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踰矩ブログ(耳不順を改め) RSSフィード

 2016年の新年に当り、弊ブログのタイトルを変えることとした。論語の「70にして心の欲する所に従い矩を踰えず(のりをこえず)」をもじり、矩を踰える趣旨で「踰矩」ブログに変える。音読みで「ゆく」、訓読みで「のりこえ」と読んでほしい。今までの「耳不順ブログ」にもそれなりに愛着があり、また、継承関係を示す意味で、「踰矩ブログ(耳不順を改め)」とかっこを付けた。  趣旨の詳細は、2016年1月1日付けの記事で説明してあるが、要するに、長いサラリーマン生活を終え、60歳、70歳になって気ままに過したいということだ。
 本ブログは、2006年頃から非公開で書き溜めていたものを2010年に公開し、その後諸事に関する私の雑感を綴ってきた。タイトルの「耳不順」、「踰矩」に従い、偏った視点でと思ってきたが、そのことより、長い、くどい、話題が固いと評判が悪い。
 本ブログにコメントが寄せられても、有難いことだが、かねての方針通り、原則として耳を傾けない(順わず)こととします。マナー違反にご容赦のほどを。(2016年1月記)
 似顔絵の経緯は、2011年12月11日のブログを参照。 [累計アクセス数統計については、2017年8月7日以降、はてなダイアリーのカウンターサービスが廃止となった。]

2011/04/25 (月)

[][]原発放射能とSI(国際単位系)

 福島原発事故との関係で、放射能等を表す単位として、シーベルトベクレルがしばしば登場するようになった。私としてはかねて不案内な分野なので、当惑することが多い。本稿では、これらの単位が「SI(国際単位系)」により導入された単位であることを紹介し、次いで、SIの問題点についての私見を述べる。

1) シーベルトベクレル

 「シーベルト」は、放射線の「吸収線量」の人体への影響を表す「線量当量」の単位だそうだ。大きさに応じて、マイクロシーベルト(100万分の1)、ミリシーベルト(1000分の1)も使用されていて紛らわしい。ミリ、マイクロとは微小なもののはずなのに、人体への被害が危惧されるということで最初は戸惑ったが、そのうち、少しは慣れてきた。

 その後、原発事故評価のレベル7への評価アップ(悪化)の中でしばしば登場するようになった「ベクレル」は、放射線を出す放射能の量を表す単位だそうだ。最初からテラベクレル(兆)又はペタベクレル(1000兆)のオーダーで登場し、どきりとさせる。また、このような接頭語を使わずに、京ベクレル(10ペタベクレル)と言う表現もするので、益々混乱する。例えば、チェルノブイリ放射能総放出量は、560京ベクレル(=5600ペタベクレル、560万テラベクレル)、福島原発は、その時点で63京ベクレル(=630ペタベクレル、63万テラベクレル)と言われると、極めて大量なことは理解できるが、その直感的な理解は困難で、混乱を生じていると思う。

 混乱の原因の1つは、報道される桁が、シーベルトの場合、ミリ、マイクロのレベルで、1-2桁のシーベルトのレベルだと大汚染として大問題になるのに対し、ベクレルの方は、通常の桁ではまったく問題にならず、テラ、ペタのレベルが問題になっていることであろう。このような混乱の原因は、そもそも単位の設定の考え方から生じていると思う。

 シーベルトベクレルは、いわゆる「SI(国際単位系)」で定められた単位であり、SIの前は別の単位が使われていた(後述)。国際度量衡局が定めた「SI」(Le système international d’unité、国際単位系)は、日本では、1992年の計量法改正により、全般的に導入されて、JISや各学会で普及が図られている。

2) SIの一般的な問題点

 しかし、私は、かねて、SIには強い疑問を持っていた。具体的な例を言うと、先ず「力」で、「kg重」が駄目になり、「N ニュートン」しか使えなくなった。次に「圧力」で、「気圧」、「バール」、「kg重/平方センチメートル」、「mm水銀柱」が全て駄目になり、「P パスカル」しか使えない。あと「熱量」についても、「カロリー」が駄目で(栄養については例外的に可)、エネルギーの単位の「J ジュール」に統一しろとのことになった。

 しかし、使えなくなった「kg重」は、物の質量に結びついていて人間が直感的に理解できる「力」の単位であり、また、静止物体の釣合い等を学ぶ初等教育の分野では、直感的理解に容易な極めて優れた単位である。これに対しニュートン単位は、運動方程式を扱うレベルにならないと理解できない概念である。また、圧力の「気圧」、「kg重/平方センチメートル」等も、人間が普段触れている量に関連した単位なので、直感的理解に優れている。熱量の「カロリー」も1グラムの水を1度C温めるに相当する熱量であって、判りやすい。これらに対し、ニュートン(質量1kgの物質の速度を1秒当り1m/秒加速させる力)の分り難さ、このニュートンを基準にした圧力のパスカル、熱量(=エネルギー)のジュールの分かり難さは、初等教育段階で生徒に理解させることは甚だ困難ではないかと想像する。中学、高校での物理の初歩が、現実の感覚と離れたことから学ばなければいけないのは、理科嫌いを増やす原因の1つになっていると私は考えている。

 SIの理念の最大のポイントは、「一量一単位」という理想を(愚直に)追うという原則である*1。また、基本量(1単位の量)を、その量の現実に沿った水準ではなく、理論的に定めようとしていることも問題を生じていると考える。これは、前述の「京ベクレル」、「ペタベクレル」などが出てくる理由である。

3) 地球科学分野におけるSIの問題点

 この原発事故で報道される単位を巡る混乱を見て、SIの問題点を改めて調べようと思った。単純に「SI」でグーグル検索すると、SIを解説する、ないしは推進する立場の人が書いた本や言説ばかりが出てくる。それで「SI 批判」で検索すると、少数だが、SIの問題点を指摘する文献が出てきた。次が出色だ。

茂野博「地球科学分野における国際単位系(SI)の使用:問題点と解決策」(地質ニュース603号,2004年11月)

http://www.gsj.jp/Pub/News/pdf/2004/11/04_11_04.pdf

 このペーパーは、SIへの批判としては、誠に立派なもので、私としては、今までの胸のつかえがおりた。地球科学分野と限ってその分野の具体例を取り上げているが、どの分野でも共通だと思う。以下ポイントだけ紹介しよう。

現SI の大きな問題点は,前述した「一量一単位の原則」の適用である.これにより,上述した地球科学分野の数値データについて,直観性の高い分かり易い表現が許されない場合を生じる.その結果として,以下のように無視できない様々な問題が発生することが危惧される.

(1)学術的には直観性が失われることによって,考察,議論,理解などの進行が滞る.

(2)教育の場では,基礎知識に乏しい生徒・学生の理解が難しくなり,対象への興味が失われる.

(3)実験などの測定や操作の場では,直観性が低下するため,瞬間的な判断を要する場合などに失敗を生じ易く,危険な状況が発生する可能性もある.

 私見を付け加えると、(3)について、工場の現場でも同様な問題がある。例えば、圧力計は、SIの前は、kg/cm2(1kg/cm2がほぼ1気圧)が標準的な表示であった。これがSIにより、Pa(パスカル)に変り、そのため1気圧が0.1Mpaで、直観性に欠ける。高圧ガスを扱う場合、異常発生の緊急の際に直観的に正しい操作ができるかと問題になった。SI移行の際にその危険が議論されたが、SI化が強行されたと理解している。これが原因の事故が実際に起きたかは承知していない。しかし、全面的にSI化された現在においても、未熟練者にとって習熟には時間が掛かり難しいのではないかと思う。

 茂野ペーパーでは、定量的なデータの分り易い表示法について、次のような点が重要と指摘されている。 

(1)1 〜3 桁程度の整数値,小数点以下2 桁程度までの小数値などによる表示.

(2)体系性の高い単位系に基づく表現.

(3)感覚や経験に結びつく直観性の高い単位による表現.

(4)従来のデータとの継続性の高い単位による表現.

(5)値の変化幅が非常に広いデータについては、その対数値の指標化などによる表現.

上記(5)については,地球科学分野では例えば,地震マグニチュード(M),水中の水素イオン濃度(pH)が挙げられる.

4) シーベルトベクレルに相当する以前の単位

 シーベルトベクレルは、前項の(1)(数値の範囲の適正さ)、(3)(直観性が高い単位)の基準からは全く外れている。それぞれの単位の由来は、先ずシーベルトの場合、1kgの物体に1ジュールの熱量(エネルギー)を与える放射線の量(吸収線量、単位はグレイ)に、放射線の種類による線質係数(ベータ線ガンマ線は1、アルファ線は20、等)等を乗じたものである。私には直観として理解できない。次いでベクレルは、1秒間に1つの原子核が崩壊(壊変)して放射線を放つ放射能の量と定義されている。原子核の数をカウントするというオーダーでは、人間の感覚や経験とかけ離れたものになるのは当然だ。

 SI以前のシーベルトに相当する単位は、「レム」だった。レム単位の考え方は1kgの物体に与えるエネルギー量で、シーベルトと同じだが、基本量を1/100ジュールと(感覚に合せて?)調整していたので、シーベルトの100分の1だった。すなわち、1レム=1/100シーベルト放射線の人体への影響は、100ミリシーベルトが一応の目安のようだが、レムで言うと、10レムに相当する。これであれば、放射線の危険レベルが相当覚えやすくなるのではなかろうか。

 放射能の量を示すベクレルについては、SI以前は「キュリー」が使われていた。1キュリーは、1gのラジウム放射能の量を示すもので、これが生活実感に結びつくとは言えないが、ベクレル原子核の数を単位とするものよりはまだ人間の実感覚に近いのではないか。それで、1キュリーは、3.7×10の10乗ベクレル、すなわち370億ベクレル又は37ギガベクレルに相当する。福島原発の放出総放射能量63京ベクレルは、1.7×10の7乗キュリー、すなわち1700万キュリー又は17メガキュリーとなる。また、次の記事の毎時放出量も、毎時100億ベクレルが毎時0.27キュリー、毎時1兆ベクレルが毎時27キュリーと、少し理解しやすくなったような気がする。本当は難しいことなのだが、少なくとも数字への拒否感は薄らぐのではないか。

 原子力安全委員会は25日、東京電力福島第一原子力発電所からの最新(1週間前)の放射性物質の放出量が1時間あたり100億ベクレル程度と推定され、4月5日時点の1千億〜1兆ベクレル程度から、1〜10%程度に減少した可能性があることを明らかにした。(朝日.com 4月25日夜 http://www.asahi.com/national/update/0425/TKY201104250440.html) 

 この放射線の吸収線量と放射能の量については、一般市民はもちろん相当の知識人にも混乱と恐怖ないし無関心を生じさせているが、その原因の1つにSIの不適切さがあると改めて確信した。かつてのSI原理主義者ないし推進論者の罪は大きいと思う。現時点で可能な改善は、「一量一単位」原則を若干修正し、分野によってその分野の「感覚や経験に結びつく直観性の高い単位」の設定を認めていくことだと考える。

 私は、本稿を書くに当って少し調べ始めて、このシーベルトベクレルの測定方法や評価にも疑問が出てきた。この件については更に調べ、また稿を改めて述べたい。

以上

*1:長さについてのヤード、尺等の混在、重さについてのポンド、貫等の混在は、各国の内外に多大の混乱を生じていて、それを解決しようとした「一量一単位」原則の努力は、私も正当に評価している。問題はやり過ぎである。

2011/04/18 (月)

[][]自販機の電力使用量

 石原都知事が、4月10日の都知事選勝利前後の街頭演説ないし記者会見で、自販機とパチンコをやり玉に上げて、電気の無駄遣いとして規制の必要を主張したと報道されている。本稿では、自販機の電力消費量に関する混乱について述べ、妥当と思われる水準を分析する。

1) 石原都知事の発言の報道ぶり

 自販機とパチンコのそれぞれが450万キロワットで合せて1000万キロワット、これが福島原発の分に相当すると言ったと報道されている。ところが、その450万キロワットとは何かについてはよく判らない。

10日夜の当選後も、各社のインタビューに熱弁を振るった。石原氏は、自販機とパチンコの両業界で年間の電力消費がそれぞれ450万キロワットで、合わせて1000万キロワット近い電力が浪費されていると強調。これは、福島第1原発とほぼ同じ電力消費だとした。(http://www.j-cast.com/2011/04/11092759.html)

(自販機とパチンコについて)東京電力管内の1日の使用電力量はそれぞれ「450万キロワット」とされ、「2つの電力がなけりゃ、福島原発はいらない」と訴えた。(http://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20110410-OHT1T00054.htm)

 450万キロワットが、1年間か1日か、全国ベースか東電管内か。この他に1月当りの電力量とする報道もあった筈だ。

 そもそも、私にとって、というか少なからぬ人が同感すると思うが、使用電力量としてキロワットで表示されると違和感がある。キロワットは電力の単位(電圧×電流)で、電力量は、それに時間を乗じた「キロワット時」だと学校で習ったではないか。

 自販機の使用電力(量)が450万「キロワット」という数字をどう解釈するべきか。疑問は3つあって、a)電力(キロワット)ではなくて電力量(キロワット時)ではないのか、b)450万という数字は正しいか、c)450万が正しくないならどうしてそのような数字が出てきたのか、ということだ。順次説明する。

2) 電力会社の統計

 先ず、供給サイドのデータを少し説明する。電気事業連合会HPを見ると、2009年度の日本全国の年間電力使用量は約9000億「キロワット時」である。発電所の発電能力はキロワットで表されるが、定期点検等のため休止しているものがあるので、供給電力(キロワット)としては、最大電力消費時の電力が相当すると考える。2009年の最大電力発生日は8月7日で、その日の中でも午後3時に約1億6000万キロワットであった。

 この中で、東京電力は、年間電力発電量は2500億キロワット時、最大消費電力は約6000万キロワットだった。福島第一原発の能力は、休止していた炉を含む合計6基で470万キロワット(古い1号炉は46万キロワット)である。福島第二原発の方は、4基計で440万キロワットだ。

3) 自販機の使用電力量

 石原発言の450万キロワットを文字通り電力とすると、全国ベースの最大電力発生時の1億6000万キロワットに対して(年度が違うが)、2.8%である。また、福島第一原発6基の合計発電能力(470万キロワット)に相当する。一方、年間の電力量と報道されているので、年間450万キロワット時ではないかと考えて、全国の9000億キロワット時と比較すると(年度が違うが)、0.0005%に過ぎない。次に述べることから見て、450万キロワット時/年ということはなく、キロワットベースの電力を想定した数字を電力量と誤って表記したものと推測される。疑問a)への回答である。

 次に、自販機の使用電力量(キロワット時)だが、この推計で権威あると思われるものは、2007年に、経済産業省の「総合資源エネルギー調査会省エネルギー基準部会自動販売機判断基準小委員会」が取りまとめた報告書だ。(http://www.meti.go.jp/committee/materials/downloadfiles/g70621b05j.pdf)

 これによれば、2005年で、年間66億「キロワット時」だ。前提は、自販機の普及台数は430万台、そのうち9割が飲料自販機で、冷却と加熱が必要で電力消費量は大きい。年度は違うが、全国の電力消費量(9000億キロワット時)に対して、約0.7%で、これが自販機の電力(量)消費比率と見られよう。b)の回答として、電力量では数十億キロワット時ということだ。

 次に、疑問のc)についてだが、「450万キロワット」という数字が出てきた理由は、自販機1台当り消費電力を1000ワットと見て、自販機数の4-5百万台を乗じたものであろう。次の「自動販売機の消費電力と電気代」を紹介したウェブページに、自販機1台当りの定格消費電力は500から1000ワットとされている。(http://saijiki.sakura.ne.jp/denki1/jidou.html)

 ところで、450万キロワット(1台当り1000ワットとの仮定なので、実際はもっと少ない)で1日24時間運転とすれば、年間の使用電力量は450万キロワット×24時×365日で、390億キロワット時となり、前述の66億キロワット時とは桁違いに大きい。自販機は、戸外で夜も煌々と電気がついて冷却、加熱も行っているのにこのように桁が違うのはおかしいと思われるかも知れないが、やはり夜間などは節約が行われている。特に、1995年以来、エコ・ベンダーと呼ばれる仕組みが導入されている。すなわち、夏季には、午前中に冷却を行い、電力使用のピークの午後1時から3時までは冷却をしないということで、現在では100%の自販機がこのエコ・ベンダーだということだ。

 自販機の消費電力を評価するには、キロワット・ベースではなく、キロワット時・ベースの消費電力量が適当かと思う。

 なお、日本自動販売機工業会によれば、2005年の消費電力の水準から2012年度までに、36.9%から17.9%(自販機の種類別に異なる)低下させることとされているので(http://www.jvma.or.jp/kankyou/index.html)、現時点では、前述の66億キロワット時から低下していると推測される。

4) 原発規模との比較について

 それで、発電能力でなく、発電量ベースで福島第一原発の規模と比べると、6基全体の発電能力470万キロワットは年間で(×24時×365日)410億キロワット時なので、前述の66億キロワット時より大きい。従って、自販機の消費電力量は、福島第一原発1号炉46万キロワットの年間発電量40億キロワット時に相当するレベルだと見ていい。

 これが大きなレベルかどうか、また、石原都知事の言うように、全廃すべきような無駄遣いかということについてはいろいろな考え方があろう。私は、電力消費量全体の0.7%というレベルについては、1つの産業としてはこんなものかと思う。

 全廃すべきかについては、これだけ利用されているから利用者のニーズに沿っており、全廃は不適と思う。欧州に無いものだから不要ということについては、米国には多いし、日本人の機械好き、新し物好きという文化的習慣の違いで、便利さが普及につながったものであろうと考える。*1

 節電については、改善の努力が引き続き必要であろう。私としては、戸外に屋根無しで自販機が設置されてあるのはかねて好ましくないと考えている。庇があっても、南向きの直射日光にさらされる場所については、規制すべきだし、省エネの観点で可能ではなかろうか。

 石原知事の自販機無駄遣い発言は、ネット上で支持されているようであるが、私は違和感がある。お台場カジノ構想や、東京オリンピック招致運動で150億円使ったとか(例えば、http://2ch.w-joho.net/archives/1505837.html)は、無駄遣いではないのか。破綻したと言ってもいい新銀行東京は、失政ではないのか。石原知事の発言は、内容、態度、表現全てが傲岸、かつダブルスタンダードであり、私はかねて体質的に嫌いである。

以上

*1
鷲巣力「自動販売機文化史」(集英社新書、2003年3月)。なお、同書でも、消費電力量をキロワット時ではなく、キロワットと表示している。世の中、このような混同が普通なのだろうか。

2011/04/10 (日)

[][]真なるものは甚だ少なく

 通勤途上にある寺(東京都港区)の玄関に黒板があって、法語が1-2週間に1回ぐらいで更新されて掲げてある。今書かれているのは次であるが、何時もわだかまりを感じる。

真なるものははなはだ少なく、偽なるものははなはだ多い

 私の反発は、現代人の悩みは、真なるものがはなはだ多いことにあると思っているからだ。サンデル教授の正義論(id:oginos:20100927)を読んでも、正義ないし真実と主張されることはあまりにも多く、どの人もその主張を曲げようとしない。それなのに、この黒板を書いた人は、何と浮世離れしたことを、との気持だった。

 これには多分出典があるだろうから、それに当って、どのような意味か調べて見ようと思った。以下はその調査の概要である。出典は親鸞だったが、親鸞のこのメッセージの宛先は、私には予想外だった。

(法語カレンダー)

 出典自体は、グーグル検索で「真なるものははなはだ少なく」とすれば出てくる。例えば、浄土真宗本願寺派天真寺(千葉県松戸市)のホームページでは、次のように解説されている。

今月の言葉(法語カレンダーより)

・・・

「真なるものははなはだ少なく、偽なるものははなはだ多い」

今月の法語は、親鸞聖人の主著『教行信証』の「化身土巻」の文に示されます。

  真は「真理、さとり」をあらわし、偽に対する語です。自分中心のものさししか持たない私たちは、真が真と分からず、偽を真と思い込んで、苦しみ迷いながら人生を送っています。…

(http://www.tenshin.or.jp/jihou-word.html#04)

 先ず「法語カレンダー」だが、浄土真宗では、「真宗教団連合法語カレンダー」なるものを1973年以来発行しているらしい*1。無数の信者に接する末寺の僧侶にとっても便利だろうが、何よりも多くの信者にとって、一定レベルの質が確保された法話が聴ける訳で、カレンダーの役割は高いと思う。仏教界もそれなりに努力していると感心した。

(教行信証)

 原典は、親鸞教行信証と判ったが、どういうコンテクストで使われているのだろうか。浄土真宗の根本聖典とされる教行信証は有名だが、私は読んだことはない。ウェブで探しても読めるかと思ったが、この機会に実際の書物に触れておくのもいいかと、図書館から借りた(親鸞著、金子大栄校訂「教行信証岩波文庫1957年)。

 先ずボリュームに圧倒される。文庫本だが、一番小さいポイントと思われる活字で447ページある。「教」、「行」、「信」、「証」、「真仏土」、「化身土」の6巻から構成される。前の4巻と「教行信証」のタイトルとは関係がありそうと容易に読み取れ、では後の2巻との関係は如何、となるが、私には説明できない。問題の法語が載っているとされる「化身土巻」は、123ページのボリュームだ。

 私の元来の意図に沿って、問題の法語の場所を探し始めた。内容はよく判らない。いろんな経典の引用が多くて理解できないし、仮に理解できても面白くなさそうだ。後で知ったが、梅原猛が難解な書と言ったらしい。それで、全123ページを眺めた後*2、出所は、最初の第2段落目にある次のくだりだと推測するに至った。

いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難(かた)く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋(しげ)し。

(「教行信証」化身土巻、第2段落)

 「真」「偽」だけでなく、「実」「虚」もあり、言い回しも「少なく」ではなく「難く」とやや異なるが、まあほぼ同じ意味だろう。しかし、「九十五種の邪道」とか「半満・権実の法門」とか、よく意味が判らない。

 浄土真宗の現在の教派が立派だと思うのは、これらの解釈をウェブに掲載していることだ(他の宗派もそうかも知れないが)。例えば、平野修氏の『教行信証化身土巻』講義というのがウェブにある。これは大部で、例えば「九十五種の邪道」だけで、1500字余の解説が載っている*3。その中に、上記のくだりに関してびっくりする解説がある。私なりに簡単にして、紹介すると、

九十五種の邪道・外道(仏教以外)から、半満権実(仏教のこと)に入っても、真、実は少なく、邪道にいた以上に虚偽になると(親鸞が述べている)いうのは、いったいどういうことなのか。

 平野氏いわく「仏道に帰して虚偽になるという理由はここでは触れられていないが、「観経」十九願の意義を問うことでそれが明らかになっていく」という、全く理解できない解説だ。

(感想)

 以上だけの話で感想を述べるのは汗顔ものだが、親鸞のメッセージの相手方は、一般信者だけでなく、仏教界一般すなわち既存宗派にあったのだろうと思う。同じ仏教の他宗派を全て虚偽として、自分が創設した宗派のみを真とする(それで「真宗」と名付けたのかも知れない)排他的な主張だったのではないか。

 私には、仏教の各宗派の違い、真偽の判断はできないし、他の宗教との優劣も判断できない。冒頭に述べたように、真実の多さに悩む、縁無き一衆生である。

以上

 

*1http://www.shin.gr.jp/activity/publish/calendar.html

*2:全く理解しようとしていないから、これは通読とも言えない。

*3http://www.icho.gr.jp/bunko/kesin/kesin08.htm 11.九十五種の邪道

2011/04/02 (土)

[][]東日本大震災(田老町福島原発)

 3月11日東日本大震災から3週間以上が経過した。マグニチュード9.0の大地震の威力には言葉もないが、私にとっては、田老町(現岩手県宮古市田老地区)の巨大堤防と福島原発の被害が、安全に関する今までの前提を覆すものであって、衝撃であった。何れもよく報道し、評論されているものであるが、若干コメントしたい。

1) 田老町の巨大堤防

 田老(たろう)町は、1978年に完成した高さ10m、延長2.4劼傍擇峙霏腓閉號(防潮堤)があることで、防災モデルとして有名で私も知っていた。今回の津波はその堤防を越え、大きな被害を与えた。この巨大堤防は、1896年明治三陸津波1933年昭和三陸津波で大きな被害を受けた田老町津波対策の決め手として建設されたもので、その経緯については、次の略史が胸を打つ。

http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/kaishi_19/25-Yamashita.pdf

 この堤防は全く無意味だったのではなく、被害が軽減された面もあるという評価があるが、被害の軽減がこれを建設した人達の意図だったのではあるまい。

 防災の理想的モデルと言われたこの堤防の結果を見て、改めて、防災対策として人間は何をできるのか、何をすべきなのかと懐疑的になった。何をすべきかに関する極論は、再発の可能性のある地域には巨額の防災設備投資はせず、住民を安全な地域へ移住させるしかないと考えることである。

 現時点で部外者が早々にコメントすべきことではないが、この田老地区を含め、津波被災地域の人達は、将来どこに住むべきかの選択に迫られることになろうと思う。すなわち、住み慣れ、かつ地域コミュニティが維持できそうな被災地区に戻り、また堤防を作るのか、又は、安全な高台や別の地域に移住して新たなコミュニティを作るのかの厳しい選択である。

2) 福島原発

 私は、原発関係に直接携わったことがなかったが、学界、政府が連携して推進し、その結果世界各国でこれだけ建設されていることもあり、安全が確保されていると信じてきた。チェルノブイリスリーマイル島の事故、国内の各種事故は多く人為的なミスが原因だとされていたし、ソ連(安全に最大のプライオリティを置いていた国とは思えない)のチェルノブイリを除いては、人的被害も限られ、事故後の措置もコントロールされていると思ってきた。

 今回の福島原発の場合、原因が人為的ミスではない地震津波であり、当然それらに対する対策は講じられていると思っていた。また、発災後の対策も全くコントロールされていない。日本の産業技術ないし大規模施設の安全に関してかねて前提としていた信頼が崩れた訳で、私にとっては、人生最大と言っても大げさでない衝撃であった。

 事故後の措置について述べる前に、話は少しずれるが、自分が原子力発電のことを殆ど知らないことに気づき、震災後10日ほど経ってから、本屋に原発関係の本を探しに行った(アマゾンで注文するより、早く読みたいと思ったから)。原発の特設コーナーでもあるかと思ったが無く、理工系の書棚を探しても見つからなく、書店の書籍検索機で「原発」と入れて探した。30冊ほど出てきたが、殆どが在庫無しで、在庫有りのうち割と新しいのに、「原発クライシス 」(高嶋 哲夫著、集英社文庫、2010年3月)というのがあった。小説だったが「原発」関係だから少しは勉強になるだろうと思って買った。原発への国際的なテロ攻撃の話だが、ストーリーに無理があり、あまり面白くなかった(なお、別の本屋で、原子力防災関係の本も買った)。

 これを読んで感じたのは、この小説でも他の映画でも、一般的に国家的な危機の際は、プロフェッショナル専門家と立派な総理なり大統領とがコンビを組んで、専門知識と指導力を発揮して対処している点だ。今回の危機では、小説、映画のようには行かないのは理解できるが、それにしても専門知識を持ったプロっぽい人がいないという感じだし、総理官房長官も聡明な指導力を発揮しているとは思えない。

 専門家と言えば、直接には東京電力技術者だろうが、対応ぶりの結果からみて、小説の主人公のような能力は持っていなさそうだ。大学教授や原子力安全委員会のメンバーも、(東京電力から十分なデータをもらっていないせいかも知れないが)実効ある対策を示せていない。菅首相枝野官房長官原子力安全・保安院については、よく報道されているのであまり述べないが、小説の主人公のような卓越した判断力と指導力は見られない。ただ、情報を自分の所で隠してはいてはいけないという意識だけが先行していて、東電などから入った情報は直ぐそのまま発表している伝書鳩みたいに見える。

 今後、再臨界や爆発の可能性が本当に無いのか、原発を廃炉にするのに何年で幾ら掛かるのか、など専門家も正確には判っていないのではないかとの不安が私にはある。

以上