兄弟の葛藤、姉妹の対決 - その1

ゴールデンウィークで暇なので、映画のDVDを借りまくっている。その中から、数年遅れで観た邦画を二本。
『ゆれる』(2006、西川美和監督作品)
腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』(2007、吉田大八監督作品)

ゆれる [DVD]

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前者は数々の賞を受賞した話題作であり、後者はid:miyata1さんがブログで「日本映画で久々のヒット」と書いていて、その分析に興味をもったので観てみようと。
『ゆれる』はシリアスタッチ、「腑抜けども」はブラックコメディだが、たまたま二本とも兄弟や姉妹の話である。舞台は田舎。家族の法事/葬式で、離れていた兄弟/姉妹が久しぶりに出会い、二人の確執が徐々に露になっていくという表面的な展開は似ているものの、テイストも最後の余韻も非常に対照的な作品だった。しかしそれが脚本や演出の違い以上に、兄弟という「男同士」と姉妹という「女同士」との根本的な違いと重なっているように私には見えた(以下、ネタばれあり)。


『ゆれる』では、田舎でガソリンスタンドの家業を継いでいる真面目で不器用な兄、稔(香川照之)と、東京でカメラマンとして成功した自由奔放な弟、猛(オダギリジョー)の対比が描かれる。
母の法事で再会した二人は、弟の昔の恋人で今は兄のGSの従業員、智恵子(真木よう子)と渓谷に出かけるが、吊り橋の上で稔と揉み合ううち、智恵子は落下して死亡する。猛は殺人容疑で逮捕された兄の無実を確信し、弁護士に金を積み兄のために奔走するが、面会時に兄から打算的な態度を指摘され、更に積年の鬱屈した感情をぶつけられて気持ちが揺れに揺れ、ついに法廷で兄に不利な証言をする。こうして兄弟の亀裂は決定的なものとなる。
7年の刑期を終えた兄が出所する日、弟は亡き母が残した8ミリフィルムで、渓谷に遊ぶ子供の頃の兄弟の姿を見る。幼い自分に手を差し伸べる優しい兄ちゃん。弟の心の中で長らく凍て付いていたものが、一気に溶解する。家に戻ることなくバスに乗ろうとする兄をようやく見つけ、涙ながらに「兄ちゃん、家に帰ろう」と叫ぶ弟に、兄が気づいて微かに微笑んだところで映画は終わる。


つまり、ある出来事をきっかけとして隠されていた複雑な感情がぶつかり合い、取り返しのつかない時間を経てやがて和解への希望を見出すという、関係の喪失と恢復の物語である。役者の演技も素晴らしく、ツボを押さえたセンシティブな演出で、絶賛を受けたのもよくわかる。
ただ、無実であった公算の高い兄を有罪に追い込み、絶縁した弟が、昔の8ミリフィルム一本で泣き出し走り出すところが、盛り上がっていくシーンではあるのだが、もう一つ説得力が弱い気はした。
狭い田舎町で「殺人犯」となってしまい、実家に帰ることもできず町から出ていこうとする兄に、「兄ちゃん、家に帰ろう」と呼びかけるのは、それが心からの叫びであっても、ちょっと酷だとも思った(もっともこれは、その効果も込みで脚本が書かれたのかもしれない)。


弟は東京で才能を開花させ、さまざな人に出会い自由な人生を送っているのに、年老いた父と暮らし亡き母に替わって家事をし、土地に縛られ田舎で一生を終えるであろう自分。そんな惨めな人生も刑務所暮らしも同じだ、むしろ刑務所の方が人間関係に気を使わなくて済むからましなくらいだ‥‥と言い放った兄の絶望の深さは、たぶん弟には理解できない。
そして弟が理解できないことを兄はよく知っていたから、彼の信頼を拒絶し、黙って刑に服したのだろう。弟が感情的になって兄に不利な証言をしたことは当然、兄の想定の範囲内だ。
従って殺人犯として服役することは、負け続けてきた兄の、弟への無言の報復である。「いいところを何もかももっていく弟、奪われ続け何もない兄」というこれまでの人生を、彼は濃縮し、弟に見せつけるかたちで反復したのである。7年の刑はむしろ弟に下されたと言える。


幾分兄に引け目のある弟は、まず兄思いの良い弟を演じようと努める。兄に拒絶されたからそれは逆恨みとも言える感情に変化したけれども、封印されていた情愛は幼い頃の思い出によって復活し、兄を求める涙の叫びとなって噴出する。
もしそこで兄が無表情のままバスに乗って去ってしまったら、実に後味が悪い。だから最後の短いショットで捉えられる、香川照之の感情が麻痺したような顔にやっと浮かんだ微かな微笑は、失われた希望の復活の兆しである。彼の思いはさまざまに解釈できるだろうが、少なくとも物語の結末としてはそう捉えられることによって、感動を呼んだだろう。
兄弟が殴り合って血だらけで和解といった、テレビドラマのような陳腐なオチではないものの、この着地点はいかにも男兄弟ならではのものだろうなぁ‥‥と感じた。男同士だからこそ生まれる深い確執。男同士だからこそ辿りつける不器用な和解。これは完全に「男の物語」なのだ。
では、なぜそれを女性の監督があそこまでリアルに描くことができたのか。それは「女」と「母」というファクターによってである。


兄弟関係に重要な役割を果たすのは、二人の女性の死者---転落死した智恵子と、兄弟の亡き母親---である。智恵子は再会した猛と簡単に寝てしまう一方、揺れる吊り橋上で足下を心配する稔(実は高所恐怖症)の手を振り払い、兄弟の差異をくっきりと見せてくれたまま死亡する。稔は智恵子に密かに思いを寄せており、彼女の死に責任を感じているから一層残酷である。
兄弟にとってある意味非常にネガティブな存在となってしまった智恵子の対極に位置するのが、8ミリフィルムを残して亡くなっている母親だ。あのフィルムを猛が見たからこそ、感動のラストシーンが訪れた。外部の女の死によって引き裂かれた兄弟が、死んだ母の残した思い出によって再び結びつけられるという構図である。
「女」は兄弟関係をややこしくするから、葬られる。それに替わって、兄弟の血縁と情愛を保証する「母」が事態を収拾する。「母」はもう死んでいるから兄弟で奪い合いにはならない。残された思い出を「男の子」同士仲良く共有すればいいのだ。ついでに、冒頭シーンで出てきた猛の東京の同棲相手らしき女性も最後はいないことが、マンションのやや荒れた室内の描写で示される。ともかく二人の周囲から「女」は一掃されていくのである。不在の「母」を残して。


『ゆれる』に描かれているのは、「女」が排除されて初めて恢復する男と男の関係である。一昔前ならそれは、任侠映画や西部劇で「漢の物語」として描かれた。今は「男の子」は描けても「漢」がなかなか描けない時代である。だがそこに共通しているのは、「女」より「母」が重んじられていることだ。男は「女」より何十倍も「母」が好きである(個人レベルの好き嫌いを超えたところでの話です)。
だからオダギリジョーの「兄ちゃん、家に帰ろう」という叫びは、「一緒に母さんのところに帰ろう」という呼びかけである。母さんに見守られていたあの何の確執もない幼年時代へ。兄と弟が「男の子」同士だった時代へ。「母」ホモソーシャルを支える見えない靭帯なのだ。


さて、『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』では、冒頭で両親が事故死したまま物語にはほとんど関与しない。つまり靭帯に当たる不在の一点はない。そして、『ゆれる』の兄弟に見られたような繊細で複雑な心境の変化や、恢復する情愛の絆みたいなものも、存在しない。最後まで、姉と妹のバトルが維持される。ラストシーンの「感動」はまったく異質なものであった(続きは次回)。