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踰矩ブログ(耳不順を改め) RSSフィード

 2016年の新年に当り、弊ブログのタイトルを変えることとした。論語の「70にして心の欲する所に従い矩を踰えず(のりをこえず)」をもじり、矩を踰える趣旨で「踰矩」ブログに変える。音読みで「ゆく」、訓読みで「のりこえ」と読んでほしい。今までの「耳不順ブログ」にもそれなりに愛着があり、また、継承関係を示す意味で、「踰矩ブログ(耳不順を改め)」とかっこを付けた。  趣旨の詳細は、2016年1月1日付けの記事で説明してあるが、要するに、長いサラリーマン生活を終え、60歳、70歳になって気ままに過したいということだ。
 本ブログは、2006年頃から非公開で書き溜めていたものを2010年に公開し、その後諸事に関する私の雑感を綴ってきた。タイトルの「耳不順」、「踰矩」に従い、偏った視点でと思ってきたが、そのことより、長い、くどい、話題が固いと評判が悪い。
 本ブログにコメントが寄せられても、有難いことだが、かねての方針通り、原則として耳を傾けない(順わず)こととします。マナー違反にご容赦のほどを。(2016年1月記)
 似顔絵の経緯は、2011年12月11日のブログを参照。 [累計アクセス数統計については、2017年8月7日以降、はてなダイアリーのカウンターサービスが廃止となった。]

2012/01/29 (日)

[]ヘモグロビンA1c値の変更

 カミングアウトするが、私は20年来の糖尿病患者だ。現在は2か月に1回程度医者に行って血液検査と投薬を受けている。血液検査は、昔はもっぱら血糖値だったが、今はその代替指標として「ヘモグロビンA1c(エーワンシー)」(単に「A1c」と呼ばれることも多い)の測定が主流だ。

 先週1月26日の定期検査の際、たまたま自分が趣味的に作成した過去17年間のA1cの推移をグラフにしたものを持っていき見せた。10数年来の付合いの医師だ。それで医師が言うには、この4月からA1cの測定値が国際標準に合せて変るそうだ。従来より0.4高くなるので、このグラフもこれからは連続性を見るためにどう表すか問題だねという。他人のグラフの作り方まで心配してもらった次第だが、帰ってから調べて見た。以下はその紹介だが、国際標準化競争に敗れた日本という姿が見えてくる。先ず、糖尿病などとは縁の無い方のために、1)A1cの解説を少し、次いで、2)A1c値の変更についての関係学会のプレス発表、3)変更の経緯、4)私の感想、5)読者が誤解しないように私の病状、と述べていく。

1) 血糖値ヘモグロビンA1c(HbA1c)

 糖尿病の指標としてかねて使われているのが血糖値で、血液中のグルコース(ブドウ糖)量(mg/dl)で示す。空腹時で109mg/dl以下なら正常だ。

 血糖値の問題は、常に変化していることで、例えば食事をして糖分を体内に吸収すれば直ぐ上昇する。体調によっても変化する。従って朝食を摂らない空腹時の採血による測定が標準である*1

 次いでヘモグロビンA1cだが、先ずヘモグロビン(Hb)とは、赤血球中のタンパク質酸素を運搬することで有名だ。正常なヘモグロビンの大半はヘモグロビンA(HbA)だ*2

 ヘモグロビンは糖とも結合しやすく、糖と結合したものをグリコヘモグロビンという。グリコヘモグロビンの1つがヘモグロビンA1c(HbA1c、単にA1cとも)とのことだ*3ヘモグロビンと糖との結合は、1-2か月間程度安定なので、HbA1cの全ヘモグロビン中に占める割合(%で表示)は、血液中の糖分濃度(血糖値)の安定的な指標として用いられるようになっている。この割合が5.8%程度以下なら正常と言われている。

 余談だが、「Hb」はヘモグロビンの略号で世界共通のようだが、何故hemoglobinの略号が「Hg」でなくて「Hb」なのかが不思議だ。これでウェブを調べたが1時間以上無駄にした。英語のページの翻訳ぺージで、Hgだと水銀と同じになると書いてあったが、それが理由になるのだろうか。hemoglobinの略語として「Hgb」も一部使われるらしいが、これならまだ落ち着く。あまり不思議だったので、この「はてな」の「人力検索」で「何故hemoglobinの略語は、HgでなくHbか?」との質問を出した。「人力検索」は初めての利用だ。いい答をもらったら、この記事のコメントか、改めての記事で紹介したい。

2) HbA1cの値の変更

 医師の言っていた測定値の変更は、その6日前の1月20日の朝日新聞ウェブ版に出ていた*4。日本糖尿病学会などが、1月20日に合同で記者会見を行い、国際標準に合わせるためヘモグロビンA1cの値の変更を4月以降の一般診療で実施すると発表したとのことだ。

 糖尿病学会ホームページにも資料がある。その概要は次のとおりだ。

糖尿病学会発表資料の抜粋

http://www.jds.or.jp/jds_or_jp0/uploads/photos/818.pdf

a) 従来日本で使われてきたHbA1cは、日本糖尿病学会(JDS)が開発してきた方式(JDS値)だが、国際的に多くの国で使われているNGSP*5方式による値と0.4の差がある(NGSP値の方が高い)。

b) 本学会では、2年前から、日本の学者も海外での論文発表ではNGSP値を用いるよう推奨してきた。この4月からは国内の日常診療等においてもこのNGSP値のHbA1cを使うこととする。ただし、当分は混乱を避けるため、JSP値を併記する。

c) NGSP値を「HbA1c(NGSP)」、従来の日本でのJDS値を「HbA1c(JSP)」と表記する。NGSP値は、文字数の制限がある場合、「A1C」(全て大文字)とも表記できる。

d) 換算式(簡便型)は、HbA1c(NGSP)=HbA1c(JSP)+0.4 (単位は%)

e) 糖尿病の診断は、この3月までは、従来のJDS値を用いて6.1%以上を糖尿病型とし、4月以降は、NGSP値を用いて6.5%以上を糖尿病型とする(0.4%ポイントの差があるから、診断基準は現在と変わらない)。

 驚くべき内容で、医療の現場(医師看護師等)や患者の相当な混乱が予想される。それから糖尿病学会ホームページをいろいろ見てみたが、変更の理由としては国際標準のNGSP値への統一ということしか説明されていない。素朴な疑問として、a)両方式は何故違うのか、b)何故日本は世界とは別の方式でやってきたのか、c)国内の患者に相当の混乱を惹き起す変更を何故する必要があるのか(学者の論文だけ国際標準化すればいいのではないか)が考えられるが、同ホームページにはそれへの説明が見当らない。

3) HbA1c標準化の経緯

 前項の疑問は、糖尿病学会のページでは判らなかったが、いろいろ探して、次の記事を見つけてやっと得心した。c)については判らないが、a)、b)の疑問は解決した。面白いので、抜粋としても少々長いが紹介する。

http://therres.jp/pdf/dr_kashiwagi_opinion.pdf

「A1CとHbA1c糖尿病検査はどう変わるのか」 (抜粋)

柏木厚典(滋賀医科大学附属病院病院長)の談話 "Therapeutic Research" vol.31 no.2 2010年

 血中ヘモグロビンのうちA1は,α鎖,β鎖に結合した糖の種類によってさらに分画されます。「β鎖N末端のバリンにグルコースが結合したものがHbA1c」(注、私には理解できない)です。これを高速液体クロマトグラフィで測定し,ヘモグロビンに対するHbA1cの割合を算出し,糖化ヘモグロビンの指標として用いています。

 JDS法もNGSP法も,測定の原理・定義はまったく変わりません。ですから,当初はJDS法による測定値と,NGSP法による測定値がそれほど乖離しているとは考えていませんでした。しかし,実際には,それぞれHbA1c以外のコンポーネントも同時に測定してしまっており,同じ検体を測定すると,NGSP法ではJDS法より0.4ポイント高い値を示すことがわかってきました。

 これでは混乱を招くということで,2007年に国際臨床化学連合(IFCC)外3機関が集まり,「HbA1cヘモグロビンのβ鎖のN末端のバリンにグルコースが安定的に結合したものを測定し,全体ヘモグロビン量に占める割合を算出する」と明確に定義づけました。*6

 こうして測定されたHbA1cは,「IFCC値(mmol/molHb)」と表記することになりました。IFCC値はJDS法と比べると約1.5ポイント低い値,NGSP法と比べると約1.9ポイント低い値を示すことがわかりました。これまでのJDS法やNGSP法では,定義以外のものも含まれた状態でHbA1cとして測定していたためです。

 しかしながら,長い間,蓄積した測定データがあるところに,突然,測定法を変えて従来よりも1.5ポイントも低い値を提示してしまったら,臨床の現場は混乱してしまいます。そこで,IFCC値は単位を%ではなく,mmol/molで示すことで日本や欧州では話がまとまりつつありました。この単位にすると,従来の測定値が6.5%の場合,関係式から算出して50.7 mmol/molとなります。このように変換すれば,まったく異なる数値になるため,現場の混乱を最小限にできると考えたのです*7

 日本は,数年間はJDS値とIFCC−HbA1c値を併記し,次第にIFCC値へ移行するとの方針で準備を進めていました。ところが,米国がこの国際単位(IFCC値)への移行に同意せず,従来どおりNGSP値を用いるという方針を貫いたため,国際単位の設定が暗礁へ乗り上げてしまいました。そこで,日本は経過措置として,まずはNGSP法を採用することで,諸外国と足並みを揃えることにしました。

 私が感心したのは次の点だ。

a)米国が真面目な国際標準化の検討に横やりを出して自国の主張Jをごり押しした(日本はまたもや敗れた)。

b)同じ測定方法であっても(測定器の校正のための)標準物質の違いにより値が相当異なり、かつ専門家もそのことに相当の間気がつかなかった。

c)国際的な合意の方向であるIFCC値の設定に際しては変更に伴う混乱を避けるため、千分比を採用するなど、本質的でない部分でいろいろ工夫されていた。

d)前述の日本糖尿学会のプレス発表でも、将来のIFCC値への移行を暗黙に予定しているようなところがあるので、将来HbA1c(NGSP)からまた変更される可能性がある。

4) 感想 

 始めにまたカミングアウトすると、私は国際標準や国際単位系というと先ず懐疑的になる傾向がある(弊ブログ原発放射能とSI」 id:oginos:20110425 参照)。国際市場での競争が厳しい産業分野や国際的な学会での評価を競う学問の分野では国際標準や国際単位系の重要性は疑えないし、従来日本が国際標準の形成への努力が十分でなく市場で苦杯を舐めたことが多いことは承知している。しかし、個人の生活の分野では必ずしもそうではないのではないか。国内で長期間にわたり馴染んできた従来の単位や標準との継続が重要な場合もあろうし、例えば医療福祉の分野で新しい技術の芽が出れば、国際標準化を待たず、国内で早く標準化し、普及を図る方が国民のためになると思う。

 それで、HbA1cだが、日本のJDS値は、世界に先駆けてその標準化実用化に努力してきたもののようで、NGSP値に負けたことへの無念感は上記柏木談話でも若干うかがわれる。それは、糖化ヘモグロビンの測定理論値に近いと思われるIFCC値との差が、NGSP値の1.9ポイントであるのに対し、JDS値では1.5ポイントとやや小さいことからもうかがわれるように思う(私見)。

 私の20年を越える糖尿病との付合いの中で、当初の血糖値から、途中でA1cも測定するようになった。医師から、これからはA1cで診ます、体調で日々変わる血糖値より2か月程度の平均値が判って優れていますと言われても、慣れるまで数年かかった。ただ患者としては、空腹時血糖値と異なり、採血の日の朝食を絶食する必要がなく手軽でよくなったという面はあった(検査費は高くなったが)。

 しかし、この4月からのNGSP値への変更は概念上全く変わらずに(患者にとっての意義は何もない)、値だけが0.4上がる訳だ。またそのうち、IFCC値に変るというのでは、国際標準化というのが患者にとって何なのかとの疑問が出てくる。

5) 私の糖尿病

 読者の中には、私は糖尿病で大変な闘病生活を送っているのではないかと心配する人もいるかも知れないので、取りあえず大丈夫なことを説明する。

 1989年に3年間の米国赴任から帰国して人間ドックに行ったら境界型糖尿病と診断された*8。その後完治することはなく、レベルが漸進し、今では薬を服用している(ベイスン3錠/日とアマリール1/2錠/日)。まだインシュリンの注射までは行っていない。2か月に1回程度医者に行って血液検査と投薬を受けている。合併症は無い。合併症の代表である網膜症については半年に1度程度眼科に行って検査を受けている。f:id:oginos:20120129210336j:image:right

 生活はごく普通である。食事は当初は意識してダイエットしたが、今はそれほど意識せずに減量できているようだ。アルコールも付合いの際は失礼の無いように飲んでいる。ただ昔ほどは飲まない。A1c値は、最近は6台半ばだ。医師からは6台前半を目標にしろと言われているが、最近2回は6.7だった。A1cの測定を本格的に始めた1995年以来の変化のグラフを別添する(医師に持って行ったもの)。

 ということで、取りあえず現時点では糖尿病とまあ適当に付き合えているかと思っている。今後悪化の可能性はあるが、その場合はインシュリン注射という道も残されている。

*1グルコースを一定量摂った後の1時間後、2時間後、3時間後の状況をフォローする「糖負荷検査」も必要に応じ行われる。

*2:他に、HbF、異常なものにHbS、HbHなど。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%A2%E3%82%B0%E3%83%AD%E3%83%93%E3%83%B3

*3:HbAには、HbA0、HbA1a、HbA1b、HbA1cなどがあるとのこと。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%A2%E3%82%B0%E3%83%AD%E3%83%93%E3%83%B3A1c 

*4http://www.asahi.com/national/update/0120/TKY201201200469.html

*5:National Glycohemoglobin Standardization Program

*6:編者注、「安定的に結合]がポイント。

*7:編者注、mol(モル)比とは分子数の比で、重量比とは概念上殆ど変らないはずと思う。冒頭にm(ミリ)が付いているから千分比になり、従来の百分比とは値は異なる。

*8:余談だが、米国の料理人は、食器の地を見せることを恥と考えているようで、ポテトや野菜などで満杯にした皿が出てくる。一方戦後に産まれた私は、食事を残すことを恥と教えられてきたので、米国では自然に食過ぎとなった。

2012/01/21 (土)

[][]暇と退屈の倫理学

國分功一郎「暇と退屈の倫理学」(朝日出版社2011年10月初版)

 新聞の書評*1を読んで、タイトルに興味を持って買った。私もそのうち職が無くなって暇になる。その時に何をしようか、退屈にさいなまれるのか、という不安だ。

 読み始めると、序章に「本書は一息に通読されることを目指して書かれており」とある。読み方を指図するとは失礼なとは思いつつも、その指定に従い、一人で帰省した際の往復の電車の中で読んだ。最後の結論の章に来ると、「(これから提示する)二つの結論は、本書を通読するという過程を経て初めて意味を持つ」と傍点つきで書かれている。これらに見られるようにやや饒舌な評論であるが、面白かった。ある書評では啓蒙書とあったが、私としては啓発されることが多かった。啓発されたことの1つの「定住革命」について先ず紹介し、次いで本書で紹介されている欧州哲学者の退屈論に関し、「退屈」の各国語の語源との関わりでコメントする。最後に、退屈論に関する感想を述べる。

1) 定住革命

 著者は、人間は何時から退屈しているのかとして、西田正規の「定住革命」*2を紹介している。人類史の革命である1万年前の定住革命以降、退屈という感情が芽生えてきた。定住革命の前は「遊動生活」*3で、人類は狩猟をしつつ場所を移動する。その場合持ち物は最小限で、食料を貯蔵する必要もなく、貯蔵食料の多寡による貧富の差もない。

 これが定住生活に移ったのは、約1万年前に地球上で進展した氷河期から後氷期への温暖化である。それまでの草原が森林になって見晴しが悪くなり狩猟ができなくなったため、やむを得ず漁業農業を生業とする定住生活がユーラシア大陸各地で始まった。現代では、人類にとって定住生活が当然の前提と思われているが、本来は遊動生活が人類にとって自然であった。定住により、ごみ捨て場、トイレ、墓地等本来的には不自然なものが必要になり、また貯蔵の多寡により貧富の差が生まれた。

 遊動生活では移動のたびに新しい環境に適合しなければならず、毎日も雑事で結構忙しく、脳は絶えず活性化される。しかし、定住生活者が毎日見る変化の無い風景は、感覚を刺激する力を次第に失っていく。従って定住者は、脳を活性化させる別の場面を求めなければならない。これが文明、文化の始まりである。それから、農作業の季節ごとの繁閑、貧富の差により暇な時間、暇な人が生まれてくる素地ができた。「退屈を回避する場面を用意することは、定住生活を維持する重要な条件であるとともに、それはまた、その後の人類史の異質な展開をもたらす原動力として働いてきた。(本書p.88)」

 暇と退屈が1万年前から生まれていたというのには啓発された。

2) 哲学者の退屈論

 過去の有名な哲学者の退屈論が紹介されている。パスカルバートランドラッセルハイデッガーその他が、多少ニュアンスの異なる視点から退屈論を論じている。私は、各国語の「退屈」の語源との関連という視点で、コメントする。

(ハイデッガードイツ語)

 ハイデッガーの「形而上学の根本諸概念」という本に書かれている退屈論は詳細に紹介されている。著者の最終的な主張は、このハイデッガーへの批判的分析をベースにしている。私は哲学には弱く、正直言って理解できたとは言えないが、あえてコメントする。

 ハイデッガーの退屈では3つの形式が論じられている。内容の説明は省略してそのドイツ語は、巻末の注によれば、次のとおりである。

a) (第1形式) 何かによって退屈させられること (Gelangweilt-werden von etwas)

b) (第2形式) 何かに際して退屈すること (Sichlangweilen bei etwas)

c) (第3形式) なんとなく退屈だ (Es ist einem langweilig.)

 ドイツ語の講釈は省略して、ポイントは、共通して使われている「退屈」を示す語の要素「langweil」で、その名詞形は「Langeweile (ランゲヴァイレ)」だ。Langeweileは、「lang(英語でlong、長い)」と「Weile(英語でwhile、時間)」との合成語で、「長い時間」が元来の意味だが、「退屈」の意味に転じた(辞書には「退屈」しか出ていない)。

 ハイデッガーの退屈論の紹介では、「ぐずつく時間による引きとめ」、「時間をやり過ごすための気晴らし」、「物特有の時間」、「根源的な時間への引きとめ」など、「時間」との関係が詳細に分析されている。これは、Langeweileの語源に影響されていると考えていいであろう。ハイデッガーの「退屈」は時間の遅れ的な感覚を念頭に置いているように見える。

 ハイデッガーの退屈からの解決策は、「自由」になることで、それは「決断」することによってだとする。著者はよく判らないと批判している。私もよく判らないが、その「自由」とは、引き留められた時間を自分の自由に使えるようにすることで、そのためには束縛を捨てて何かを選択するという決断をしろと言っているように思える。すなわち、ドイツ語の「退屈」は、時間の遅れへの嫌悪感が根底にあるようだ。

(パスカルフランス語)

 パスカルフランス語では、退屈は、ennui、アンニュイである。「アンニュイ」は日本語にもなっており、憂愁、倦怠の意味で使われ、語感はロマンチックである(私も若い頃、好んだ語だ)。しかし、フランス語の辞書を見ると、第1義は、「心配、不安、トラブル」、第2義は、「退屈、倦怠」、第3義が「憂愁、憂鬱」、第4義は古語で「悲嘆」だ。ennuiの語源は、英語で言うとannoy(悩ます)で、これが第1義の「不安等」に通じているようだ。

 本書で紹介されているパスカルのパンセでは、「おろかなる人間は、退屈に耐えられないから気晴らしを求めているに過ぎないというのに、自分の追い求めるものの中に本当の幸福があると思い込んでいる」と言っている。うさぎ狩に興じている人に、うさぎだけを与えても喜ばない、追い求めるのはうさぎではないからだ。

 パスカルの退屈への解決策は、神への信仰だとのこと。ennuiの第1義が心配、不安であることから、否定すべき悪だという概念が前提になっているように思える。

(ラッセル、英語)

 バートランドラッセルの「幸福論」の中の退屈論が紹介されている。ラッセルによれば、「退屈とは、事件が起きることを望む気持ちがくじかれたものである」、「退屈の反対は、快楽ではなく興奮である」とのこと。ラッセルの解決策は、「幸福とは、熱意をもった生活を送れること」だ。

 ラッセルの「退屈」の英語は、別途「幸福論」の対訳をウェブで確認したところ*4、「boredom」だ。語幹のboreは動詞で、能動態のboringは、「(対象が)退屈なこと」、受動態のboredは、「(主体の人が)退屈していること」だ。反対語が興奮(excitement)であることも当然だ。動詞もexciting、excitedと、boreに同じ形で対応している。

 人の退屈の表現が受動態をベースにしていることから、解決策も当人から主体的に熱意をもって行動すべきとのことになるのではないかと推測する。

 このように「退屈」の各国語の語源が相当違っていることは興味深い。退屈論の視点には、それぞれの言語上の違いが反映されている面もあるのではと思う。

 「暇」について、著者は「退屈」との関連で詳細に分析しているが、西欧の哲学者はそれほどには取り上げていないように見える。「暇」の各国語は、手許の辞書で見ると、英語でfree time、leisure、ドイツ語でZeit(ツァイト、本来は「時間」)、Musse、フランス語で temps (libre)(タンリブル、本来は「(自由な)時間」)、loisirなどだ。すなわち、単なる「時間」を意味する語で表現されることが多いことに影響しているのではないかと思う。

3) 感想

 暇と退屈にどう対処するかとの著者の結論は、冒頭にも引用したように、「本書を通読するという過程を経て初めて意味を持つ」ものであるし、更に、「結論だけを読んだ読者は間違いなく幻滅するであろう」とまで念を押している*5。従って、著者の結論を引用することはできないので私の感想だけを述べる(著者の結論とは若干違う)。

 著者と世界の哲学者達は、退屈を悪とし、それを克服ないし避ける方法を分析しているが、そうでもないのではないかと思う。日本語の「退屈」の語源は、「仏道修行の苦しさ、難しさに負け、精進しようとする気持をなくすこと」という仏語らしい(広辞苑)。仏道に精進しようとした人が凡人のレベルに落ちてきたぐらいで、必ずしも悪とは見られていないのではないだろうか。

 関連して本書より少し前に読んだ本を少しだけ紹介する。

鷲田清一「待つ」ということ」 (角川選書、2006年初版)

 知人に何か本を紹介してくれと言って教えてもらった本だが、正直言って、全体的によく判らなかった。出だしが、携帯電話などの普及によって「待つ」ことがなくなり、せっかちな社会になったが、それで失われていく、待つことによる悼みの感情があるのではということだ。「待つ」のさまざまな局面が、エッセイ的に並べられている。

 詳細は省略するが、退屈との関連では、「倦怠」というタイトルの節以下4節にわたり、サミュエル・ベケット戯曲ゴドーを待ちながら」が紹介されている。この戯曲は、先の國分著のあとがきでもちょっとだけ取り上げられている。鷲田著での詳細な解説を見る限り、全く面白くなさそうな戯曲だし、理解できそうもない。待つことと暇つぶしの行動が延々と続いて、結局待ち人のゴトーは現れないらしい。

鷲田著の結論らしきものを少し引用する。

・「待つ」ことに何の保証もないことが、「待つ」ことを可能にしている。

・「待つ」は、期待や予想と連動しているが、それらほど現在に繋ぎとめられていない。・・・ときに偶然に救われ、ときに偶然に裏切られ、そのすべてをさだめとして甘受するという、受動というより受容をこととしてきた。「待つ」は、そういう待機、そういう受容としてあった。

 西欧語の「受動」は、動作の主体と受け手が明示されるが、「受容」は受け手だけで、主体はイメージされないことが多い。「受容」はいかにも日本語的な表現だが、日本人の私としては親しみも湧く。「退屈」も「受容」すれば何ということもないかも知れない。

 職がなくなった後に予想される暇と退屈は、恐れるべきものではないかも知れない。退屈は歓迎すべきことのような気もする。退屈と怠惰の中に、願いとも言えないことの成就を「待つ」過ごしかたもあろう。

*1日本経済新聞2011/11/20 http://www.nikkei.com/life/review/article/g=96958A96889DE1E4E4E1E7E2E2E2E3EBE3E3E0E2E3E39F8890E2E2E3;p=96948D819791E18D91938D81E38D

*2:西田正規「人類史のなかの定住革命」 (講談社学術文庫、2007年)

*3:「遊動」であって、家畜とともに移動する「遊牧」ではないことに注意。

*4http://russell.cool.ne.jp/beginner/KOFUKU.HTM

*5:結論で使われている用語(贅沢を取り戻す、動物になること)だけを見ても誤解されることは間違いないと私も思う。

2012/01/09 (月)

[]詐欺メール

 先週5日の夜、私としてはやや凝った手口と思える「詐欺メール」*1が舞い込んだ。

 発端は、フェイスブック上のメッセージとして私に来た連絡だ。女性名で、「どうしてもお話したいことがあってメッセージを送りました。Facebookの中ではちょっと話づらいことなので、直接メールが出来れば・・と思います」ということで、記されたメールアドレスにメールがほしいということであった。

 うかつだったが、少し引かれるところがある文面で、昔の知人が結婚して苗字が変っているのかも知れないと思い(甘いな)、連絡することにした。それでも少し用心して、パソコンからのメールだと、ウィルスメールを送られるかも知れない(もちろんリスクウィルスだけではない)と思って、携帯からメールを送った*2。「フェイスブックのメッセージを見ました。何でしょう」というごく短い文面だ。

 早速返信があった。相当長文だが概要は次の通りだ。

 自分はある女性タレントのマネージャーをしているが、そのタレントが最近精神的に疲れているようで、自分もケアできにくくなっている。最近2人でフェイスブックをいろいろ見ていたら、当人が貴方のブログに何か感じるものがあったらしく、「どうしても話をしたいから何とか連絡を取れるようにお願いしてもらえないかな」と、久しぶりに自発的なアクションを起こした。所属プロダクションが厳しく管理していて、メールも出しにくいし、実名原則のオープンなフェイスブックにも登録できない。彼女が秘かに利用しているSNSから彼女の紹介状を出すので、そのURL(記載)にアクセスして、本人の世間話の相手になってほしい。なお、今のところ、本人の実名は出せないことを理解してほしい。

 ここまで来ると流石にうかつな私も、連絡を寄こしたのが昔の知人などではないことが判った。更に、この人は返信メールに致命的なミスをしていて、すなわち、私が携帯でメールを送った*35分後ぐらいに早速返信をくれ、かつそのメールの冒頭に、「自分の返信が遅れて申し訳ない」と書いてあったのだ。すなわち、かねて用意してあった返信メール文ということで、始めのフェイスブックも含め、いろいろな人に出しているに違いない。ちなみに最初のフェイスブックのメッセージにも返信メールにも、宛先(すなわち私)の名前は無い。

 興味半分にそのURLに、携帯電話からアクセスしてみた。「ひみつさん」との名前で雑感を語っているページを少し見せ、更に「招待を受け参加する」とのエントリーのクリックボタンがある。

 詐欺メールということが判って、これ以上は騙されない確信を得た。それで特別招待という特典(?)を活かして更にエントリーし、どういう仕組の詐欺なのか探ろうかとも考えたが、結局は止めた。というのは、友人のコメントを聞いてからと(又は成行きで友人の誰かがアクセスしてくれないかと)思ったが、次の事情で友人にメールを出せなかったからだ。

 この詐欺メールには1つ妙なことがあって、携帯に来た上記メールをパソコンに送ったら*4、全文文字化けしてしまうのだ。正確に言うと、携帯で転送メッセージを作成しようとすると、その時点で原文が文字化けする。パソコンメールを携帯で受信して文字化けというのはよくあるが、携帯メールをパソコンに送信しようとして文字化けというのはあまり聞かない。

 これは、あちこちに転送されて詐欺の仕組がばれるのを避けるための工作の1つなのかと思った。ある知人に聞いて見たが、携帯からのメールの転送の場合に文字化けするのはあり得ることだとのこと。それほど高級な技術でも無さそうだが意識してやっているのか、はたまた向うのメールの設定がたまたまそうであって無意識なのかは判らない。

 フェースブックを始めとするSNSは、実名原則(匿名を認めているのもある)での交流をプロモートしている。いろいろなリスクがあることを認識する必要があると改めて感じた。

*1:この「詐欺メール」の語が適切かはよく判らない。「迷惑メール」というと、商品広告やアダルトメールなどを受取人の意思に反して送付するという意味が前面に出ていて、詐欺を必ずしも前提にしていないようだ。「詐欺メール」だと、受取人を騙そうという意図がはっきり明示できて、今回の私の場合にはいいだろうと思う。

*2:私の持っているアンドロイドスマートフォンにも「ウィルス感染大流行の前夜」との報道がある。ウィルスの発見数が増加しているが、まだ被害報告は無いらしい。http://www.nikkei.com/news/article/g=96958A9C93819499E2E7E2E0E68DE2E7E2E3E0E2E3E0E2E2E2E2E2E2

*3フェースブックの私へのメッセージは夜だったが、私が送信したのは1夜明けた翌朝。

*4:パソコンから知人に送ってコメントをもらおうとの趣旨。私は携帯メールは遅くて苦手なので、できたらパソコンで処理したいと考えている。