撫民?

 前に『鎌倉時代中期に浄土宗の思想から影響を受けた幕府や朝廷の要人が、庶民の権利にも軸足を置いた政治をやり始めたが、霜月騒動でその勢力は壊滅した』みたいな事を本で読み、『戦国時代になって領地開発が行われるまで撫民思想は途絶えた』みたいな話を読んだ覚えがあるのですが、この本を読むと、え?とか思いますよ。

「城取り」の軍事学

「城取り」の軍事学

 著者の専門が城館跡研究なので、語る語る・・・で日本の戦国時代の城というものは、ほぼ軍事目的で、手っ取り早く、入手しやすい材料、その地形に合わせてコンパクトに防備を固めるというもので、様式に囚われない個性的なモノばかりだといいます。
 土の城→石垣の城、みたいな直線的発展ではなく、石垣を築いたのは織豊系の築城形式で、それも関が原から大阪の陣までの間に建てられたものが多く、その時の状況に合わせているらしいとのこと。
 しかし気になったのは、ヨーロッパや中国、インドなど大陸でよく見られる都市を囲い込んだ形の城が日本にはないということ。
 惣構と有名な小田原城ですら城下町全体を囲い込んだものではなく、中心部に強力な防備施設をつくるという軍事的なものであったということ。
 戦国大名は、その居城の縄張りからして多くの人間を収容できるような城を建てた事がなく、防御に有利に、コンパクトに迎撃する事だけを考えて城を建てていたようです。一般兵の宿泊施設すら完備しているところは少なく、野宿に近い形式がほとんど。とても数千人の領民を収容して守る、なんて事は空間的にムリらしいです。
 戦国大名は、その地方の専制君主として治水、利水事業を行い、それまでの日本の領主に比べると遥かに領民の利害に敏感だった事が知られていますが、すべては年貢を確保する為であり、共同体そのものを守るという立場では、城跡からは読み取れないそうです。
 なるほどねー。