動機付け教育は疑問

「やれと言われたからしかたなくやる」という人が到達できるところはあまり高くはないだろう。
だから、自分からやるように、つまり自主的になってほしい。
指導する人(教員とか上司とか)のほとんどが、そう思っているのではないだろうか。
そこで現れるのが「動機付け」というものだと思う。
しかし、私はあまり賛成できない。
いや、たまには必要だと思う。しかし、ごくごくたまにで十分だと思う。
 
一番安易に取られるのはアメとムチという方針だろう。
しかし、これはすでに矛盾している。
まず、ムチだが、「やらなければ叩かれるからやる」というのは自主的とは言わない。
アメはどうだろうか。
「勉強を(あるいは、仕事を)やればアメ(ご褒美とか昇給とか)がもらえる」というのは、
アメが動機であって、勉強や仕事が動機ではない。
それは自主的に勉強している(仕事をしている)とは言えないだろう。
アメが別の方法で手にはいる/なくなる/興味がなくなる等のことが起これば効力がなくなるはずだ。
それに、アメのためにする勉強も仕事も、たいしたことはあるまいと思うのだ。
 
そこで、多くの指導者は、すぐに手に入らない/なくならない/(たぶん)興味もなくならないアメと、
絶対逃げられない恐怖のムチを与えようとする。
そのアメとは「将来」であり、ムチとは「自己責任」だ。
「がんばればすばらしい将来がある。がんばらなくてもいいけど、その結果は自己責任だよ」と。
この方法の欠陥についていちいち説明する気力が出ないのだが、普通うまくいくはずないでしょ?
 
この方法が最も有効なのは、仕事人生も後半にさしかかった、特に能力が高いわけでもない
おじさんたちに対してであろうと推測する。若者や、ましてや、子供には機能しないはずだ。
おじさんに有効なのも、「将来(の夢)」というアメより、「自己責任(でリストラかもね)」
というムチの方だろう。
 
おじさんたちが、汲々と会社人生を紡いでいくことを否定はしない。がんばれ。
しかし、子供たちを同じように扱ってほしくないのである。
 
そう言うと、多くの教員は「自分はそんなにひどいことはしていない」と言うのではないだろうか。
(会社の上司には、「うん、そうしてる」と言う人も多かろう。)
子供たちに、いろいろな職業のことを話し、体験させ、夢を語らせる。
それから、その職業につくには、今何をしたらよいか考えさせる。
もちろん、強要はしない。自分の未来を自由に考えさせたい、、、などと。
 
しかし、それは要約すると「がんばればすばらしい将来がある。がんばらなくてもいいけど、
その結果は自己責任だよ」ということだろうと思うのだ。
 
それに、子供が、「医者になりたいです。どうしたらよいですか」と言ったら、次にどう言うのだろう。
あるいは、「弁護士になりたいです。どうしたらよいですか」「プロ野球選手になりたいです」
「お笑い芸人になって芥川賞が取りたいです」「カリスマ美容師になりたいです」「大工さんになりたいです」
「平凡な人生を送りたいです」だったら。
どの場合でも、たぶん、おんなじだと思う。
「ほう、すごいね。がんばってくれ。先生は応援するよ。で、今やるべきことは勉強だな」ではないだろうか。
こういうことをしてよいと思う。いや、必要だと思う。
しかし、多大な時間をかけて何度もやるべきことではないと思う。
一度目はよいが、二度目以降は茶番だろうから。
 
「何度もやる必要はない」と思っただろうか。
私はそう思う。
そして、「将来についてたまに考えることは、いつか役に立つ」と思う。
しかし、「将来について考える」を勉強の動機付けと考えるなら、
「一度考えるだけでしっかり勉強する子供になる」と思うだろうか。
たぶん、そうはならないだろう。
だから、「勉強させるため」なら「何度もやる」ということになってしまう。
 
よく「雨乞いは絶対失敗しない」という。
雨が降るまで雨乞いをやめないから、と。
「勉強の動機付け」もそんな風になっていないだろうか。
 

将来の(ちょっとアレな)夢

中学生のときだったか、友人が「ああ、はやく大人になって、お姉さん(実姉という意味ではない)
のおっ○いをも○ぬきたい」と叫んだ。
昭和(たぶん、いつでも)の男子中学生の頭の中なんて、そんなもんだと思う。
 
その後、思索好きの別の友人が「ハンサムに生まれなくても、大金持ちにならなくても、
勉強ができなくても、スポーツが苦手でも、普通に生きてれば、たいていの人にはあのユメがかなう。
考えてみると、世の中は案外と公平にできてるもんだなぁ」としみじみと言うのだった。
 
いや、ほんとにそう思う。
 

大人たちの(ちょっとアレな)現実

普段あまり部下を指導しないのに、部下が失敗するととても強く叱る上司がいる。ように思う。
その上司はたぶん「強く叱っておけば、失敗しなくなるだろう」と考えているのだろう。
なぜ失敗しなくなるかというと、部下はもう叱られたくない一心で、自分でいろいろ考え、
気を付けるようになるだろうから。
だから、部下が失敗しないためには、きつくきつく叱っておくとよい。
と、考えているのではないかと想像する。
 
しかし、この上司さんは、指導に使う労力をなるべく少なくしようとしているだけだと思う。
たまに強く叱るだけで部下が育つわけないじゃん。と思うのであるが、どうだろう?