飛ぶ少女 - 天使達と「戦闘美少女」

宮崎駿のアニメーション作品においては、これまで頻繁に「空を飛ぶ少女の身体」が物語の核となって登場してきた。80年代以降、日本のアニメにあまた現れる空を飛び闘う美少女の原形、元祖は、宮崎駿監督作品『風の谷のナウシカ』(1984)のヒロイン、ナウシカに見ることができる。

風の谷のナウシカ [DVD]

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宮崎アニメにおける映像的側面の最も重要な要素は、「重力を伴った浮遊感覚」の描写のリアルさにあるだろう。ある一定の重さを持った少女の身体が、重力に逆らってあやういバランスで飛んでいる、という状態の表現の力量において、彼は他のアニメーターから抜きん出ている。
この想像力と造形力とカメラワークの見事さによって、空を飛ぶナウシカの肢体は様々なアングル、距離から動的に捉えられている。このことは、彼女の身体が中空にあり、しかもダイナミックに運動しているという条件によって可能になっている。
重要なのは、普段日常では直接見る事のできない、少女の体の非日常的かつ動的なポーズ、思い掛けないアングルと距離が、初めて豊富にそこに描かれたということである。
単に草むらに寝転んでとか、ベッドの上でといった、ポーズとアングルの自由が制限された地上ではなく(そこでは少女の体は鈍重なだけだ)、何も邪魔立てするもののない中空で、現実離れした美少女にありとあらゆるポーズをとらせ、それをありとあらゆる角度と距離から眺めてみたいという、男性の潜在的願望。
しかしナウシカは同時に、我々を守り救済してくれる闘う聖母でもあるのであり、願望をその先に発展させることは禁じられている(これは「ナウシカ」に特有の現象に思われる。彼女はその後の「戦闘美少女」、例えば『新世紀エヴァンゲリオン』の綾波レイのように、オタクの性的欲望の視線に晒されることからは免れている)。


一方、西洋の「飛ぶ少女」と言えば、天使である。西洋絵画のギリシャ神話やキリスト教の教義を描いた中に多数登場していた女性達は、それらの主題に応じた役割の下で、「見る者」としての男性のフェティッシュな視線にも応える像としても描かれていた。天使という性的に中立であり欲望の対象としてタブーである対象にさえ、その時代における理想化された女性の身体が投影されている。
使者としての天使は天界と地上を媒介する者であり、本来は性別を越えた霊的な存在であるが、その多くが若い女性の姿として現されているのは、そこに男性の眼差しが投影されていたことの証左だろう。日本の巫女と同様、若い女性(処女)に霊的な力の発現を見ようとする意識の現れが既にそこに潜在していたとも言える。
しかしそれ以上に、薄い衣をたなびかせ、あるいは身体に纏わりつかせて天空に舞う姿には、若い女性の身体が相応しいといった美意識、および作り手(=観客)の男性の欲望が、無意識のうちに反映されていたはずだ。


天使や天女が穢れに満ちた地上に降り立ち我々を救済してくれるというイメージの中には、明らかに母なるものへの郷愁が含まれている。その母性とは反面で、断罪する権力者としての強い母のイメージをも含んでいる。
「彼女達」は男性にとって、魅惑的な若い女の身体であると同時に、性的に犯してはならない聖母のイメージを担わされてもいるという点で、極めて虚構的かつ分裂的な存在であった。


こうした意味で、まだ少女であるにも関わらず成熟した大人の女性に近い肉体を持っていたナウシカは、西洋絵画の天使の荒唐無稽なイメージに連なるものである。
彼女は、文明と自然を平和的に統合し共存させるといった役割を担わされていたが、それは天空と地上を媒介した天使の役割を思い出させる。その荒唐無稽さを隠蔽するには、あのような虚構的かつ分裂的なキャラクターが必要であったのだろう。


ナウシカ以降、80年代から90年代にかけて、日本のサブカルチャーの視覚メディアには、さまざまな「戦闘美少女」達が氾濫した。彼女達は一様に愛くるしくセクシーで、時には男性以上の力を発揮し男性をも守るべく闘っていた。
その大量出現の潜在的要因の一つは、「日本」や「サブカル」や「オタク」というカテゴリー以前に存在する「見る者」=男性のフェティシズムとマザーコンプレックスに、彼女達が具体的かつ的確に応じていたからだ。
豊満な身体の線がくっきりと出るような衣を纏って中空で舞う絵画の天使や天女達への視線と、ぴっちりとした戦闘スーツを身につけあられもないポーズで闘うアニメの美少女達への視線は、信仰による禁忌を除けば本質的な相違はなかったのではないか。
そこには、女性から生々しい現実感や様々なノイズや煩わしさを取り去り、情報過多で把握し難い3Dから情報が整理された2Dのビジュアルイメージに転化し、その「少女」性を所有したいと同時に、その「母」性に所有されたいとする男性の欲望が反映されている。