベルに模されてもいる)。スメルジャコフを兄弟に入れることにしたときには、兄弟愛は実現していない。また、アリョーシャの理想は世界を兄弟愛で包み、公平な分配を実現することであるが、事件の当時においてはまだ難しい。それはドミトリー、イワンがそれぞれ金に心動かされているから。スメルジャコフは金のために(も)事件を起こしている。

11.心の広さと大きさと ・・・ ドミトリーは「ソドムの理想」と「マドンナの理想」の桎梏に苦しんでいた。傲慢さ・高貴さと卑屈さ・好色が同居していて、衝動的にどちらかに大きくふれてしまうのだ。それを彼は農や土地で止揚したいと考える。ロシアの大地は、そういう矛盾したことどもをまとめて受容して、大きくするのだから。この「大きく」というのはアリョーシャの主題でもあって、最終章の少年たちの演説で繰り返される。死んだ少年とアリョーシャ自身をそれぞれの心に留め置き、大きな心でもって連帯を感じる共同体、教団を作ろうというのである。

12.実現しなかった奇跡 ・・・ ゾシマ長老がなくなった後、僧院の人びとは奇跡が起こるのを待ち望んだ。しかし遺体からは悪臭が漂い、奇跡は実現しなかった。さてその後、ドミトリーは素朴な感情でもって神の存在を確信し、イワンは無神論を大審問官という劇詩で陳述する。アリョーシャはイワンの無神論に動揺するが、民衆に無垢な心があることを知り(老監獄長グルーシェンカの語る「一本のねぎ」という民話)、人間のうちに宝物=愛することのできる魂を発見し悩むことをしなくなる。ちなみに愛することのできない苦悩は地獄の別名とのこと。

13.逆ユートピア幻想 ・・・ この世界は調和が取れているのではない。子供の歌や踊り、遊びが草の上で行われていてそこに「自由」をみても、そこには管理する大人がいて、秩序の破壊を取り締まり厳格な警備を行い、子供の行うことを規制している。このような世界の見方はイワンの大審問官に集約されている。ゾシマ長老の説教はその反論としては弱い。代わりにあるのはアリョーシャの法悦体験。これによって自己と世界を直接結ぶ回路ができ、11のような心の共同体の設立が約束される、という。

14.実在する悪魔 ・・・ イワンは譫妄症をもっているがどうやらアル中らしい。それがあってか、悪魔が彼の元に現れる。それも彼の30年後の姿と見えるのかもしれない。さて、イワンは無神論を主張するが、ディドロ・レーニンのような戦闘的無神論ではない。もともとは神の世界の住人であったが、世界の不幸・苦痛・悲嘆・貧困などの存在があり、神が介入・改善しないことに業を煮やして、自分の「入場券を神に返した」というもの。だから神の不在に確信がもてずに動揺している。神の元から離れた悪魔の存在は否定できない。彼を訪れた悪魔の論理をイワンは覆せない。イワンにとって悪魔は実在する。

15.カラマーゾフ万歳 ・・・ 最終章の少年たちの「カラマーゾフ万歳」の唱和はアリョーシャに向けられていると考えられる。だが、他の兄弟をみたときに、彼らの道行もまた「万歳」といえる人生の可能性を持っているのではないか。その可能性は「他界との接触(ゾシマ長老の言葉)」にある。ドミトリーは監獄の中で人生や世界の愚昧さを呪いながらもそれを克服する至高体験を経験する。譫妄症で人事不省のイワンも「生の渇望」を口にしていて、さらに「愛することのできる魂」が求める他者を獲得しているのであった。そしてカラマーゾフがロシア象徴としてイメージされているとき、「カラマーゾフ万歳」はロシアの未来に対する讃歌なのでもある。


 翻訳では「○○」とあるが、原文では「●●」を使っていて、こういう意味を持っている。さらにこの「●●」の語源(あるいは名詞形)である「■■」という言葉には「◆◆」の意味がある。ドスト氏はそこまでの寓意(象徴性、関連性)を持たせていたのだろう。という記述が頻出する。もっぱら翻訳でロシア文学(に限らず日本語以外の言葉で書かれた文学)を読む者には、このような指摘に重宝する。上にあるように「凧が空を飛んでいる」という何気ない一文が「蛇が空に首をもたげている」イメージを持っているなど見当もつかない。そして「蛇」がフョードルそしてカラマーゾフ一族さらには男性性器のメタファーであり、さらにという関連はまず思いつくはずのないことだ。こういう指摘はありがたい。次回以降の再読の時、これを横に置いておくと、かつて読み飛ばしたところでにやにやできるだろう。

謎とき『カラマーゾフの兄弟』 (新潮選書)

謎とき『カラマーゾフの兄弟』 (新潮選書)