伍子胥について

何度かちょこちょこ名前を出している人物なのですが
今日はこの伍子胥についての説明にします
伍子胥の父は楚の国の平王に仕えていたが、政治権力争いに巻き込まれ讒言され、伍子胥の父と兄は平王に無実の罪で処刑されてしまった
伍子胥も処刑されそうになるが友人の申包胥の助けもありなんとか楚の国から逃げ出し、紀元前522年に呉の国に亡命し呉王闔閭(このときは公子光)に仕え、平王への復讐を誓う
呉王闔閭は伍子胥を重用し、孫子兵法書を著した孫武を幕下に加えて国力の充実を図った
伍子胥が呉に亡命してから19年後、呉王闔閭は伍子胥のおかげで王位に就くことができたので、その恩に報いるために楚へ侵攻を開始した
伍子胥は政治家としても戦闘指揮官としても優秀で、孫武の助けもあり楚の国の首都を陥落させることに成功する
しかしこの時すでに平王は死んでいて、その跡を継いだ昭王は他国に亡命してしまった
昭王の行方を追ったが捕える事はできず、仕方なく平王の墓を暴き、平王の死体に鞭を打つ事で恨みを晴らした(死人に鞭を打つの故事)
その話を聞いた申包胥から書簡が届く
申包胥曰く「以前は平王の家臣でありながら、今、平王の墓を暴き死体に鞭を打たれた。仇討ちといえど行き過ぎとは思えませぬか?兵を引いてください。さもなくば私は楚の国を守ってご覧に入れる」
伍子胥の返信は「日、暮れてなお道遠し。もはやただ倒(さかしま)に行走し、逆(さかしま)に施行するのみ」(私も老いてもう時間がないが、目的を達するまでまだまだなのだ。理に逆らっているとしても恨みを晴らすために徹底的にやる)
その返信を見た申包胥は秦の国に援軍要請に赴き、秦の哀公の心を動かすことに成功し、楚へ援軍を出してもらう
時を同じくして越の国が呉の国へ攻め込み伍子胥は楚から撤退を余儀なくされる
楚の昭王は申包胥を救国の論功第一としたが、申包胥は呉の楚への侵攻は自分が伍子胥の逃亡の手助けをしたことが原因と考え、論功行賞を受けることを恥として隠居し、その後の行方を知る者は誰もいなかった
つづく