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odd_hatchの読書ノート

2018-04-05

ロバート・ペイン「毛沢東」(角川文庫)

 もとは1949年刊行、のちの1961年に改訂されて翻訳の定本になった(文庫初出は1967年)。でも、毛沢東はこのあと長年月生きるのであって、1961年以降のことは当然触れていない。とはいえ、1970-80年代には毛沢東の評伝で入手しやすいものはまずなかった(あとは貝塚茂樹毛沢東伝」岩波新書くらいだったかなあ)ので、古本で見つけたときはとびついた。

 著者は多彩な経歴の持ち主のよう。解説によると、英国守備隊士官、文化連絡将校英文学と造船工学を講じたりと、よくわからない。この本のあとにはレーニンアラビアのロレンスチャーチルらの評伝も書いているみたい。戦時下ではあっても、1940年代前半の中国には、日本軍国民党軍・共産党が相乱れる中にもかかわらず、英米ジャーナリストが多数在住していて、取材をおこない、レポートを発信していた。スノウ、スメドレーなどがそういう代表。彼らのレポートで、客観的(第三者的)に状況を把握することができた。あいにくそのようなジャーナリストは戦中戦後にこの国にはいないようで、上記ジャーナリストの作品に比肩できるようなレポートはできていない。たぶん明治から21世紀までの150年を横断してみてもそうで、すぐ隣国にありながら、きちんとした取材とその報告がないというのは残念(この国の人々の差別意識の反映とも思えるが、そこまで読み込んでいないので、感想まで)。

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 さて、毛沢東という人物。スケールが自分と違い過ぎてよくわからない。偉人であり極悪人でもあって、判断がつかない。ようやくこの人はなしたことの善よりも悪の方が大きかったと思うようになってきたが、ではどこが間違いであったかというと、スケールが違い過ぎて自分の物差しが使えない。

 この本を読んでいくつか。

1920年代中国共産党は井岡山に立てこもって、陣営を立て直そうとした。その一年間ほどの立てこもりで、共産党の陣容は一新されて、毛沢東が新たな指導者として頭角を現す。この過程がさっぱりわからない。この本でも、そこはミステリーのまま。それまでは田舎から出てきた北京の大学生、地道な運動に励む目立たない人物であったのが、突如数万人の組織のトップに立つ。いったいどうして可能だったのだろう。

毛沢東の生涯で注目するのは、外国体験がほぼないこと。せいぜい建国後にソ連にいった程度。つねに国内にいて、若い時は田舎を歩き回り、長征後は田舎で孤独な暮らし、建国後は執務室に閉じこもる。他の国の共産主義運動ではパリやロンドンソ連東京などに留学や移民でいって、西洋の運動や組織を知ったものが、リーダーになった。ところが毛沢東はそういう経験がない。にもかかわらず、トップに立つ。珍しい(まあ、戦前の日本共産党にも外国体験のないものが指導者になった例はあるが)。

・たぶん軍事指導者としてはぴか一の才能。「遊撃戦論」は、資材リソースはないが人材の多い軍隊が勝つ理論としては優秀。戦術の発想が「西遊記」「水滸伝」のような伝説に依拠しているというのも痛快。

・しかし、この人の才能のアップデートは50歳(1894年生まれ)で止まったという感じ。すなわち、ゲリラ戦にかんする戦略戦術は物資の乏しい日本軍や戦意の乏しい国民党軍には通用しても、最新技術と大量の物資を投入したアメリカ軍には朝鮮で勝てない(でもベトナムでは有効で勝利した)。「人民のため」「農民のため」と常に主張していたが、それが行われたのは20代の研鑽時代と、長征後の延安にいたころくらい。それ以外は、党と兵士に囲まれる。

・なので、党で権力を確立すると、他人に対して傲慢なところがでてくる。1949年建国式典から彼の肖像写真人民や兵が自発的に掲げるが「個人崇拝禁止」をいいながらも止めさせない。1950年代の前半から党内の粛清を開始。「人民のために」といいつつ、人民からの批判や要望が党の主張や政策を越えるようになると、即座に弾圧する(この指摘は1961年版にあったのに、この国ではあまり問題にされなかった。毛沢東は存命中であって、彼の「思想」に共鳴するグループがたくさんあったせいか)。孫文三民主義継承するといいつつ、民主主義を実行しない。

・この人の権威主義がめだたないのは、自己演出に優れていたせいか。権威的な意匠を身に着けず、そまつな衣服に帽子を身に着け、ハゲや小太りを隠さず、質素な生活をしているように見せかける。他の政治的なライバルが優雅や富裕の誘惑にまけるようになると、それを理由に更迭する。見かけ以上に政治的寝技の使い手。

・この人は詩人として優れていると評価されている(この本では彼の詩の大部分が引用されている)。この良し悪しはわからない。

・さらに自分の妄想で言うと、思想家としてはダメだったのではないか。この本でも主要論文5つのサマリーがあるが、論旨の飛躍や繰り返しが多いなどの指摘が存命中からあった。それには同意。(最近では主著の「実践論」「矛盾論」も毛自身の筆になるところは少ないという研究もあるらしい。)

 この本には建国以降の記述が途中までなので、毛沢東の事績を追うには不適当。新しいので補完する方がいいのだろうが、あまり気乗りがしないなあ。

2016-11-02

道浦母都子「無援の抒情」(岩波同時代ライブラリ)

 著者の大学生時代は全共闘運動と重なる。東京の大学で学生運動に参加し、デモか別の件かで逮捕された経験があり、紆余曲折があって、大学を離れた。その間、短歌を詠み、1980年にタイトルの歌集を出した。過去には学生運動短歌を作ったものもいたが(岸上大作など)、昭和の終わりになってからのは珍しいと思う。これはその後の発表作も抄録して1990年に出版社を変えて出たもの。

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 左翼学生運動の退潮期・終焉期に参加したことのある自分は、初読のとき、とても共感した、というより感情移入した。たとえば

迫りくる楯怯えつつ怯えつつ確かめている私の実在

稚き手白き手選ぴてビラ渡すその手がつかむものを信じて

何が起こるかわからぬ不安とある期待交互に体を貫きけり

あたりに。自分は1970年前後の学生運動のような機動隊とぶつかり合うような行動には参加しなかった(ずっと後の世代なので)が、書かれた不安や怯え、その一方の高揚とか熱気などは、ここに書かれたものに代弁されていると思ったのだ。ああ、あのときは人に伝わらないことに苦悩していなあ、それでもビラをもってキャンパスや地域に出たのだっただなあ、と、20歳前後のことを思い出す。

 さて老年に入ってからの再読だと、高揚や熱気とは無縁になったので、別のところに注目する。そうすると気になるのは、次の一句。

今だれしも俯くひとりひとりなれわれらがわれに変りゆく秋

 作者もさまざまな経験(個人的なものもあるし、連合赤軍事件の衝撃もあった)で運動から離れ、地方で暮らすことにする。生活のために働きだし、それでも運動を継続するごく少数の「仲間」の音信を聞きながら生活と労働だけしか行えない。その後ろめたさや空虚な感じもまた、自分も経験したこと。その点では句の感情はわかるのだが、2015年安保運動を経験した後になると、感想が変わる。どうして「われら」と「われ」に二分してしまうのだろう、というところにひっかかる。運動(アーレントのことばだと活動)のとき組織やグループをつくるのは、ステークホルダーを拡大し、権力や体制圧力を加えるときに必要。でも、当時の運動は「われら」の権威がとても強くて、「われ」は「われら」にあわせるものだし、「われ」が「われら」に及ぼせる力はとても小さかった(「われら」にあたる運動体は、集団には自由があり集団間では民主主義が働いていたが、集団の内部では個人自由は制限され民主主義は使用されていなかったということだ)。だから「われら」から脱落したり離反したりしたときに、「われ」は周囲との関係を持たない単独者とみなされてしまう。そこらへんで「われ」になったときに孤独や挫折の感情は強くなってしまうのだ。

 2015年安保運動のさまざまなグループの面白いのは、「われら」に強い拘束力を持たせないようにし、「われ」のことばを大事にするところ。そうすると、単独である「われ」と、あるビジョンとミッションを共有する「われら」の間に、さまざまな関係がつくられる、というか作って「われ」を孤独にしないで、「われら」に拘束されないで、運動(活動)をやることができる。この国では運動(活動)に限らず生活でも労働でも「われら」を強調して、「われら」に参加することで「われ」が生かされるという仕組みだったからね。最近の運動(活動)の在り方はとてもよい。

参考エントリー:

高橋源一郎「ぼくらの民主主義なんだぜ」(朝日新書)

高橋源一郎×SEALDs「民主主義ってなんだ?」(河出書房新社)

 そこではたぶん作者の短歌のような詠嘆の感情は生まれないだろう。そこらへんが、今回の再読で違和になったところ。

 あと堀田善衛「定家明月記私抄」で言っているように、短歌は恋愛の感情を書くのに適しているがそれ以外のことは苦手なのだと思う。そのうえ、女性の感情はおれにはよくわからないので、上の短歌(われらがわれに・・)よりあとの生活や感情のもつれを読んだ句はよくわかりませんでした。よい読者でなくて、申し訳ないです。

無援の抒情

無援の抒情

2016-03-24

フリードリヒ・エンゲルス「家族・私有財産・国家の起源」(岩波文庫)

 19世紀は主に科学の時代であるが、経済学とともに民族学や考古学も研究されるようになる。ギリシャ、ローマ以来のヨーロッパ以外の文化、文明、民族などを「発見」して、より古い、昔の社会や生産のシステムがわかるようになってきた。1884年初版1891年改版のこの論文は、当時の代表的な研究書であるモーガン「古代社会」とバッハオーフェン「母権論」を読んでマルクスが書いたメモを使ってエンゲルスが編集したもの。資本主義より前の社会や集団でも、史的唯物論が適用できるという目論見で書かれている。

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 冒頭で、社会を野蛮/未開/文明の3つの段階に分ける。これを見た瞬間に、すでにこの本の価値はなくなったのがわかる。19世紀半ばから後半にかけての古代研究は20世紀の研究で乗り越えられているし、この本には生物学と進化論の知識がまったくない時期の記載なので、信憑性がひくい。など、いくたの欠点がある。(ダーウィンは「種の起原」をマルクスに贈呈したらしいが、マルクスは関心を持たなかったらしい。)

 とりあえず記述をおってみると、

・家族の起源は闇の中にあるが(なにしろサルの集団から血縁のグループが存在しているから)、ヒトがヒトになってからは(はてどの段階でか?)、集団婚(複数のオスとメスが乱婚状態で父母と子の関係が明確でない)、対偶婚(一夫多妻ないし一婦多夫で母と子の関係は明確)、単婚(一夫一妻で父母と子の関係が明確)の順に発展してきていて、それは野蛮―未開―文明の集団の発展段階に対応しているのだって。私有財産が生まれるのは、食料生産と家畜の飼育が始まってからで、農耕地と家畜を私的に所有するようになったからだって。たぶん未開の初期段階あたりで私有財産が発生したと目される(はず、あんまり正確に読んでいない)。あと単婚になると、男が女を「私的所有」するようになり、性の商品化などが起きて、姦通と売春が同時に発生したそうな。国家の起源はアテナイ国家(ギリシャの自由都市のあとに成立)のとき。私的所有が一般になると生産する量に差異が生まれ、生産が拡大するにつれて分業が生じる。同時に生産した商品を交換する市場と貨幣もできるようになり、所有の格差が拡大し非生産階級も生まれる。で、この複数の階級闘争の結果、支配権を獲得した階級ができて「国家」となる。そのような支配階級は貴族と呼ばれる。

 真面目にメモを取り理解を目指して読むようなことはしなかったので、このまとめはざっくりすぎるかな。

 いろいろつっこみできる議論をマルクス/エンゲルスはしていて、食料生産と家畜を実現できるまでの育種の時間を短く見積もり過ぎだし、技術・文字・家族や氏族以外の社会システムを無視しているのはまずいし、集団が移住する可能性をみていないし、近隣の集団との交通で農耕や家畜、文字、技術などが伝搬したり、模倣したりする可能性も考慮していない。出来事の記述もヨーロッパに限られているので、市場や貨幣の経済システムはまだないか不十分だったと思われるエジプトやペルシャで国家が成立したというのも無視されている。ヒックス「経済史の理論」を読むと、市場と貨幣があっただけでは資本主義にはならず、いくつもの条件をクリアしないといけない。そこらも数行で片づけている。

 あくびを噛み殺しながらの読書で、内容には「トンデモ」のラベルを貼りたいが、19世紀の著作だからそこまではしないでおこう。まあ、よほどの好事家向けで、そうでなければ読む必要はまったくない。ただ、国家や資本主義の起源は興味深いので、それは1990年以降の本を読んだほうがいい。とりあえず、ジャレド・ダイヤモンド「鉄・病原菌・銃 上下」(草思社文庫)あたりから。

2015-07-30

山口武秀「常東から三里塚へ」(三一新書)

 1972年に出たこの本は、朝日ジャーナル編集部「三里塚」「闘う三里塚」(三一書房)とは違って、山口武秀のインタービューおよび討論があって、最後に1972年当時のまとめと展望を乗せている。

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 山口武秀は、常東(茨城県東部から千葉県北部にかけて)の農民運動を戦前戦後に指導してきたひと。1915年に生まれ、1931年に旧制中学を退学して農民運動を開始。1935年に治安維持法で検挙され、通算8年間も獄中にある。1945年8月15日、玉音放送の後から即座に農民運動を開始。1947年に衆議院議員になり2期務める。この本を読むまで、このような人物がいるのは知りませんでした。戦後の農民運動は、農地解放の拡大、小作人の権利拡大を目的にする。それまでの大地主制のために、村のほとんどの土地は少数の地主が所有していて、それを小作人に貸出していた。この小作料が高いとか、農具・肥料他の代金が高いとか、さまざまな抑圧を小作人は受けていて、勤勉に働いても手元に現金や資本がたまらず、いつまでも貧困にあった。また地主は地方の官僚や政治家とつるんでいて、小作人の改革要求をつぶしていた。当然、都市の保守政治家や官僚との結びつきが強い。まあ、戦前の軍国主義を維持する制度であり、農村の生産性上昇を妨げていたのだ。敗戦のあと、占領軍は農地解放を強力に進める。大地主の土地を貸し出している小作の所有に変更させ、小作一家あたり-ヘクタールくらいを所有できるようにしたのだ。もちろん、大地主の反対は強硬で、占領軍の指示があっても。、そうは進まない。そのときに、農民は組合を結成して、農地解放を推進させようとした。山口武秀は農民の組織化と戦術指導などの働きをする。

 これを読むと、1945-55年くらいの農民運動は相当に激烈で、それこそ三里塚の反対同盟の行った戦術(子供らの同盟休校、納税拒否、公職辞任などを含む)を先取りするように行っていた。というか、三里塚の戦術は先達を継承したものだったわけだ。農民運動には社会党や共産党も熱心だったので、この時代の農村は革新政党の支持基盤であったのだ(都市の小市民が保守政党の支持基盤)。この農地解放、土地改革はアメリカが占領ないし統治した地域では行われたものだが、この国ほどの成果は上げていない。

 このころのエピソードで驚いたのは、むかしの小さな役所にはいろりがある畳敷きの部屋があり、そこを訪れた農民は村長や助役と世間話のついでに政治要求(まあ道路を舗装しろとか水路を補修しろとか除草剤を手に入れろとか)をのませていたこと。井上ひさし「吉里吉里人」に国会議事堂車が村を走っていて、そこには誰でものれて、村長や助役と交渉できるというアイデアがあった。なるほど新しいなあと思ったのだが、なんだ「古き良き日本」の仕組みだったのか。田中康夫が長野県知事になったとき、知事室を閉鎖して一階ロビーに知事といつでもあえるコーナーを作ったことがある。これに古くからいる役人は大反対した。なるほど、彼ら小役人の頭ごなしに、市民と知事が交渉できるのなら、小役人の存在意義は失われるものな。昭和30年代になると役所は建て替えられ鉄骨ビルになったが、そこには囲炉裏のある畳敷きの部屋はない。村長・助役と農民に距離が置かれ、政治参加ができないようになっていく。

 それ以外の理由でも、農民運動はしぼんでいく。農地を所有し、安定した収益を持てるようになると、政治運動よりも生産性向上運動に向かったとか、農業よりも工業労働者のほうが現金収入が多いとか。それに加えると、保守政権が継続するうちに、地方税の割合が減り、国家からの補助金で地方自治体を賄わないといけないという事態になった。補助金を獲得し、企業誘致をするのがよい政治家ということになり、農民もそれを支持して、農村は保守政党の支持基盤に代わる。

 さて、三里塚の運動についてであるが、当時50代半ばの歴戦の運動家であっても驚くような強さと粘りを持つ。それに驚嘆しつつも、山口は反対同盟vs機動隊の構図から抜け出て、彼らを数万の支援者で包囲しようと壮大な構図を描こうとする。この本に登場する反対同盟員も言うように、反対同盟は周辺への告知や支援要請などをあまり行わなかった。かつての農民運動でそのような広がりを作っていたので、それが歯がゆいわけ。

(今ではSNSで運動の状況をかんたんに、リアルタイムで伝達することができる。うまく利用するのがよい。やるほうも支援するほうも。)

2015-07-29

朝日ジャーナル編集部「闘う三里塚」(三一書房)

 三里塚中央公園に行って印象深いのは、開港4年目の春の集会。そこにつくまでいろいろあったけど割愛し、さらに本集会前にさまざまなグループが集会をやっていたりとか春の雨がふってレインコートを着ていたとか、個人的なおもいでがあるけどそれも割愛して、本集会が始まってからこと。支援団体の演説は退屈であったのだが、目が覚めたのは、同盟のひとりが登壇し短い演説をしたとき。演説自体はどこかの機関紙にのっていそうな紋切り型だったのだが、演説者の顔に仰天した。彼はよくみるインテリや学生くずれではなくて、百姓の顔をしていた。自分の親が農家の出身なので、泊りにいったり、手伝いをしたりすると、人が出入りし、訛りの強い言葉で現状をしゃべる。それを横で見ていたから百姓の顔はよく知っている。その顔が、左翼機関紙に出てくるような言葉で空港建設反対を力強く主張していた。

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 この本は1970-71年にかけて朝日ジャーナルに掲載されたさまざまなレポートを集めたもの。最初の強制代執行が行われたときの頑強な抵抗と反対運動があった。そのとき、反対する人たちは、まず大人の男が反対同盟をつくり、老人は老人行動隊を、女性は婦人行動隊を、未婚の男女性は青年行動隊と、小中学生は少年行動隊を組織する。それぞれ独自に行動する。なにしろ小中学生が同盟休校し、学校で全校集会を招集し、校長や教師をつるし上げる。彼らの論理は、大人の教師を絶句させるほどの鋭さを示す。よごとに集まって議論し、運動をする中で、おのずと彼らは自分の言葉で語るすべを獲得する。その結果を自分は集会でみたわけだ。言葉のみならず、肉体のせめぎあいも辞さない。強制代執行になると、百姓のおやじは糞をかぶり、青年や少年はガードマンや機動隊に体当たりし、老人は土地に空けた地下壕にもぐり、おっかあは自分の体を木に鎖で固定した。なんというか、都会のインテリや学生、知識人では思いもよらない行動(しかし農民一揆の記録に照らし合わせれば伝統通りなのだ)をとる。まあ、その種の一揆的な行動はたとえば蜂の巣城でもみられたとはいえ、これほど広範囲で、しかも首都に近いところで起きたというのが驚きだった。もともとは戦後の入植者の集まりで、保守的で体制順応的な人々であると思われていたので。驚きは、現場に行き、彼らと話をし、強制代執行を目撃した人たちによるこの本に収録されたレポートによく表れている。

 工事を強行しようとする政府や公団は、メンツを守る以外の動機がないと思うくらいに、卑劣で暴力的だった。機動隊が少年や老人に暴力をふるい重傷を負わさせる一方で、彼らにたまたま触れるだけの行為で公務執行妨害で逮捕する。あるいは、深夜の道で待ち伏せて、会議後に帰宅する反対同盟員をリンチする。デモや抗議行動を暴力的に排除し、人々に傷を負わせ、むやみに逮捕する事例はこの時代に頻繁であったとはいえ、ひどいものだった。

 政府や公団は「話し合いの解決を」といいながら、現地に来ることはなく(なにしろ強制代執行の現場にいない)、町長・市長に対応を丸投げ。市長や町長らは反対者に集会参加を求められると、当日にドタキャン。まあ、無責任のしくみが上から下まで貫徹しているわけだ。この無責任のしくみは、1980年代初頭に別の運動で自分も体験したこと。対話や説明会がなんどすっぽかされ、彼らの秘密会議で決定されたことか。まあ、住民・市民・国民をなめきっていたわけだ。そのうえ小心で卑劣。なんともいやな気分になる。

 この本は1971年夏までのレポート。その後、政府・公団と反対運動のせめぎあいはますます熾烈になっていく。重傷者や死者のでる事態もおきた。政府・公団のやり方に反感を持つ一方、反対同盟の支援団体はテロルをしかけたり内ゲバを起こしたりする。憎悪の拡大と、報復合戦は、気軽な気持ちで運動に参加することを困難にする。それが運動を孤立させるという循環が進んだ。反対同盟も最初の団結力を失い、2派とも3派とも数えられるように分裂する。

 この住民運動を語るのは、難しく、口ごもるようにするしかない。公共の福祉と私的所有の優先をどのように両立するかという問題がありながら、そこに分け入るまでのできごとのすさまじさに、自分のかかわり方を見失ってしまうのだ。少数者の私的所有権を侵害してまで公共の福祉を強行してはならない、あたりで21世紀はコンセンシャスを得るようになったのかな。GDPとかGNPの増加は目的にであるわけではないということだ。

 ああ歯切れが悪いなあ。自分も閉塞感を味わう状況にいた時に読んだので、そのときには鼓舞され、勇気づけられたものだ。

2015-07-28

朝日ジャーナル編集部「三里塚」(三一書房)

 成田空港に行って印象深いのは、開港2年目に帰国する親戚の迎えにいったら、最寄の駅から空港に行くにはバスしか使えないとき、機動隊の検問が数回あったこと。最後のゲートではバスからいったんおり、高さ数mの鉄柵や鉄条網などで囲まれた建物にはいり、一対一で入港の目的を細かく聞かれる。迎える人の便名と氏名を答えられなかったので、バスが発車してもゲートにのこり、担当者が数か所に問い合わせをして、ようやく照会できたのか、次のバスに乗り込むことができた。自分が若い学生だったので、別の目的を持っていないかと思われたのだろう。ともあれ、21世紀にはどこにも残っていない警備を経験した。なるほど、その2年前の開港直前に管理棟が新左翼セクトに占拠され、設備が破壊され、開港が半年遅れるという事態が起きていて、関係者は神経質になっていたのだった(このような警備は開港からほぼ20年続いた)。

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 戦後、関東の国際空港は羽田一か所であったが、東京オリンピックのころには発着便が能力限界に近づいていた。また旅客機の大型化が進み、長距離の滑走路も必要になっていた。羽田を拡張するか、海上空港を増やすか、陸上空港を増やすかがオプションであるが、最後のを選択するのが1965年ころに決まる。予定地は二転三転し、1967年に成田市三里塚に唐突に決まる。予定地では即座に反対運動が組織される。政府や事業団は切り崩しを行い、野党ほかは反対運動の支援を開始する。5年ほどで開港するはずが、計画の半分程度の規模で開業したのは十数年後。滑走路を増やすなど計画が実現するのは四半世紀後。

 成田空港の反対運動が起きてから、朝日ジャーナルは繰り返しレポートしていた。この本には1967年から1970年までのレポート20本弱を集める。用地買収が進まず、着工すらできない状態のことを描く。

・最も大きな問題は「公共性」をどこまで国民に求めることができるか。建設予定地になったのは、戦後の入植者によって開拓された土地。それまで放置されていたので農地にはまったく適していないのを10年かけてようやく自営できるまでに持ってきた。その間、政府や省庁の支援はないか、損になるような施策しかない。用意された代替地は開墾した土地にはまったく及ばない荒涼地。このような資産を減らされるような政策に国民は従わなければならないか。政府は「公共の福祉」のために、私的所有は制限を受けることもあるとしたが、それは受け入れられるルールであるのか。

・「公共の福祉」と「私的所有の優先」と立場を異にする人々が対立するとき、どのように解決するか。政府の選んだのは「強制代執行」で、政府の命令や指令を暴力を使って貫徹するというものだった。この方針は三里塚、成田空港に限らない。安保であろうと、公害問題であろうと、大学問題であろうと、政府の決めた方針は実行されなければならず、反対者を全力で叩き潰そうとした。そのとき、政府や省庁は警察の「暴力装置」をつかい、60年安保では自衛隊出動を総理大臣が企図した(防衛庁長官の反対によって実現しなかった)。

・「公共の福祉」はしばしば、巨大な「私的所有」の専横につながっている。この空港建設にあたっても、用地の選定ごとにその地の不動産業者、土建会社その他が運動し、政治家もそのロビー活動を利用して、利益を得ようとした。そのような巨大な「私的所有」の専横が許容され、不利益は弱者に押し付けられた。空港建設問題では土地を奪われる農民であり、公害では地元住民であり、とくに零細な農林水産業者であった。

・政府や省庁は話し合いや説明をするといった。しかし、「事前協議なしで一方的に決めておいてから、話し合いをするといって、実際には話し合いをしていない」とか、出席するはずの大臣や高官は当日欠席し末端の官僚が10分程度しゃべって質問を一切受け付けずに閉会するとか、1回だけ開いて二度目が開かれないとか、そういう事例が続出した。これが住民の不信と不満を増加させた。

・政府や省庁は住民の懐柔と切り崩しに用いたのは多額の補助金。金を出すことで住民を満足させようとした。多くの場面でそれは功を奏した。しかし大金をもらった人々は生活が破壊(金の適正な使い道をしらず、すぐになくした)したし、地元では政府や省庁がいうようなメリットが生じなかった(雇用が限定され差別があるとか、ほかの産業が育たないとか、過疎が進むとか、モラルが退廃するとか)。

 このような政府と大企業の専横が、激しい反対運動を引き起こした。当初は、地元の反対運動組織に社会党や共産党が支援していたが、それぞれ党派活動を優先するという理由(および機動隊との衝突を避ける)で排除され、新左翼党派と全共闘が有力な支援者となる。しばしば起きた「強制代執行」では、多数の負傷者をだし、ときに死者がでた。日常では、自殺者や病死者を出した。もっとも悲痛な例は、ある農家の強制代執行の際に老婆一人しかおらず、彼女は機動隊によって排除され重傷を負わされ、家を家財道具もろとも破壊したことだったか。

 計画の発動から40年が経過。空港は予定を大幅に遅れて開港した。その間に、用地の買収や建設費以外に、多大な警備費がかかり、しかも反対運動の側にも警備の側にも負傷者や死者がでる。当初予定していたアジアのハブ空港にはなれず、羽田の拡張と国際空港化によって評価が落ちてきた。公共プロジェクトとしては投資回収率からも当初ミッションの達成度からも実施に当たってのパフォーマンスからも、惨憺たる結果。失敗したという評価を下すことができないために、運用が続けられるプロジェクトになっているのではないかな。原子力発電所みたいな位置づけ。

 ただ、この惨憺たるプロジェクトはこの後、公共事業プロジェクトの反面教師となり、失敗学のケーススタディになる。これ以後の新たな開発プロジェクトでは、着工以前のアセスメント、住民への説明、市町村議会を通じた合意の形成が不十分ながらも行われるようになる。「強制代執行」という「暴力装置」は発動しないようになった。運用が開始されてからも住民への説明やヒアリングを繰り返し、不満や不安にこたえようとする。欧米と比べれば不十分だろうけど、少しは変わった。それは住民が反対の意思表示をしたから。そのような運動を行った先達に敬意を表する。

2015-07-27

パトリシア・スタインホフ「死へのイデオロギー」(岩波現代文庫)-2

パトリシア・スタインホフ「死へのイデオロギー」(岩波現代文庫)-1

 つづけてあさま山荘事件。10日間の籠城の最終日には、クレーンでつるした巨大な鉄球が建物を壊し、終日ガス弾が撃ち込まれ、放水が続けられた。ほとんどのテレビ局が現地から長時間の生中継を行った。たまたま風邪で学校を休んだ自分は、夕暮れまっくらになり逮捕者が護送車にのるまでテレビの前にいた。その一か月後、新聞のトップに、粛清犠牲者の遺体が発見された記事が載っているのを見た。読んでも、そのときは意味は分からなかった。

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第四部 殲滅戦 そのアイロニー ・・・ 1972年1月下旬、リーダー二人が上京したところで、粛清はなんとなく終了する。サブリーダーが粛清に疑問を持っていたとか、非指導者は新しいリーダーの権威を承認していなかったとか(しかし服従はする)。所用で下山するものから離脱者がでる(しかし秘密は厳守)。警察の追求が強まり、小グループから逮捕者が出て、もっとも多人数のグループ(銃器を持っていた)が長野県に移動し、あさま山荘に籠城する。彼らはここで死ぬ覚悟を持っていたが、当時の警察の方針で全員が逮捕された。逮捕者は黙秘するはずであったが、群馬県山中の「共産主義化」訓練ではしゃべること、自己表明することを要求されていた彼らは粛清の死者が発掘されたあたりから自白を始める。

(警察は赤軍派の一連の事件を解決することを目指していて全員を生きたまま逮捕する方針であった。一方、連赤にとっては「銃による殲滅戦」であり、死ぬことが目的になっていた。その結果、逮捕者は彼らの理念にない行動、すなわち「戦いの意義と責任」を考えるという新たな課題に直面することになる。また彼らのミッションとしていた「共産主義化」は警察と接する現場では通用しなかった。彼らのイメージでは警察は暴力や拷問をふるうものであるが、実際は戦前からの経験に基づき「人間的な対応」と情報を遮断する「独房」拘禁で、彼らに自省する時間を与えるものであった。ここでも日本的なリーダシップや集団への責任意識などが顔を出す。)

第五部 責任 終わりのない物語づくり ・・・ 逮捕から第1審判決まで。転向は「一個人が社会的圧力に直面したときに、いかにして自分の政治的信念を保持し続けていけるかという普遍的な問題(P270)」であるとする。戦前の特別警察などは暴力で転向を強制したとされるが、暴力のない状態でも転向は起こりうる。事件の関係者が逮捕され、それぞれが分断され孤立された状態で捜査官だけとコミュニケーションをとる状態でも転向があり、この事件でもそれは起こる。自白や自供という形式をとるが、転向との違いは微妙。獄中で、逮捕者は政治的活動の責任意識をもつ。彼らは行動していたときのイデオロギーに依拠して正当化を図ろうとしたが、粛清という体験はイデオロギーを崩壊してしまい、正当化の根拠を失った。そこで彼らはイデオロギーの「誤り」に道を見出そうとしたが、それも問題の矮小化という批判を浴びた。この事件の指導者の責任の取り方は多種多様。判決に従うもの、法廷闘争で正当化を図ろうとするもの、国外に脱出したもの、自死したもの、組織から離反したものなど。

エピローグ ・・・ 連赤事件の場所を19年ぶり(1991年)に訪れる。時間の経過は、群馬県の山中が都市と隔絶した場所であること(当時は一日以上の行程で、1990年当時には3時間で到着)と忘れさせる。群馬県の山奥は、ゲバラのこもったボリビアの高山と同じくらいの場所だった。


 この国で連合赤軍事件のことを考えると、感情が先に出てしまい(怒りや悲しみ)、あるいは新左翼の運動や関係者に近すぎる立場にたって細部に拘泥してしまい、あるいはイデオロギー批判に集中したりして、なかなか事件を対象化できない。この国で書かれた多くの本はそういう問題をもっている。自分もそのような読み取りをしがちで、問題へのアプローチが困難になっている。その点では、アメリカ人であり、運動には一切の関係を持たない学者のアプローチは冷静さと客観性を担保することになる。

 本書で繰り返されるのは、この事件は異常な個人や異常な集団による異常な事件ではないということ。ここは重要で、事件や関係者を異常とすることで、自分には無関係であると葬り無視することが可能になる。しかし、その事件、とくに粛清を実行するプロセスをみると、どのような集団や個人にも起こりうることであり、加害者と被害者をわける明確な線は存在しないことがわかる。実際、似た事例をこの社会でたくさん見つけることができ、読者である自分、この<私>はいつでもこの事件の関係者になりうると恐怖を覚える。加害者でもありうるし、その紙一重の被害者にも。

・事件は社会的なプロセスを経てエスカレートしていく。そうなる前提は、「第三部 連合赤軍 粛清をめぐる閉ざされた集団の考察」にあげた3つが参考になる。真面目で知的な構成員が、日常や生活の「常識」や判断を喪失して、少数の煽動者指導者の指示に従っていく。そして他者危害、死体損壊などの暴力行為に発展していく過程で、歯止めや帰還可能な地点を見極めるのはきわめて困難。事件のプロセスをみても、ここでやめるべきだったという地点はみいだしがたい。

(そのさいに、革命運動・共産主義運動に原因があるとするのも短絡的な見方。そのようなイデオロギー批判では同種の別の事件を理解できないし、とめることもできない。)

・思想的な忠誠心が構成員に常に問われる状況になっている。その思想、イデオロギーはあいまいだし、課題とその解答が適切であるかも明示されない。構成員は常に矛盾した状況(忠誠を示す言動が新たな批判や脅迫の理由になり、脱出できなくなる)に置かれる。状況を改善できない原因が自己にあると思うようになり、自己を無にすることで、忠誠を示そうとする。そのような状況とうえの転向の定義を重ねると、粛清の過程もまた「転向」を強要するプロセスであったといえる。その過程で現れる自己観念の解体過程で、肉体・生活・民衆への嫌悪が浮かび上がり、それを通じて思想への忠誠心が自己の中に肥大するのだろう。

・そのプロセスは、企業・学校・家庭・軍隊・共同体でも起きること。思想的忠誠心が高く被害者にならなかったものが、今度は加害者・支配者になって新たな抑圧を生み出すのを見るのはしばしば。一方で、脱落して被害者になったものには抑鬱やパニック障害などが現れる。ときに被害者が逆上して、加害者に報復することだって珍しくない。

・このような事態を起こしやすくする背景には、この国の<システム>@カレル・ヴァン・ウォルフレン「日本/権力構造の謎」(ハヤカワ文庫)や、意思決定プロセスやマネジメント方法、集団帰属意識や責任の取り方などがある。この指摘も取り扱い注意で、日本の<システム>などのユニークさに原因を押し付けないこと。

・そうしたうえで、組織や集団がスケープゴートを作り出して「いじめ」「暴力」「粛清」などを引き起こさないためには、組織や集団の外の評価を反映する開かれた仕組みを導入することと、組織や集団及びその構成員を外部から評価するときに意図や動機ではなく成果とパフォーマンスを優先しようという、ごくあたりまえで、実現困難な行動をとることになる。まとめると単純なことではあるが、運用しようとするととたんに難易度の高くなる施策だ。

(企業や学校のような成果やパフォーマンスで評価される組織は外部の批判にさらされてコンプライアンス重視の運用をするようになっているが、政党・宗教団体のような権威主義的な傾向の高い組織や、省庁・警察のようなタテ割りで官僚制の強い組織はなかなか変わることができないでいるみたい。)

2015-07-24

パトリシア・スタインホフ「死へのイデオロギー」(岩波現代文庫)-1

 著者はアメリカの社会学者。戦前日本の転向問題を研究している過程で、1960年代後半からの新左翼運動の研究を開始する。さまざまな事件の関係者とインタビューし、当時の記録を読み、批判者や支援者などと議論する。ここでは新左翼運動のもっとも陰惨な事件である赤軍派を取り上げ、結成から逮捕、判決までをまとめる。主題は、連合赤軍事件。そのなかでも、1972年冬に起きた粛清

 下記のサマリーにもあるように、「日本赤軍」「赤軍派」「連合赤軍」はそれぞれ異なる組織。綱領もメンバーも活動拠点も違う。個人的な知り合いはあったようだが、互いに連絡を取らず、別個に活動していた。そのような差異は運動の関係者や研究者でなければあまり気にすることはないが、一応押さえておくように。

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プロローグ ・・・ 研究のモチベーションを説明。マッカーシズムの時代に学生、その後はアメリカの社会運動や学生運動にも参加する。そして日本の戦前共産党の転向について研究を開始。1972年のテルアビブ空港襲撃事件を知り、進行中の日本の新左翼運動に関心を持つようになった。

第一部 岡本公三 世界同時革命の夢 ・・・ 1972年5月30日のテルアビブ空港襲撃事件の襲撃犯で一人生き残り終身刑を受けた岡本公三のインタビュー(たぶん1972年夏)とその後。岡本の「転向」と、日本(人と国)の責任の取り方の違い。このとき、日本政府は賠償金100万ドルをイスラエルに支払い、謝罪している。個人の犯罪に対する責任の取り方としてはとてもユニークとのこと。政府だけでなく、関係者(家族など)の責任の取り方においても同様。

(岡本の経歴で興味深かったのは、最初に社会運動に参加したきっかけがべ平連のデモであったということ。全共闘や党派のデモでは警官や機動隊の暴力にさらされ、死を覚悟するのであったが、べ平連のデモでは暴力を受けることは少なかった。そのために岡本はこのデモでは成果が上がらないと思い、武装闘争を掲げる党派にジャンプする。そこでは、三つの考え、ひとつは短期的に成果をあげたいという希望とその挫折、もうひとつはオルグや会議などの革命家・活動家であることよりもテロルを選択するということ、そして自分の肉体は世界同時革命の理念の前では価値が少ないと考えること、がみられる。これは1970年代前半の武装闘争グループの構成員に共通するのではないか。)

第二部 赤軍派 革命軍兵士というイメージ ・・・ 1968年ころから1972年までの状況まとめ。ブントの中から武装闘争をミッションにする赤軍派が誕生。武装された革命党で党員であるより軍人であることを優先する。世界革命が進行中であるので、闘争の現場はどこでもかまわない。第1世代の赤軍派は大菩薩峠事件で大量に逮捕者を出し、一方で北朝鮮・パレスチナなどに密出国していった。指導者を失った第2世代は海外転出よりも国内の武装蜂起をめざし、地下活動を行う。資金の行きづまり、警察の監視に耐えかねて、居場所を転々とし次第に追い詰められていく。なお、赤軍派がブントから別れるに際して、リンチや内ゲバを経験し、死者を出していた。

全共闘やべ平連などの「正規」な運動が成果をもたらさないことに不満を持つ若者たちは、より攻撃的な方針を掲げる党派セクトに惹かれていく。その一つが赤軍派であり、これは軍の組織と規律を持つものとされた。実際はこの国では軍事教練が行われていないので、軍の組織やその構成員になることは想像力の外。どうやらロマンティックな憧れであったにすぎないようだ。大菩薩峠事件で軍事教練に参加したのが大学生、予備校生、高校生など平均年齢20歳以下であったことに如実。第2世代は、規律や訓練のしくみを整備していったが、素人に毛が生えた程度のしろもの。おかしいのは既存のヒエラルキーや秩序を転覆する革命党の組織がこの国のタテ社会の模倣であり、学歴優先を反映していたということ。)

第三部 連合赤軍 粛清をめぐる閉ざされた集団の考察 ・・・ 連合赤軍は赤軍派とは別のグループ。こちらは国内を内乱状況にしてそこから革命を発生させるという毛沢東の武装遊撃戦というビジョンを持っていた。金を持つグループと銃器を持つグループが合同し、ゲリラ戦だかテロルをするはずであったが、都市で生活できなくなり、群馬県の山中にアジトをつくる。このグループは当初から官僚的であり、指導者と非指導者という階層ができていて、下部のメンバーは指導者に従うというルールができている。このグループが1971年12月から翌年2月にかけて、メンバーの3分の1をリンチ・粛清・殺害した。暴力をふるう側にも殺される側にもなぜそのような行動をしたかの十分な説明ができない。ここでは社会学や心理学の知見を使って説明する。彼らは革命の戦士・軍人であろうとし、そのために集団意識高揚法(コンシャスネス・レイジング)という手法を使う。これはグループ内で相互批判しながら自己意識を変革する手法。熟練したセラピストが参加者をコントロールしないと「いじめ」に発展するのであるが、そのような役割はこのグループにはなく、またセラピーの前提となる平等主義もなかった。山岳ベースではメンバーの「共産主義化」という目標があったが、あいまいで具体性がない。「共産主義化」が足りないという指導者の批判に対してどのように答えればよいか、どのような変革をなすべきかのモデルがなかた。そこでグループの成員は不安と恐怖を持つようになる。警察の追及から逃れるために冬山の奥深くに潜入したのだが、逆にメンバーは逃げ場のない「出口なし」の状況になった。終りもなく逃げ場もなく、戦いも行われない閉鎖空間で彼らの行動はエスカレートしていく。そのプロセスにおいて、イデオロギー(共産主義化)と現実(達成したメンバーがいない)が不一致しているとき、現実の解釈を変えていく(死んだメンバーは敗北や逃亡の末の死であり、党や軍のイデオロギーに誤りはない)。そのような暴力や殺人の正当化の理論ができ、指導者の命令や判断だけが正しいものとなっていく。そこでは加害者になるか被害者になるかの差異はほとんどなく、たまたまスケープゴートにされた被害者は自己変容を従容と受け入れ、加害者は歯止めなく暴力をエスカレートさせていく。指導者・森の判断だけが正しいことになり、メンバーは判断停止状態になる。

(以上はまとめであって、議論の細部ははしょったところがある。うえにまとめたのは、社会学や心理学の知見を利用した見解。たぶんこの事件に限らず、時代や場所を変えたさまざまな事件や問題に適用できるだろう。本の中でも1930年代のソ連粛清や中世の魔女狩りなどにこのまとめを適用している。それだけでなく、著者はこの国の社会慣習や風習などの特異性もみている。プロジェクトの進行に関する決定で全員一致を要求するとか、事案や決定に不服であってもプロジェクトに参加しなければならないとか、不服や非承認は言語ではなく態度(とくに沈黙)であらわされるとか、メンバー内部で相互監視と疑心暗鬼が生まれて、スケープゴートがつくられると暴力を加速させるとか。そんな具合に、これは一般的であり、一方でこの国独自のユニークな事件なのだ。多くの場合、指導グループの異常性や彼らのイデオロギーに内在する傾向などに原因を求める。それは多分にこの問題がわれわれとは無関係であると信じるための操作であるだろう。すなわち、この事件だけが得意なのではなく、メンバーの異質なものをスケープゴートにして、「出口なし」の状況をつくり、陰湿で過激な暴力をふるうことは珍しくない。そのうえ、スケープゴートが加害者に反撃せずに、自己変革のできない自分に責任があるとかんがえるところも同じ。これは過去の、現在の、企業・学校・家庭・軍隊・共同体で起きたことであり、起きていることであり、起こりうること。だからこの陰惨な事件は考えなければならない。しかもなくすためには、そのような閉鎖空間をつくらないように外部の眼が入り、組織や集団の成果やパフォーマンスを外から評価するようにするという単純で、実現困難な方法しかなさそうなのだ。この「いじめ」「ヘイト」「差別」は教育することは有効ではあるものの、「意識を変えよう」という啓蒙や対話はほとんど無効。暴力をふるうものには暴力的に介入して暴力を解除しなければならない。なんとも面倒な作業だ。)

パトリシア・スタインホフ「死へのイデオロギー」(岩波現代文庫)-2

2015-07-23

大泉康雄「「あさま山荘」篭城」(祥伝社文庫)

 連合赤軍の主要な幹部で、リンチ殺人を実行・命令する一方、妻をリンチで亡くし、あさま山荘事件を実行した人がいる。著者は「彼(事件の被告:本名は明かされているが、ここでは無名にしておく)」と小学生の時からの友人で、学生時代には彼の勧誘を受けもした。著者でないと入手できない資料(高校から大学にかけての著者宛の私信や関係者家族の証言など)があって参考になるが、「なぜ」はついにわからない。それは仕方がない。本人みずからにして、「なぜ」を記述することができていないから。その代わりに参考になりそうな倒錯や転向の痕跡を読み取ることになる。

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 「彼」の経歴で注目するのは、高校から大学に入り、大学闘争に深入りし、連合赤軍に加入するまで。この経過がもっとも重要であるが、情報は少ない。それでも、いくつか注目するところがあって

・高校は日比谷高校という進学校で、東京大学をめざすが、二浪の末に東大進学をあきらめ横浜国立大学に入学する。バリケードストの最中であって、入学直後から運動にはいる。1968年の佐藤訪米阻止闘争のときには弁天橋にいた(学生が一人死亡した)。その後は、機動隊や警察と積極的に衝突する「肉体派」の活動家となる。

・その運動にはいるまでに、自殺を試み、家族と激論し、運動に参加しない学生を嫌悪する。笠井潔「テロルの現象学」にある自己観念の退廃のしるしである肉体・生活・民衆嫌悪が「彼」にある。たぶんこういうことだ。高校生のとき自宅から高校に通うというのは共同観念を共有すること。そこではいくつかの抑圧があっても、共同体(家族や高校や友人関係など)のしがらみとがあったり、自己の発見途中であるなどして、倒錯は起きていない。大学進学でひとり暮らしや自律を要求されるところから、共同観念と自己観念の対立が生じる。それまで所属していた共同体が拡大されて大学とか国家などの共同体が自己に関係してくるときに、それまでの自己観念に抑圧とか攻撃とかを感じるようになるのだろう。それによく抗しえない自己観念はより強い「自己」や観念を形成するために/さなかに肉体や生活や民衆などのそれまでの共同観念を忌避・嫌悪するようになる。

(この気分は自分の同年齢のころに起きたことと一緒なので、非常に共感する。大学とその授業、自律的な生活を求められる中で、肉体・生活・民衆の嫌悪が起きて行動になったのだった。酒やたばこをたしなむとかスピードを好むとか、規律や規則正しい生活をやめて勝手な時間に起きて寝るとか、講義や勉強に精出すほかの学生を馬鹿にするとか。共同観念とそれを共有するメンバーに反発したい気持ちが常にあった。そのときに権威や権力に抵抗する学生運動の「仲間」がいるコミューンは心地よい居場所に見え、実際にそのとおりだった。)

・「彼」の運動は実際の現場で挫折する。複数のきっかけがあって、ひとつは恋人の妊娠と堕胎。もうひとつは運動の現場での敗北(受傷することと逮捕拘留されること)。たぶん、これがバネになったのだと思う。そうしないと、連合赤軍に加盟する前に恋人から「私と革命のどっちが大事なの?」という問いに、「愛も重要だが今は革命のほうがもっと大事」と宣言する理由がわからない。愛の場である自己よりも、革命という観念のほうをより優先するという転倒が彼の中で起きているのだ。転倒は外部からの刺激への反応として起きているのではないか。観念の転倒は自生するのではなく、到来するのではないか。

連合赤軍の指導者である森恒夫は「最過激路線を提唱することで最高幹部に上り詰めた」とあるが、その背景には過去の運動で日和見であったり逃亡したりした経験があった。過去の自分の敗北や失敗や失点を挽回するために、より過激になった。ここらは、戦後共産党が復活したときに、戦前戦中に転向した共産党員にもみられたこと。転向の負い目をもつ人が戦後最も熱烈な共産党の運動家になり、本部の二転三転して一貫性のない指導に唯々諾々と従い、武装闘争を行ったのと同じ。自分の知り合いでも、ほかの学生が重い処分を受けたのに自分が処分されなったために新左翼の活動家になり逮捕された人がいる。信仰の確立に挫折したのに神秘体験をしてイエスを受けいれ殉教者になったパウロもそういうひとりになるかもしれない。)

(とはいえ、転倒が自生するのか、到来するのかは本人の中では区別されていないだろう。外から、振り返ってみたときにわかるのだろう。

・そこから「状況」に突き進んでいく。倒錯・転倒のさなかにある人は、倒錯・転倒していることを自覚できない倒錯や転倒の疑念は自己観念によってつぶされたり、組織の批判を浴びてしぼんでいく。外部との交通を遮断した秘密結社になると、反省・自己評価がなくなり、より純化した観念に覆われ、過激な運動を止めることができない。肉体・生活・民衆の嫌悪は、内部と外部へのテロリズムを実行する。

(ここも、この説明で十分かどうかはわからない。左翼過激派の、革命政権や軍事政権の、カルト宗教の、旧日本軍などの軍隊のテロルの「なぜ」、学校や企業や軍隊の被害者を自殺に追い込むいじめやハラスメントの「なぜ」はこれで説明できるのだろうか。)

・査問やリンチの凄惨な様子は書かれていない。途惑うのは「なぜ」そのような残虐な行為を行ったのか。とりわけ、同志である同じ集団のメンバーに対して。「彼」は妻に対して査問しリンチする立場であったので、「なぞ」の奥底は深い。本人の文章ではあきからにはされない。裁判所の判決、メディアの報道、関係者の意見などからは、1.指導者の性格に起因する、2.左翼組織特有の問題、3.日本的集団の性向、などが理由とされる。どれも当っているようで、当を得ていない。

(閉鎖、孤立した集団で熱狂のあげく、メンバーをリンチ、殺戮しあう事例はカルト宗団、ブラック企業、愚連隊などで多々ある。1と2と3の理由だけではそちらは説明できない。)

 査問、リンチが常習化したとき、「彼」は幹部からの追求を逃れ、リンチする行為に善悪を感じないようにするために、思考を停止し、幹部・執行部にすべての判断をまかせ、その通りに実行していく。それが「革命兵士」に自分を変えるための訓練であり、必要な通過儀礼であると思ったという。この心理の転倒は重要。ハラスメントの被害者がおうおうにしてとる態度。実行できないとき、失敗したときに、執行部の判断や指示が誤っているのではないかと考えないで、自分に責任や誤りがあると考え、さらに自分を追い込んでいく。まあ、「彼」はあさま山荘に籠城することになったとき、人質の縄をほどくよう執行部に提言するくらいの「自立」「自主」は残っていたのだが。

・裁判がリンチ虐殺とあさま山荘事件、それに関連する刑事事件として裁かれたので、主な焦点は殺人や強盗などに向かう。それは重要な論点ではある。一方で、組織の運動の見直しや反省が少ないのが気になる。この組織はこの国に革命をもたらすために、武装化とゲリラ活動、テロルを選択し、実行した。そのヴィジョンとミッションは、どのような成果をもたらしたか。それは惨憺たるもので、組織は壊滅し、「敵」にはダメージが生じず、支持者・支援者になるはずの人からそっぽを向かれ、憎悪されるようになった。ミッション、戦略、戦術に誤りがあったわけで、それは集団メンバーの意識改革程度では挽回できないほどの失策であるわけだ。成果とパフォーマンスに着目した運動の総括は、「武装革命」を掲げる新左翼諸派がするべきなのだろうけど、事件から20年間はまともな見直しはなかったように思う。今はどうなっているか知らないけど。

(「テロルはダメ」というのを人権擁護、殺人はだめというところから説明するのは大事だけど、このような成果とパーフォーマンスの評価で示すのも重要だとおもう。このとき、「テロル」の中には、集団のメンバーを洗脳してサービス残業をさせたり、ハラスメントして追い込んだりすることも含めてよいと思う。そうすると、カルト宗教からブラック企業までターゲットに含めることができる。)

「あさま山荘」籠城―無期懲役囚・吉野雅邦ノート (祥伝社文庫)

「あさま山荘」籠城―無期懲役囚・吉野雅邦ノート (祥伝社文庫)

2015-07-22

笠井潔「テロルの現象学」(ちくま学芸文庫)-3

笠井潔「テロルの現象学」(ちくま学芸文庫)-1

笠井潔「テロルの現象学」(ちくま学芸文庫)-2

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4 党派観念

 第十章 観念の顛倒 ・・・ 自己観念は現実や世界認識との挫折で、党派観念に転倒する。そのきっかけはこの論ではよくわからないけど、自分の把握したところでは自己観念の中心にある自己が無化されて(たぶん肉体や生活や民衆嫌悪をこじらせて。それとも共同観念との抗争に敗れてか、それとも集団観念に侵食されてか)、観念の外部を止揚する観念を中心に構築する。それが革命とか党とか天国とか神とか、かな。(ドストエフスキー『悪霊』、ネチャーエフ『革命家の教義問答』)

(あとがきをみると「3 集団観念」のアイデアは1と2と4の章が書かれた後に着想して追加されたそうだ。なので、この章では冒頭にこそ集団観念が登場するものの自己観念から党派観念への転倒の過程で集合観念は現れない。)

 第十一章 観念の簒奪 ・・・ 近代は伝統的共同体を破壊して、階級という共同態に変えた。そこで都市プロレタリア院民は組織化を企てる。ひとつは労働組合へ、もうひとつはコミューン(結社)へ。1879年のパリ・コミューンへの徹底的な弾圧によってコミューン志向の運動は途絶える。しかしコミューンは集合観念の体現であり、一瞬の攻防において主体性の死と再生を通過する至高体験があるのであった。いっぽう労働組合は共同観念に支配されていたのだが、レーニンが自己観念から党派観念への転倒を行う。この労働者、民衆をいっさい信頼しない革命組織は、民衆をテロリズムにさらすことを要求する。実行しえないものへは赤色テロをかけ、粛清し…。(エンゲルス『フランスにおける階級闘争』序文)

(ようやくこの本のターゲットが登場。マルクス=レーニン主義。収容所群島、粛清、一枚岩主義による分派活動への徹底的な弾圧生活の革命化などなどの20世紀社会主義の悪があぶりだされ、レーニンの作り上げた党派観念を批判する。あわせて、レーニン主義の哲学化を行ったルカーチと共産党支持時代のメルロ=ポンティも俎上にあげられる。隠されているのは、都市プロレタリア貧民が形成するコミューン(結社)への期待と希望。)

 第十二章 観念の自壊 ・・・ 党派観念のありかたをモスクワ裁判のブハーリンにみる。(ケストラー「真昼の暗黒」、オーウェル「1984年」、ソルジェニーツィン『収容所群島』)

(「犯してもいない罪を告白して党への忠誠を誓う」というグロテスクな裁判はレーニン共産党にしかみられない、という。そうかな、自己啓発セミナーや入信式ではそのような「グロテスク」な光景は見られるのじゃない。あと、党派観念のありかたが殺す側と殺される側で同じというのもどうかな。)

終章 観念の自壊 ・・・ テロリズム批判とマルクス主義批判は継続して行わなければならない、とのこと。1984年に出版された本ですからね。(ヴァルター・ベンヤミン『暴力批判論』、モーリス・メルロ=ポンティ「ソ連と収容所」)


 終章にいたってようやく観念は「共同観念-自己観念-党派観念」と発生・転倒していくことが書かれていて、そのような発生の順番と記述の順番が異なっている。これはわかりにくさの原因(まあ3の集合観念のあたりで見当は付きますが)。主題はマルクス主義批判なので、最後に党派観念を徹底的につぶす必要があるのだというのはわかりますけどね(集合観念を持ち上げたいのもよみとれます)。

 さて、自己観念が倒錯して肉体・生活・民衆嫌悪に至る道筋はすごくわかりやすい。それは一般的、通俗的な物言いに似ているからだし、自分の精神史を振り返った時に「中二病」やら「マニア」やら「オタク」としての言動を思い返すことで納得できることでもあるから。それに対して「党派観念」はわかりにくい。いや、マルクス主義者のさまざまな転倒した言動、テロリズムを説明するときに、自己が無化されてそこに外部の観念が注入されて自己と観念が一致してしまった状態を想定するというのはわかりやすいモデルになっている。なるほどそこまでイッてしまうと、あのような異常な事態を受け入れたり、大量殺戮を平然と行うこともできるのだろう、と。まあ、「オレら」のような生活人からは理解しがたい遠くに行ってしまったのだから仕方ない、みたいな納得をするのに使い勝手がよい。

 でも、と自分が思ったのはいくつかあって、

1.党派観念は殺す側と殺される側で同じ構造をしているの? 殺す側が殺される側に転化するときに、モスクワ裁判のバクーニンや連合赤軍事件の被害者のような従順でグロテスクな行動になるのかしら。

2.自己観念が党派観念に転倒するのはどのようなメカニズムにおいて? 自己の中で観念だけが鬱勃とぐるぐる回転している状態で観念は転倒・退廃するのかしら。むしろ転倒に至る筋道で、個に加えられる外部の暴力があるのではないかな。物理的な暴力、心理的な圧迫、執拗なささやき、不眠、貧困、飢餓、差別、未来の希望の喪失…。そのような暴力の結果として自己無化と他人の観念の受入があるのではないかしら。とりわけレーニン共産党では、収容所の監視と教育において、群衆に隠れてやり過ごすというナチの収容所の智慧が通用しない。すべての囚人が舞台にのせられ視線を集中された状態で暴力を加えられている。逃げ場のない閉鎖状態で「お前は無だ」と繰り返されたら、脱出しても外が檻であるとしたら、そのような希望の失われた場所で「犯していない罪を告白し党への忠誠を誓う」という状況が生まれるのではないかな。ここらはポール・ポースト「戦争の経済学」(バジリコ)にある中東の自爆テロの分析を借用。かつてはポーストの説明はダサいと思っていたが、「テロルの現象学」を再再読した後だと、説得力は向うにあるなあ。

3.党派観念への転倒が起こるのがマルクス主義においてだけなのはどうして?「4 党派観念」でマルクス主義特にレーニン主義がそうなるのは納得としても、テロリズムに至るのはほかの集団や個人にもみられるのではないかな。書かれた当時にはオウムの事件は起きていないけど、カルト宗教が集団殺戮や集団自殺をする事件はあったし、過去の殉教とか右翼テロなんかもある。それらのテロリズムは党派観念とは無縁の出来事なのかしら。逆にレーニン批判的であったローザ・ルクセンブルグとかイギリスの修正社会主義なんかはテロルへの傾斜が見られなかったみたいだけど、それはどう説明するのだろう。

4.「党派観念」は個人の観念が倒錯・転倒してt路リズムの実行や受容にいたる経過を説明できるだろうが、組織(共同体やグループや結社など)がテロリズムを実行する過程を説明することはできないのではないかな。すべてのレーニン共産党や結社がテロリズムを行ったわけではないし、党首や首領がテロリズムを主張しても幹部や党員の支持を受けずに断念する例もあるのでは?個人が倒錯・転倒するメカニズムと組織が倒錯・転倒していくメカニズムと過程は異なるのではないなあ。そこは別の説明がありと思うのだが。

5.自己観念と党派観念は誰がどのような基準で分けることになるのだろう。党派観念にとらわれている人は観念の転倒を起こしているかどうかを自覚することはできるのだろうか。ときに党派観念にとらわれた人が「戻って」来ることがあるが、それは自分の観念の転倒や倒錯を自覚したからというより、他の観念との比較するところからくるのではないかな。カルト宗教から脱会したとか、ネトウヨやレイシズムの運動から手を引いたとか、マルクス主義から転向したとか。まあ、こんな感じ。党派観念で説明しようとすることは、自己観念の範疇の特殊事例みたいな説明できそうで、「共同観念-自己観念-党派観念」という三段階とか、共同観念vs集合観念のような対立関係を想定しなくても、テロリズムの説明はできるのではないか。なんというか、「党派観念」という観念はマルクス主義にイカれていた人がいちはやく覚醒したので、その優位を示すための仮構なんじゃないか、と邪推したくなるのだ。

 さらに「党派観念」で示される結論が、テロリズム批判はヒューマニズムや共同観念の「殺すな」だけでは不十分で、この本のような観念批判でなされなければならないとされる。さて、路上でテロリズムが起きているとき、この分析と提言はテロルに対して有効かとも考える。この本が書かれたときはテロリズムを実行するのは共産主義者か軍隊かだったが、21世紀には宗教テロにレイシストに民族主義者にと主張と参加者の幅が広がった。1980年代には主張できなかったことを政治家やメディアが主張しても咎めることができなくなった。そのような変化において、さて、この本の方法(観念批判)と提案(集合観念による革命)は有効なのだろうか。さて、自分はあんまり乗れないなあ。

 初読と再読の時はすごく高揚した気分になったものだけど、本書の内容をほとんど忘れてレーニンやトロツキーなどを読んですっかりソ連共産主義に幻滅した後、本書を三度目に読み直すと、すごくがっかりした。とりわけ集合観念以降の章(つまり本書の後ろ半分全部で、著者の主張が集約されているところ)において。2010年代の加筆では長い補論が付いているようだけど、下のサイトの内容だとすると、探して読むつもりにはならないなあ。

2013-02-06

 自分の感想があいまいで疑問形でしか語れないのは、だらしがないが、俺の限界なので仕方ない。

新版 テロルの現象学――観念批判論序説

新版 テロルの現象学――観念批判論序説