"The Power of the Marginal"とYouTube

梅田望夫さんが2回に渡って書いているYouTubeについての記事がきっかけで考え込んでしまった。2つの記事はどちらもよくまとまっていて流石だなあと思うのだが、1つ目を読んだだけでは梅田さんの次のような表現が理解できない:

別の言い方をするとすれば「ウェブ進化論」に書かれていない「その後の世界」で最も重要な会社がYouTubeだと言えるだろう。

なぜYouTubeがここまで持ち上げられるのかがよくわからないのだ。だけど、2つ目の記事を読んだ時点ですべてのものの見方がひっくり返ってしまう(←おおげさ)。こちらには今まで(特に国内で)YouTubeが言及される際の決まりきった論調とはまったく違う側面をピックアップしてあって、その冒頭部分では次のようにまとめられている:

YouTubeでアニメが見られるとかテレビ番組が見られるとか、そういうところにも注目が集まっているが、本来は「Brodcast Yourself」(あなた自身を放送する)がYouTubeのモットーで、サービスの意義は「総表現社会のプラットフォーム」の提供にある。

YouTubeが何者なのかはこの表現に集約されていて、ようやく腑に落ちた。(梅田さんの事の本質を見せつける力みたいなのに改めて驚いているわけなんだけど、それはともかく続けると)YouTubeがなんで巨額の回線費用を払い続けながらあんな叩かれまくりなのがわかりきっているサービスを続けているのか、大抵の人にはよくわからなかったんじゃないかと思う。私は積極的にわかろうとしてたわけでもないけどともかく「よくやるなー」と思ってた。そりゃやるよな。やっとわかった。
彼らを単にFlickrをもう一回作りたかったから動画でやってみました、みたいな人間だと思ってちゃいけなかったのだ。Googleなみに世界を変えたいと思ってやってたんだね。そう思ったら当り前のようにすんなり頭に入ってきた。
それでだ。私がChicagoまで行ってきいてきた(にも関らず英語がわからんのでwebで読むまでどんな内容なのかもわからなかった)、Paul Grahamの最新エッセイ"The Power of Marginal"のテーマがまさにこれだった、ということがやっとわかった。というか、そのものずばりの記述があった。エッセイの後半部分:

The big media companies shouldn't worry that people will post their copyrighted material on YouTube. They should worry that people will post their own stuff on YouTube, and audiences will watch that instead.

YouTubeがやろうとしていることは、Paul Grahamの言う"Marginal"に力を与えることに他ならない。もちろんこの後YouTubeが成功するかどうかはよくわからないけど。そして何より驚くのはセコイアみたいな老舗VCがこういった"Marginal"に力を与えることに対して大金を突っ込んでいるという事実。シリコンバレーではVCも巻き込んでみんな当たり前のようにこういった考え方をしているのがろうか。もしそうだとしたらもうこの分野で何かやろうと思うなら何がなんでもシリコンバレー行かなきゃダメなんじゃ、という気分になってくる。
Geekだけがそう考えているという状態ならまだわかる。そういった状態は予想できるし、日本にもgeekはたくさんいるので、Paul Graham流のやり方(hackerの方がうまくビジネスが出来るはず)を忠実になぞることで、それが差別要因になって成功できるかも知れない。でも既にシリコンバレーではその要素は折り込み済みで、その上で生態系が出来上がっているとしたら。どうなんだろう。それでこちらに勝ち目はあるのだろうか。
なんとなく「置いていかれた」感じを強く持ってしまったので柄にもなく思考をさらしてみた。