個性は獲得目標ですらない

美術教育方面の話に絡んだ「個性」関連のエントリが賑わっている。
そもそも君らに個性などない - 地下生活者の手遊び
個性は本当に獲得するものなのか?- ハックリベリーに会いに行く
個性とは、他人から独自のやり方であると認められたものに過ぎない。個性が周囲とは無関係に存在すると思っていること自体が間違っている。 - 消毒しましょ!


以前、美術系の幼児教育に携わっていたことがあるので、ちょっと子どもの絵の話を。
子どもの絵には、年齢に対応した発達段階がある。たとえば4歳の子どもがどのような絵を描くかは、多少の個人差はあれどもある程度の類型が見られるので、そこから発達障害心理的外傷を読み取ることも普通にされている。
年齢的発達段階とは別に、絵には子どものその時の精神状態や興味のあり方といった心的現実が色濃く反映される。殊に言語コミュニケーションが十全な発達を遂げていない時期の子どもにとっては、お絵描きがその時々の自己の内面を直接的に表出する手段となっている。
そこで「個々の個性を大切に」という言葉が教育現場で使われることもある。


つまり「子どもの絵の個性を大切にする」とは、その子どもの精神状態や興味のありようを受け入れ、拙いやり方でも自分を表出したことを認め、自信と自己肯定感をもたせてやるということに他ならない。要は、いかに楽しんで絵を描き充足感を得られるかが重要であり、そこを通過して初めて次の段階に移行できる。これはどんな分野でもそうだろう。
一般に「個性がある」「個性的」という言葉には、「独自性」という他から抜きん出た特有の価値を評価する意味合いがあるが、子どもの絵において「個性」と(仮に)呼ばれるのは、むしろ「個人差」(精神状態や興味のあり方の差から現れる描画方法や内容の差)のことである。


『こどもの絵』を著したジョルジュ=アンリ・リュケによれば、子どもの絵は「知的写実性」から「視覚的写実性」へと移行する。*1
「知的写実性」とは、知っていることを描くというもの。例えば、空は上の方にあると「知っている」から画用紙の上部だけを青く塗る。そこに視覚的現実はない。「知っている」ことと視覚的現実の摺り合わせは行われないのだ。そこを経て「視覚的写実性」、つまり文字通り現実を見たままに描こうとするようになる。
この段階の移行は個人差があるとされるが、色や形の細かい識別能力や観察力、集中力がついてくるに従って、いずれはほとんどの子どもが「知っている」ことだけを描いて自己を表出(発散)するだけに満足できなくなり、「視覚的写実性」に向かっていく。従って、比較的早い段階で「視覚的写実性」に達した子どもを「個性がある」とは言わない。発達の度合いが他の子どもより幾分早かったのである。


「視覚的写実性」に目覚めた子どもにとっては、当然のことながら遠近法に始まる技術体系の習得が必要になる。絵画においてほぼ共通言語となっているそれをマスターし、誰にでも通じる言葉で喋れるようになることが第一歩だ。
そうやって描き方を覚えた子どもの写実的な絵を「個性がなくなった」「つまらなくなった」などと言うのは、間違った評価である。個性=独自性など、まだどこにも出現していないのである。


「知的写実性」から「視覚的写実性」への移行を、「世界の中心に自分がいる」感覚から「世界の一部として自分がいる」感覚への移行というふうに言い換えることもできるだろう。それは一種の社会性の獲得に近い。
ただ「視覚的写実性」を求める段階で、普通は言語的コミュニケーション能力の発達によってある程度の社会性を獲得しているので、それでも依然として絵で自己を表出したり、コミュニケーションを取ろうと思う者は少なくなる。だから小学生から中学生くらいで、お絵描きに興味を失う子どもが増えてくるのは当然のことなのだ。


一部の絵を描くのが人より上手かった子どもや、描くことに魅せられた子どもは、絵を描き続ける。やがて、「視覚的写実性」のための技術だけでは物足りなくなってくる。充分に身についた技術を使って、何か面白いことをやりたい。あるいはそれを表向きは使わないで、気になるテーマを追求したい。
そこで彼はアーティストなりデザイナーなりイラストレーターなり漫画家なりを目指す。「自分の個性を獲得したい」から目指すのではない。なんか面白いことをしたいから、自分の気になっていることをぴったりのやり方で表現して人に見せたいからだ。どうやったら面白くなるのか、目指すものに近づけるのか、彼が考えるのはそれだけだ。「自分の個性とは何か」などということは大抵忘れている。
そしてそのうちの一部の人がいつのまにか、「個性がある」と言われるようになっている。


最初に個人差があり、その上で普通はまず社会性を獲得していく。社会性とは共通言語を喋れるということである。*2 社会性を獲得した上で尚も何かにこだわり続けた結果の中に、個性は見出される。共通言語でできている社会が、それを見出すのである。


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*1:子どもの絵については大量の書物が出ているが、『子どもの絵の心理学入門』(フィリップ・ワロン著、加藤義信/井川真由美訳、白水社[文庫クセジュ])が読みやすい。

*2:アウトサイダー・アーティストはここに入らない。彼らは共通言語の獲得をしなかった/失敗したことで必然的に発現した「特殊性」を、他者から発見された人々だ。