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2009-11-28

コペル君と豊田正子 - 1930年代の教養主義と格差

『君たちはどう生きるか』のエリーティズム

最近、4年前に書かれた『グロテスクな教養』(高田理惠子、ちくま新書)の書評のブログ記事をたまたま見かけた。私がこの本を読んだのもやはり4年ほど前だったが、第一章の「教養、あるいは「男の子、いかに生くべきか」」の中で、戦前の教養主義の一典型として、吉野源三郎著の『君たちはどう生きるか』が何度か言及されていたことを、この書評を読むまですっかり忘れていた。


【文庫 】君たちはどう生きるか (岩波文庫)

【文庫 】君たちはどう生きるか (岩波文庫)

1937年(昭和12年)に刊行された、小説仕立ての少年向け教養書、啓発書である。主人公のコペル君(ニックネーム)が、日常の出来事や中学校生活のさまざまな体験を通して、世界と自己との関わりについて目を開き、成長していく様が描かれている。

著者の吉野源三郎は戦後、総合雑誌『世界』の初代編集長になり、反戦平和主義者としての活動もした所謂「進歩的知識人」。そのせいか、日中戦争が始まった年に刊行され、のちにロングセラーとなるこの書を再読してほのかに感じたのは、大正デモクラシーの名残や昭和初期に始まる思想統制への抵抗といったリベラリズムだった。*1


この本を私は、小学校5年くらいの頃(1969年頃)、父から渡されて読んだ。父は既に何度も読み返したのだろうか、全体に少しヘタった印象で表紙は黄ばんでいた。パラパラめくるといかにも戦前な感じの挿絵。「タイトルからして説教臭そうでちょっと厭だな」と最初思ったが、読み始めたら一つ一つのエピソードの面白さと端正な文章に引き込まれた。

やや気弱なところがあるけど、真面目で観察力のあるコペル君。学校でのいじめを見て見ぬふりをして逃げてしまい、自分を責めるあまり熱を出して寝込んだコペル君に、親しみを覚えた。彼を暖かく見守り、ノートに毎回、含蓄のある励ましの言葉を書いてくれるインテリの叔父さん*2を羨ましく思った(吉野源三郎『君たちはどう生きるか』/トート号航海日誌(読書録)に詳しい内容紹介があります)。


旧学制についてよく知らなかった小学生の私は、最初、コペル君を普通の中学生の男の子だと思っていた。戦前の義務教育は6年間の尋常小学校だけで、旧制中学(当時、修業年限は5年)に進学できる少年は限られていたことを知ったのは、少し後のことである。

当時の中等教育としては旧制中学の他に、高等小学校、女学校、実業学校などがあるが、その上の高等学校(今の大学の教養課程に相当)や師範学校に進学したり、最終的に帝大を狙うようなほんの一握りの超エリートは、ほとんど旧制中学卒業生だった。

昭和初期の中等学校全体への進学率*3は、2割あるかないか。その中で旧制中学に行けたのは更に少ない。大学進学したのは百人に一人もいない。旧制中学の生徒の親の職業は、高級官僚、会社重役、医師、大学教授などハイソサエティが多かったという。

旧制中学の三年生であるコペル君は大手銀行の重役だった父を亡くし、都心にあった邸宅をたたみ召使いの数を減らして、今はお母さんとばあやと女中と暮らしているという設定である。片親とは言え、15歳にしてエリート街道に乗り将来を嘱望されているブルジョアの坊ちゃんなのだ。


『グロテスクな教養』で高田里惠子が指摘しているように、「君たちはどう生きるか」の「君たち」とは、当時の「少数の特権的な男の子たち」に限定されていた。そういうヒエラルキーが厳然としてあったからこそ、「教養」や「教養主義」というものに価値が与えられていた。「教養」は、「突出した才能に恵まれた男の子」(つまりごくごく一部の天才)ではなく、「それなりに才能のある少数の男の子」(コペル君のような秀才)が、「どう生きるか」と思い悩む時に必要とされるものだったという。

高田理惠子は教養主義にまつわるエリートぶらない捩じれたエリーティズムを、「いやったらしさ」という言葉で表現しているが、このあたりは竹内洋著の『教養主義の没落』でも、当事者の口からかなり韜晦的な口調で述べられている。


そういう事情はともかく、『君たちはどう生きるか』は少年向けなので、そのメッセージは実にストレートでシンプルである。叔父さんは甥のコペル君にこう呼びかけている。

いや、この先は、もう言わないでも、君にはよくわかっているね。君のような(恵まれた)立場にいる人が、どんなことをしなければならないか。どういう心がけで生きていくのが本当か、それは、ぼくから言われないだって、ちゃんとわかるはずだ。

[中略]

君のなくなったお父さんといっしょに、また、君に一生の希望をかけているお母さんといっしょに、ぼくは心から願っている ----- 君がぐんぐんと才能をのばしていって、世の中のために本当に役に立つ人になってくれることを!たのむよ、コペル君!

*4


大正13年の生まれの私の父は、この本が刊行された1937年(母の生年でもある)の2年前に、名古屋の尋常小学校を卒業している。家が裕福な方ではなかったのでその後は苦学したらしい。太平洋戦争末期に学徒兵として海軍に入隊。戦後は一般会社に就職するが数年で辞め、旧帝大を卒業した年の離れた兄の後を追うように大学進学。地方都市で国語教師をしながら高い理想を掲げて「進歩的知識人」の末席に連ならんと努力する、ある意味典型的なオールドレフトになった。*5

父が何歳の時に『君たちはどう生きるか』を読んだのかは聞いていないが、あの本を娘に薦めた気持ちの中には、旧タイプ末端苦労人インテリの「先生」の、「教養」へのロマンチックとも言える信仰が混じっていたのではないかと思う。

もちろん当時の私はそんなふうに感じることはなく、「これはなんか大切なことが書いてある良い本だ」と素直に思った。だが、叔父さんの激励の言葉は、教養主義が衰退していった60年代末の、ブルジョアでも勉強が特別できたわけでもない小学生女子にとって、ちょっとまぶし過ぎるメッセージであったのも確かである。


『綴方教室』に描かれた生活

先日、レンタルショップで、私の好きな女優、高峰秀子が10代の頃に主演している『綴方教室』(山本嘉次郎監督作品)*6を借りた。綴方(綴り方)とは、作文のことである。

原作は、小学生の豊田正子が書いた綴り方を、彼女の卒業後、担任だった大木先生が指導記録と共に本にまとめ、ベストセラーとなったもの。出版された年を調べてみると、偶然にも『君たちはどう生きるか』と同じ1937年であった(映画化されたのはその翌年)。

そういうわけで、物語と実話という違いはあるが、少年少女が主人公で、同じ年に世に出て広く読まれた二冊の本を、奇しくも相次いで思い出すことになった。


新編 綴方教室 (岩波文庫)

新編 綴方教室 (岩波文庫)

この本はやはり父が持っていて、やはり小学校の4、5年頃に読んだ覚えがある。一人の少女の目から見た日常が飾らぬ言葉で綴られており、たまに言葉遣いがぎこちないと感じる箇所はあったが、作文が好きだった私には面白い読み物だった。*7 母も愛読したようだ。作者より世代は少し下だが、同じ時代を生きたという近親感があったからだろうか。

映画の方は、少女らしさを意識した可愛らしいタイトルロールに続き、「村の鍛冶屋」の合唱に乗って、葛飾区荒川沿いの下町風景がロングショットで映し出される。少女時代の高峰秀子の演技は、言うまでもなく素晴らしい(彼女と作者の豊田正子のツーショットや撮影挿話が、トリップ管理人の部屋:綴方教室の豊田正子と高峰秀子に掲載されている)。

なによりも、本を読んだ子どもの頃はまだ具体的にイメージしづらかった昭和の初めの庶民の暮らしぶり、子どもたちの日常が、リアルに再現されているのが興味深い。


それにしても豊田正子の生活レベル、いくら階層差が大きかった戦前とは言え、同時代のコペル君となんという違いだろうか。

ゴミゴミした長屋横町。ブリキ職人の父、母、二人の弟と五人家族で、一間(六畳と二畳が続きになっている)と土間のお勝手だけのみすぼらしい住い。煎餅布団。真っ白な障子のきれいな和室に一人で寝ているコペル君とは、天と地の開きである。

正子は、つんつるてんの着物を着ている(同級生はセーラー服着ている子が多い)。ごはんのおかずはお新香だけ。放課後のバイト。デフレの煽りで仕事がなくなり、紹介所(今の職安)に日参するも空振りばかりのお父さん。お腹が空いたと訴える子どもに「寝てれば腹の減ったの忘れるだろ」とお母さん。

コペル君が銀座のデパートの屋上で哲学的な夢想に耽っていた頃、豊田正子は紹介所でもらったお米券で僅かな米を買いに行ったり(同級生に会って、恥ずかしいので糠味噌に使う糠をもらってきたと嘘をつく)、荒川の河原に焚き物の材料を拾いに行ったりしていたわけだ。庶民と言うより、貧民である。

それでも、今よく使われる「貧困」という言葉の殺伐とした響きは、何故か彼女には似合わない気がした。「貧乏」と言うほうがしっくり来る。


豊田正子の目を通して見る世界は、貧しいけれども細部が生き生きと輝いている。仕事のお勘定をもらいに行ったお父さんが、商売道具である自転車を盗まれ、しょげかえって帰宅した場面を紹介しよう。

父ちゃんは「おれがな、平田さんの家へいったら、あいにくと、だんながお湯へいって、るすなんだよ。あのだんなときたら、とってもお湯はなげえんだから。で、おらァ、おうせつしつへいって、ストーブであたりながら、おくさんとくだらねえせけんばなしをしてたんだ。そうして、一時間ばかりたつと、だんなさんがかえって来たからよ、かんじょうをもらってさ。げんかんの戸をあけて見たら、おらァ、ぎくっときたな。もう、自転車がねえんだ」といった。

映画では、父役の徳川夢声(ちょっと泉谷しげるに似てる)がこの台詞をそのまま喋る。ぐったり絶望的な表情のお母さんと、不安で一杯の娘。思わず往年のイタリア映画『自転車泥棒』を思い出す。


コペル君にとっての叔父さんに当たるのが、正子を見守る担任の大木先生である。先生に指導されて上手になった綴り方が雑誌『赤い鳥』に掲載され、彼女はますます綴り方に熱中する。

綴り方教育は大正期、それまでの型に嵌った形式を脱却すべく展開された自由教育運動や、児童文学者の鈴木三重吉が発刊した『赤い鳥』の影響下から始まったもの。昭和初期の暗転していく世相の中で、より現実に即した「生活綴り方運動」が起こり、全国の情熱あふれる小学校教員たちが地道にそれに取り組んだという。生徒の綴り方を教室で発表させ、皆に意見を述べさせ、自らの日常を通して社会をあり方を考えさせようとした。そこには、恐慌によって悲惨な状態を迎えた貧しい子どもたちに、現実をしっかり見つめる目を養ってほしいという願いがあった。

大木先生も、その情熱的な教師の一人だったのだろう。目をキラキラさせながら「見たまま、思ったままを正直に書きなさい」と生徒たちに語りかける彼の絵に描いたような明朗さと生真面目さは、映画を見ていてくすぐったくなるほどだ。この時代の小学校の先生がいかに理想に燃えており、また「教養人」として、子どもだけでなくいかに一般の大人から尊敬され慕われる存在であったかも伺われる。

しかし30年代はこうした教育実践への抑圧が厳しくなっていく時代であり、「生活綴り方運動」も弾圧の憂き目を見ることになる。*8


豊田正子は尋常小学校を卒業し、女工になる。この時代、女学校に進学できるような女子は小数派で、貧しい家の女の子は家計を助けるべく、女工や女中奉公に出たりカフェーの女給になったりした。芸者になる子もいた。*9

斎藤美奈子著『モダンガール論』によると、1920年代の女学校進学率は都市部で十数パーセント、村落部ではほんの数パーセントに過ぎない。当時の多数派は「無産階級」の貧乏人であり、ホワイトカラーの職業婦人になれるのは全体の5パーセント程度で、あとは肉体労働者。30年代になっても根本的な変化はなかっただろうと思われる。*10


しかし映画のラストシーン(原作にはない)では、卒業式の帰り道、大木先生と腕を組みながら豊田正子は浮き浮きした口調で、「ねぇ、先生。私、工場に勤めても、どんどん綴り方書くわね。新しいこと書くの、楽しみだなぁ」と話しかける。先生は、朗らかに餞の言葉を返す。

「うん、そうだ。君はこれから、いろんな新しいことに向かっていく。それを今までのようによく見て、正直に書くんだな。そうすると、だんだん人間が偉くなっていくんだ」

先生、それはあまりな理想論です!とちゃかしてはいけない。(貧しくても、今後の新しい体験を正直に生きれば)「だんだん人間が偉くなっていく」と言い切る信念、そういう素朴で純粋な信念をまだ疑わずに持ち得た時代なのである。貧困が階層格差や教育格差などの問題を生んでいることは現代と同じなのに、何が違うのかと改めて考えさせられる。


大木先生の最後の言葉は、コペル君に呼びかけた叔父さんの言葉ともどこか共通するものがある。

将来の社会を背負って立つことが期待されている一握りのエリート少年にも、女工として社会の底辺で生きて行く少女(豊田正子は『婦人公論』に投稿し続け、随筆家になるが)にも、それぞれまっすぐな期待をかけ、鼓舞し励まし、あるべき方向を示してやるのが、インテリゲンチャの正しい振る舞いだったのだ。

もっと言えば、コペル君には「この社会の不正を正す立場になれ」と、豊田正子には「この社会の抑圧に負けずに闘え」というメッセージを贈るのが、教養人としての役割だった。

そういう大人の役割がほとんど機能しなくなって久しい。教養主義が衰退し、戦後の中流幻想も完全に潰えたところで、現在、身も蓋もない格差だけが前面化している。


●参考

グロテスクな教養 (ちくま新書(539))

グロテスクな教養 (ちくま新書(539))

教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化 (中公新書)

教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化 (中公新書)

日本教育小史―近・現代 (岩波新書)

日本教育小史―近・現代 (岩波新書)

モダンガール論 (文春文庫)

モダンガール論 (文春文庫)

*1:吉野源三郎自身、若い頃に社会主義に影響を受け、この本を書く6年ほど前には治安維持法事件で逮捕されているらしい。また本書も、出版の数年後には言論・出版の自由の大幅な制限により、戦後まで再版できなくなっている。

*2:大学の法学部を卒業したばかりだからまだ若いが、今の感覚からすると信じられないくらいの成熟ぶり。

*3:二年制の高等小学校は除く。

*4:()内と後半の文章は、昭和31年版ではページ数の関係で削られているようだ。

*5:その父と高校時代にぎくしゃくする話は、以前父と左翼という記事に書いた。

*6:スタッフに黒澤明の名がある。山本嘉次郎は黒澤を見出し育てた人。

*7:当時、大木先生の指導記録は飛ばして、作文だけ読んでいた。映画を見てから再読し、指導の丁寧さとそれにつれて作文の上手くなっていく様に感心した。当時印税は編者である大木先生にしか入らず、豊田正子が受け取れるようになったのはやっと戦後になってからだったという。

*8:大木先生を好演した滝沢修は戦後、劇団民藝宇野重吉とともに結成した新劇の第一人者だが、戦前は左翼的な活動をしていたため、この映画に出演した数年後に治安維持法違反容疑で一年七ヶ月も投獄されたりしている。

*9:近所の娘が芸者になったのを見たお母さんが、「きれいなもの着られるし、うまいもの食べられるし」「案外いいとこに嫁に行けるからな」などと言い、自分も芸者にさせられると思った正子が思い切り落ち込む場面がある。

*10:戦前のごく「普通」の家庭が描かれているように思われた石井桃子の名作『ノンちゃん、雲にのる』のノンちゃんも、女学校に進学し、勉強して将来は医師になりたいという希望を口にしているのだから、わりと上の方の階層の女子だったわけか。

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