私がTwitterに参入しない理由

最近頻繁にメディアでTwitterが紹介されるようになり、少し前も原口総務大臣津波情報を流したことや、会議の開始時間を間違えてその前にTwitterをやっていたことなどがニュースになっていて、増々認知が広まったように思う。全世界では約一億人が参入しているという。
Twitterの魅力として必ず言われることは、「気軽さ」と「繋がり」だ。これが今までのwebコミュニケーションツールの中で群を抜いているということらしい。


私がwebで今使っているサービスは、はてなダイアリーはてなブックマークとスター。これまで二回ほどTwitterのお誘いを頂いているが、参加していない。
ただ、Twitterをまったく見てないわけではなくて、ウェブ上でやりとりしたことがあって関心をもっている人のところは、たまに覗くことがある。自分のブクマのお気に入りに上がってくるTwitter関連記事は大抵読んでいるし、Togetterもテーマに興味があると読む。


このように、他のサービスを利用しながらTwitterやそこで起こっている現象にも一定の関心はあり、時々覗いているが参入する意欲はあまりないという人は、案外いるのでは‥‥と思う。
その理由は個々で違うだろうけど、自分の場合についてはこれまであまり深く考えたことがなかった。Twitter関連記事を読んでいてようやく、自分はTwitterが売りとしている「気軽さ」と「繋がり」が苦手なんだと思い至った。それについて分析してみたい。



1. 「気軽さ」が苦手
Twitterを覗いていると「おはよう」とか「いってきます」とか「○○なう」とか「仕事おわった、つかれた」とか「晩ご飯どうしよう」とか「おやすみ」とかいったポストをよく見る。プライベートを覗き見たいと多くの人に欲望されるような存在であれば、自分の何でもない呟きも不特定多数の人を楽しませるかなと思えるが、そういうわけでもなさそうだ。
日常の行動をなぜ逐一呟くのだろう。みんなこれまでそんなに、他人に自分の些細な行動を知らせ、反応してもらいたいと思っていたのだろうか?と、最初不思議に思った。


たとえばトイレに入り、「トイレなう。ふー。ウンコが‥‥(中略)‥‥‥出たよ!すっきり!」なんてポストは普通しない。それこそ「日常の気軽な呟き」のはずだが、たぶん誰も書きたくないし読みたくない。互いに報告し合っているその趣味の人は別だけど、相手がすごく限定されてくる。
つまり他人に知られてもいいこと、あるいは反応されたいことだけ選んで書くのだろう。これは反応されたい、これは知られたくない、これは意外性があるだろうから反応を見るために呟いてみたい、これは意外性がありすぎで引かれそうだからやめておこう、これはどっちでもいいけどなんとなく呟きたい、そういうことを瞬時に選別してポストしているのだろう。それを一日数回から数十回する。


なんて面倒臭いんだ‥‥そこでもう私は脱落者である。そもそも日常の行動などいちいち人に知らせたくないし、心情をその都度不特定多数に吐露したいとも思わない。気軽に呟けるからとじゃんじゃんポストしているうち、慣れで油断してとんでもないことを呟きそう(いわゆるダダ漏れ)なのもこわい。リアルの呟きは記録に残らないが、こっちは残る。
気軽に呟けるツールでも、何でも気軽にというわけにはいかないのはやはり当たり前のことだ。で、当たり障りのないことを断片的に書いていて、自分で面白いと思えるのかというと、よくわからない。


Twitterがここまで広がったのはおそらく、それまで自分の心の中でだけ呟いて済んでいたのに、呟きを他人に聞かせられるツールができたことで、「自分の呟きを人に聞いてもらいたい」という欲望が生まれたからではないかと思う。これはweb日記としてブログが広まった時にも言われたことだ(何年か前にこちらの記事で書いた)。
ブログより気軽な敷居の低いツールだということが、増々「呟きたい」欲を刺激する。「呟きたい」欲=「反応してほしい」欲。それを満たすことによって、被承認欲を満足させ自己肯定感を得るという人も多いらしい。これも、ツールができて初めてそういう欲望を自覚したんじゃないかという気がする。


日常のことを含め何か書きたい時は、ブログを使っている。自分のブログは日記ではなく読み物と考えているので、構成を考えオチを考えるのが楽しい。書くのには結構時間をかけるが、読み手には気軽に一気に読んでもらいたいと思う。それで10枚にも満たないテキストを何時間もかけて細かく手直しし、何度も読み直し、あたかもすらすら一気に書いたかのような記事に仕上げる。私にとってはそれが、文章を書くことの醍醐味だ。
ブクマコメントでさえ、言いたいことを圧縮するのに時間がかかることがある。大抵シンプルテキストなどに一回書き、校正してからアップする。
書くことについてこういう構えで、ツールによる使い分けが苦手なので、気軽に書ける140字でもいろいろ細かいことを考えてしまい、一日に何回もポストすることは不可能だろうな‥‥というのも、Twitterに二の足を踏んでいる原因になっている。*1



2. 「繋がり」が苦手
followingが何百人、何千人とある人がいる。何千人もフォローしているということは、膨大な数のtweetが自分のタイムライン上に流れてくるということだ。もちろんそれを全部読む必要もないんだろうけど、面白い情報や有益な情報を得たりやりとりするためにフォローしているのだから、一通りは目は通すのだろう。それだけでも私から見ると大変なことである。
私などたった14人しか登録していないお気に入りブックマーカーのブクマ記事ですら、全部読めていない有様だ。Twitterまで始めたら、朝から晩まで携帯かパソとにらめっこしてないといけなくなるのではないか。どれだけ時間があっても足りない気がするが、皆さんどういう情報処理の仕方をしているのだろうか。


自分がふと思ったことについて他人がどう反応するか知りたいという気持ちは、私ももっている。ぽんと投げ出した呟きに「自分もそう思う」という同意や、「それはたぶんこういうことでは」という面白い反応がリアルタイムで返ってきたら、嬉しいかもしれない。
ネガティブな反応をしそうな、自分に合わなそうな人は最初からフォローしないし、途中で腹立たしい発言をしたり関心のなくなった人などはリムーブするんだろうから、心地よい反応や役に立つ反応を返してくれる人とだけ繋がれるということになる。
ということは、こちらも相手に対して心地よい反応や役に立つ反応だけ返さねばならなくなるのだろうか。それがうまくいかなくなったらどうするんだろう。「繋がり」には必ずストレスフルな面がつきまとう。


結局、リアルで感じるコミュニケーションの煩わしさと同様のものがweb上にもあり、Twitterでも似たようなことは起こっているのだろう。たった140字の呟きのやりとりでストレスが溜まるだろうと予測してしまうのだから、私は根本的に、webでの気軽なコミュニケーションに不向きな質なのかもしれないとも思う。
そう言えば、mixiですら登録してからこの5年、プロフィールを書いただけで何の活動もしていない。あそこも「繋がり」が可視化されやすい場所だ。そういうことを意識させられる場は、少し窮屈に感じる。


最近、長い議論をしているのをTogetterで読んだ。140字制限があるので、ちょっと長い発言をしようとすると連続ポストになる。逆に短い中に詰め込むと齟齬が生まれやすくなる。慣れればうまくいくのかもしれないが、効率よく言葉を配置し、しかもテンポよくやりとりできるような人同士でないと難しいように見えた。これも、じっくり型の私には不向きだ。
もっとも、書き込み可能量がずっと多いブログのコメント欄や掲示板ですら、建設的な議論が行われることは少ない。お互いが同じだけ真摯に向き合い、同じだけ丁寧に相手の発言を読み、同じだけより良い結果をもたらそうと思っているのでない限りは。


ネット上で広く情報を収集したとして、それを使おうと思うと新しい情報なら結局自分で直接裏付けを取るか、古い情報なら文献に当たるかしないとならないことがある。だからTwitterは一部の人を除いてはやはり情報収集というより、「繋がり」感の獲得ツールとしての面が大きいのではないかと思う。
その「繋がり」対象は一人二人ではなく、たくさんいればいるほどいいようだ。そうしてコミュニケーションがどんどん広がっていくことがTwitterの面白さだという。


どうもその「たくさんの人と繋がっていたい」という感覚がわからないのかもしれない。必要に迫られない限り、そういうかたちのおつきあいを面倒臭いと思ってしまう。私はリアルでもどっちかというとおつきあい下手な方であり、それだからブログなどを書いているのだ。
ネット上では信頼できる人が数人いて時々良い記事を書いてくれて、できればこちらの書くものも読んでくれていたら、それで今のところは十分に感じている。コミュニケーションをとりたければブログのコメント欄に行くか、メールでやりとりする。その人たちと常時繋がっていたいという欲求はない。



3. その他
苦手な点はコミュニケーション形式そのものにもあるが、Twitterが時々はてなダイアリーでの議論の舞台裏というか楽屋裏に見えることがあるのも、今一つ引いてしまう要因かもしれない。


だいぶ前のことだが、相手のブログ記事に対して疑義を表明する記事を上げた後、Twitterで批判というか悪口を書いているのを見たのでブログの方で言及したら、「こんな発言にわざわざ反応して」というようなことを呟かれ、間もなくプロテクトされていた。私がTwitterをやっていないので、おそらくそこまで見ることはないと思ったのだろう。web上で発言を公開しているのに、そういうことを想定していないのは不思議だった。
Twitterで私の記事について複数人が不快感を言い合っている場面は数回見ている。それについて「こんなこと言われてたよ」と親切にもメールで教えてくれた人もいた。その人は、私がそれを知らずに変なタイミングで変なところに突っ込んでいって無駄なトラブルになるといけないので、老婆心ながらわざわざ教えてくれたようだった。


いやはや。私の書いたものについて何か言いたいなら、ブログのコメント欄に来ればいいのになぁとつくづく思う。コメント欄が厭ならブコメでもいい。
おそらくその人達も、私がTwitter発言までは見ていないと思って書いていたのだろう。私の方も今ではいちいちブログで言及して問い質すのも面倒で、黙って見ているだけである。最初から議論する気がなく陰で(と言っても公開されていたが)批判だけしたい人を呼び出しても、ろくなことはない。
だがもし私がTwitterをやっていたら、思わず何か厭味なことを呟きたくなったかもしれない。それが引き金となって鬱陶しい事態に突入しないとも限らない。Twitterの「気軽さ」が舌禍を招き、「繋がり」より分断が可視化されることはあるだろう。



あれこれTwitterについての個人的な思いを書き出してみた。「考え過ぎでは?」と言われるとは思う。考える前にまずやってみれば?と。
そういうノリが苦手なのです‥‥‥。
でもこの先、ブログだけ書いているのに飽きたり、何か強いきっかけがあれば参入するかもしれない。私と同じようなことを感じている人の別の意見や、そう思っていたけどやってみたらこんな面白い発見があったという意見は、知りたいと思っている。



●追記(3/12)
「私がTwitterに参入しない理由」という他人にとっては超どうでもいいことを長々と分析した記事など、このブログの固定読者か「Twitterに参入しない理由」自体に関心があるか誰彼なくTwitterを推奨して回りたいIT伝道師かいずれかしか読まないはずだと思っていたところに、このブログにしては割と多くのブクマがついたのはやはりTwitterについて書いた記事はどんなものにも一定の人が集まるという流行(笑)現象を現しているに過ぎないのだろうが、あるツールを使わない個人的理由について少し長めの文章を書いただけで「考え過ぎ」と言われても「そりゃ「私がTwitterに参入しない理由」についてあなたが私以上に考えられるとは思えないですよね」としか言えないではないかと思った一方、別段興味もないのに読みにきてブコメまでした上で「「私がTwitterに参入しない理由」とか超どうでもいいことを長々と書きそれを分析とは自意識過剰」などと離れたところでわざわざ書いてみずにはいられない心理ってどんなものなんだろうと一瞬だけ興味をもった。
ここまで464字。Twitterにして4ポスト。私の呟き、長すぎる。


●追・追記(2019.1.11)
そして月日は流れ‥‥‥今や立派なツイ廃人。https://twitter.com/anatatachi_ohno

*1:同じようなことをこちらで少し前に竹熊健太郎氏が書いていて、やはり文章タイプによって合う合わないというのを感じる人はいるんだなと思った。