女の意地

女子マラソンの醍醐味

女の意地とは何だろうか?というのが、アテネの女子マラソンを見ていて改めて思ったことである。
もっとも女子マラソンだけではなく、多くの競技、特に個人競技で要求されるのが「意地」だろう。格闘技なんかがわかりやすい。谷亮子だって技やキャリアもさることながら、「何が何でも金を獲る、私が獲らんで誰が獲る」というクソ意地の強さが、あまりにも他を圧倒していたので優勝したのである。
そういうのはスポーツ業界では「精神力」と言うそうだが、私は「意地」と呼びたい。
女の意地というものは、なぜか男以上に見応えがある。


しかし意地が、マラソンほど露になる競技はない。第一に競技時間が長いこと。そして競技内容が単純であること。
たとえば柔道の場合だと3分×2の試合時間で、時々あっと言う間に一本取って勝ちを決めたりする。観客は勝負がついてから、「ああやっぱりすごい意地があったのだなあ」としみじみ確認する。水泳の個人種目もそれに近い。テニスや卓球なんかだともう少し時間がかかるので、そういう感慨を試合を見ながらじっくり味わえる。


だが、マラソンは競技時間が2時間以上に渡り、参加選手は他の競技に比較してずば抜けて多い。しかもその間抜きつ抜かれつしながらひたすら走り続けるだけのシンプルな種目という点で、とりわけ異色である。
1対1の闘いだとどちらの意地が勝つかという見方しかできないが、マラソンは出だしの闘い、中盤の闘い、終盤の闘いで主役、順主役、順々主役、脇役等が入れ代わる可能性があるので、観戦の楽しみも複雑だ。
その中で、各選手の持つ「意地の大小」というものが、次第にくっきりと浮き彫りになってくる。
途中から意地を出す選手、最初からもう一つ意地で負けてる選手、最後でなけなしの意地を絞り出す選手、ライバルの意地に圧倒された選手。試合(ドラマ)過程の長さと選手(役者)の多様さが、マラソンを観戦する時の醍醐味であろう。


女子マラソンは、女の意地の張り合い競技である。
女の意地の張り合いも、男の意地の張り合い以上に何か人を惹きつけるものがある。
スポーツ観戦で女だ男だと分けてみるのはおかしいだろうか? 私はそうは思わない。


もともと女はあらゆる勝負で勝つこと、いや勝負の場に出てくることなど求められず、せいぜい男の勝利者のトロフィーワイフの地位しかなかった。今でも、その地位を物心ついた時から目指している女は多い。目指すように仕向ける機会、環境に事欠かない。その方が楽だから。
そういうお気楽な道を選ばず、他の女が化粧やオシャレで競い合っている時に、厳しい勝負事の世界に全精力を傾けるというだけでも、敬意を表したいと思う。
しかし他の分野と異なって、スポーツはどうしても男女の体格差、体力差というものが出るので、同性同士の闘いとなる。
大昔は男が独占していたスポーツ分野にも進出したにも関わらず、そこにあるのはやっぱり同性との闘い。その闘いで頂点に立ったとしても、記録で世界の頂点、人間の頂点に立てるのは常に男。そうした性差があらかじめ厳然とある中での、女の闘いなのである。


さて今年はどんな意地の張り合いが見られるのか?
それを期待して中継を見、今日もまたVTRを見てしまった。実際は勝者の戦略やアテネの暑さなど複合要素が絡まっての試合結果だったが、私はあくまで意地にこだわって見た。
そして二つの意地の張り方を発見した。

勝てない時の意地

一つは無論、優勝した野口みずきである。意地の張り合いに意地で勝った女。よく勝ったと思う。それに比べると、土佐、坂本は意地が足りなかった。
彼女達3人にのしかかっていたプレッシャーは、言うまでもなく高橋尚子である。前回のオリンピックの高橋の金が、とてつもなく重かった。今回も当然二連覇を目指して高橋が出るはずであったのに、選考会の前に負けたことで自分達が選ばれてしまった。これでメダルとれなかったら「やっぱり高橋でなければ」という声に晒されたであろう。
その重圧を克服できたのは、野口のクソ意地だけだったということだ。


クソ意地と意地とどう違うのかというと、一位になるかそれ以下かという違いである。これまでそのクソ意地の頂点に立っていたのは、世界選手権で高橋の世界新を2分近く塗り替えたイギリスのポーラ・ラドクリフだった。
そして私が途中から釘付けになったのは、野口よりむしろラドクリフの方であった。


先頭集団の中にいる時、彼女は全然余裕だったと思う。しかし野口が25キロ過ぎでスパートをかけて二位以下を引き離していき、その距離が伸びていった時、これはヤバイと焦ったはずだ。一時は二位に上がったものの、まもなく他の選手に抜かされた。
これまでいつもトップで走ってきた女が、自分のはるか前を走っている女を見るのはどんな気分だっただろう。ノーマークだった選手にここまで差をつけられて走っているという悔しさで、いっぱいだったと思う。


優勝争いの候補に上がっている選手は、各国から大きな経済効果を期待して送りだされている。優勝すれば、発展途上国なら英雄扱いで国が一生暮らしの面倒をみてくれるし、先進国でもCM契約で相当の収入を手にすることになる。
ラドクリフも金メダルを取ってイギリスに帰れば、優に数年は暮らせるくらいの金を手にできることは決まっていたはずで、周囲も本人も当然そのつもりだっただろう。名誉やプライドだけでなく、莫大な金がかかっているからこそ、意地にもターボがかかるのだ。


勝てる望みがもうないとわかった時点で、彼女のクソ意地は意地の位置まで後退した。
後半のラドクリフはかなり苦しそうだった。なんとか3位を保っているうちはメダルの可能性もあったが、じりじり追い上げ追い越していったケニアヌデレバに、その意地も蹴散らされてしまった。どうにかもう一度メダル圏内にと思ったに違いないが、それもまもなく可能な距離ではなくなってしまった。
この段階で、彼女に注がれる沿道の視線は、驚きや失望よりも憐れみに近かったと思う。沿道の人々だけでなく、世界中がそういう目で彼女を見ていたはずだ。そのような屈辱的な視線を一身に浴びながら走るのは、彼女には耐えがたいことだっただろう。


だからポーラ・ラドクリフは棄権したのだ。
一旦止まってからなけなしの気力を振り絞って数十メートル走ったが、もう完璧に負けたという気持ちが圧倒的だったのだと思う。ただ走るだけなら、走れないことはなかったはずである。
だからあれは体力の限界ではない。頑張って完走して4位以下に名を列ねることなど、世界記録保持者の女の意地が許さない。トップよりずっと遅れてスタジアムに入る惨めな自分の姿など、意地でも見せたくなかったのだ。
ラドクリフに言わせれば(って私が勝手に言っているのだが)、負けが明らかなのに走っている選手の意地など、意地ではない。もう誰も期待せず、メダルの栄光もなく、それに伴う収入もないのがわかっているのに、この暑い中必死こいてちんたら走っているのは、単なるお人好しの頑張り屋さんだ。
参加することに意義があるんじゃない。勝たなきゃ意味はない。「愛は地球を救う」の素人マラソンじゃないんだから、 完走すればいいってもんじゃない。
そんなところで拍手をもらうなんて、私はまっぴらご免よ!(って私が勝手に想像してるだけだが)


死にもの狂いで勝つ意地と、不様を最小限に食い止める意地。どっちかというと、後者の方に惹かれてしまう私である。
ところでアテネ五輪が始まる数日前、高橋尚子はトレーニングのためアメリカに飛び立った。日本にいたら、嫌でも女子マラソンの解説者か番組のコメンテーターとして引っ張り出された可能性がある。そんな屈辱は受けたくなかったのだと思う。
これも、女の意地である。