1973年の猪飼護

彼の名が猪飼護だと知った今日、その工房を常滑に訪ねた。
彼の黒い器をずいぶん前から知っていたが、取引きする機会が生じなければことさら名を知ろうとしてこなかった。

私はコレクターだと自分を考えたことはない。

雨戸を閉めた石垣のギャラリーのそばに、留守中の連絡先といった程度の空間ができて、ちょっとした器を置いておくことにしたので彼のカップを思い出した。
格安直行便で大阪に降りて万博記念公園民俗学博物館(初めて。万博自体行ってない)を覗いて帰ったので、車をとりに常滑に出直した。

焼き物団地で作者名を尋ねて焼き物散歩道Aコースの稲葉安信の閉まった工房に本人をよびだしたのは、猪飼氏の仕事場まで案内させるため。稲葉のピンクい粉引きを卸し価で七八枚買う。

1950年生まれの氏は1948年生まれの友人が撮った写真の束を見せた。
友は進行するだけの病床にあると、猪飼は言う。

その写真の中の猪飼は、麿赤児だってハゲのでぶではなかったと思い出させる青春がこの半島にもあったことを証明したものだった。

それから駅前に車を乗り付けて干物定食が出てくるまでにナマを二杯空けてしまった。
みせの扉のポップがあんまりに、ポップでなかったものだから! 

それを島のギャラリーに置きたいからと分からないことを言う一見の客に、よくも渡していただけた。
屋号は「唐箕屋」、その名も無謀な無心にいたらしめた。この項も別に紙。

明日よりコーポラティプハウス「青テント」の仕上げ大工に付き合う。
入居者に8月イッピからだが、荷は一週間前には運びいれよし、と。

ヨカレト思ってしたことで恨みを買ったこともある。過去に学べてるか?

石垣のギャラリーは7月30日の夜に、雨戸が開きます!