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2010-05-22

女をモノ扱いするのは男の仕様、あるいは男の性の脆弱性と所有欲について

今週は、女をモノ扱いし女の人格を尊重しない男が世の中には多いので、女性にとって性的に欲望されることは単純に歓迎できないという話のブクマタワーがどんどん高くなっていくのを、あっけにとられて見ていた。

おそらくここでも、内容の是非というよりは話法を巡って(もちろん話法は立ち位置に深く関係する)対立や齟齬が生じていると思われるが、それに深入り言及するのは避ける。


一つだけ、ブコメやハイクでid:simplemindさんが、何の得にもならないのに焼け石に水的な介入と議論整理の努力をされているのに少し感動した。特に感心したのは(別の記事のメタブだが)これ

自分の事を「殴るどころか怒った事もない優しい性格」だと長年思ってたけど単に人と距離を置いてただけだと結構最近気が付いた/自分の暴力衝動とどう付き合うかは強さとか優しさだけじゃなく経験とか技術も要るよね

http://b.hatena.ne.jp/simplemind/20100521#bookmark-21660138

暴力衝動=支配欲を見つめコントロールすることの重要性は皆わかっているが、具体的にどうしたらいいか。気持ちの持ちようだけでは難しいと言っている点が鋭い。



さて、元記事の主旨からは離れるが、こちらでコメントを頂いたこともあるので、男の「女をモノ扱い」について考察する。


世の中の男性がDQNと非DQNにきっぱり分かれていて、DQNはどこまでも女性をモノ扱いして蔑む女性の敵であり、非DQNはあくまで女性の人格を尊重しモノ扱いはしない人々だ、というふうには私は思わない。

「モノ扱い」が、避妊を拒否してレイプまがいのセックスに及んだり、体格や体力の差を利用して相手を痛めつけるといった暴力行為を指す場合は、明らかに人権侵害である。そういう極端な、女性の皆さん一刻も早く逃げてクダサイ!というような(カミール・パーリアの言葉を借りれば)「十分に社会化されていない男性」は残念ながらいる。

が、多くの男性は、セックスしたいと思った女性に対して、そこそこは「人として」尊重し(つまり最低限のマナーは守り)、同時にそこそこは女性をモノ扱いしているのではないかと思う。


この「モノ扱い」とは、一言で言えばフェティシズムだ。女の人格とは関係なく、姿形の性的魅力、造形やテクスチャーを「美しい」とか「可愛い」とか「魅力的だ」とか「○○がきれいだ」とか「△△が自分好みだ」などと評価し、愛でるということである。

アニメの少女からグラビアのヌードまで、キャバ嬢から制服の女子まで、女をモノとして見、欲情し、所有したいと熱望するのが、ヘテロ男性の性だ。そこにミソジニーが多く混じればセクハラや性暴力に繋がりやすくなるし、賞賛に傾けば恋愛感情になる。つまりモノとしての女に欲情を喚起されるということにおいて、DQNと非DQNの欲望の基盤は同じである。

女も審美的な目線で男を評価するが、男のそれは女の何倍も強い。女への男のフェティシズムは、男のジェンダーにしっかり刻み付けられている。それは「見る者」(=所有する者)として生きてきた男の宿命である。だから男に、「女をモノみたいに値踏みするな」といくら言っても効果はない。


男が女をモノとして見て評価しているからと言って、常にその女の人間性を無視したり蔑んだりしているとは限らない。しかし「セックスをするのに、あまりに相手を尊敬しているとできなくなる」と言う男性はいる。強い敬愛感情をもつ相手に性的欲望は抱きにくいし、恋人を尊重したいと思うあまりセックスを求めなくなることもある。

愛情は相手を喜ばせたいという利他的感情だが、性欲は相手を支配したいという利己的欲望である。それは、相手を人間というより女、モノとしての女、あるいはメスとみなすところから生まれる。相手を喜ばせたいという気持ちがなくてもセックスは可能だから、わざわざ「愛のあるセックス」などと言ってみたりするのだ。


では女は男に、モノ扱いされることをあくまで拒み、人格を尊重しそれだけを愛するように求めるのだろうか。ほとんどの場合、そうではないと私は思う。女は男に、自分をモノとして愛でることと、自分の人間性を愛することの「両立」を求める。

女は、つきあっている男に「ねえ、私のどこを好きになったの?」と、必ず一回は訊きたがるものであるという。知っていても訊く。人によっては何回も訊く。

私はそんなこと訊いたことも気にしたこともありません!という人は、いいのです。一般論として、その傾向があるらしいということだ。

[中略]

そういう時に男は、「そうだなあ、目かな」だけでも、「優しいところかな」だけでも、答としてはダメらしい。

「目」だけを褒めるとは、モノとしてのみ女を愛でていて「私の人格は無視なの?!」ということになり、「優しい」ところだけを褒めると、「どうせ外見は自信ないわよ!」ということになってしまうから。 

従って、外見と内面と両方一個ずつ褒めよ。そういう男向けのアドバイスをネット上で見たことがある(アドバイスしているのは男性だった)。


つまり、女は男に「モノとしてもヒトとしても見てもらいたい」ということである。

マブい女としても選ばれたいし、デキる人としても認められたい、その欲求の両方を同時に一人の相手で満たし、時々確認して安心したい。


女しか言わないセリフ - Ohnoblog2(06.1.19)


こういう欲求を男はあまり持たないのではないかと思う。男が相手に「好かれている」と感じた時に「体目当てじゃないか。人として見てくれているのか」という心配をすることは、滅多にないだろう。「男として見られる」=「人として見られる」と、比較的スムーズに繋がっているように見える。女はその限りではない。

映画『コレクター』ではないが、モノとしての女を収集し所有することに喜びを見いだす男は結構いても、その反対は少ないように思う。


男のフェティシズムに対応するのは、女のナルシシズムである。女は「見られる性」であることを事あるごとに意識せざるを得ないが、その位相だけに留まっていられないがゆえに、男への要求は一見分裂的になる。

ある意味、女の方が男との関係に求めるものが複雑なのだろう。私の言い方だとそれは、「『女』を見ながら、同時に『女』以外のものを私の中に見つけてよ」(『「女」が邪魔をする』より)という「無茶な要求」である。

よく訓練されている男(十分に社会化された男)は、これを難なくクリアできたりする。だが勢い余って「人格に惚れたのであって決して外見ではない」などと断言してしまうと微妙なことになる。性的評価とは「モノとしての女」の価値を見ることであるから、この言葉を素直に受け取れるのはよほど自己評価が低いか、中年を過ぎて性的評価を落とさざるを得ない立場の女性に限られる。



こうした男女の非対称性について、斎藤環は『関係する女 所有する男』(講談社現代新書、2008)で明快な論を立てている。

斎藤は、ジェンダーの起源としてもっとも強力なイデオロギーは「ヘテロセクシズム」であり、そこにおける「欲望をもたらすのは常に「差異」であり、性差こそは、僕たちが人生で最初に経験する、もっとも重要な「差異」」だとしつつ、次のように述べる。

 ジェンダーの違いが存在するという現実を、無理に否定しても始まらない。それは事実として存在するし、たまたま存在するというわけでもない。ジェンダーとは人間の心的組織が構成されるに際して、なかば構造的必然として生ずるしかないものだ。(p.9〜10)


フェミニズムの社会構築主義では、ジェンダーは社会制度や慣習や規範や文化によって再生産されるもので、女のモノ扱いもジェンダーが規範となった環境から生まれる、従ってそれは社会改革や意識改革を押し進めることによってなくしていくべき、という「政治課題」になるわけだが、斎藤環が準拠する精神分析ではそういう理路を取らない。ジェンダーは人間がその成長過程で自己の性自認を行い、ヘテロセクシズムという欲望の経済圏に参入する中で(同性愛もヘテロセクシズムに起源を置くと斎藤は言う)必然的に獲得されるものになる。


斎藤環によると、男性のジェンダーは対象の「所有」を追い求め、女性のジェンダーは対象との「関係」を欲する、と定義づけられる。*1

性関係を「所有」の原理で捉える男と、「関係」の原理で捉える女。この図式を用いて、結婚における男女間の齟齬やすれ違いを初め、ひきこもり(男性)と摂食障害(女性)、おたくと腐女子のセクシュアリティの対比に至るまで、さまざまな事例が説明される。「あるある」ネタも結構多い。

女をモノとして愛でる男のフェティシズムについては、以下の言及がある。

フェチという言葉は、男は女性の人格とは無関係に、女性の身体そのものに欲望できるということを意味している。言ってみればこれも「女性のモノ化」であり、「所有の視線」にほかならない。しかしこれは、政治ではなく欲望の問題なので、批判や禁止でどうこうできるものではない。(p.177〜178)


男女のセックスについても2つの原理が適用される。

 男女関係の究極を「性行為」ととらえるのは、本当は所有原理(=男性原理)なのである。これはなにも、女性に性欲がないなどと言いたいわけではない。もちろん女性にも性欲はある。ただ女性の欲望は必ずしも性交=所有を目指すものではなく、スキンシップなどを含む非定型なものだ。こちらは基本的に関係原理である。所有欲は単純でわかりやすいが、関係欲は多様で複雑なのである。(p.170)

フロイトを参照し、性関係をSとM、支配と従属の関係だとした上で、

 もし男女間に「完全な平等」が実現したら、それはセクシュアリティの、いやそれどころか欲望の消滅を意味するだろう。だから僕たちは––––それが可能であるとして––––選択しなければならないのだ。「支配と従属と欲望のある世界」か、「支配も従属も欲望もない世界」のいずれかを。

 しかし答えはすでに明らかだ。後者が選択されることは決してない。「支配」「従属」「欲望」が消滅した時、「人間」もまた消滅するだろうから。善い悪いの話ではないし、実証可能な話でもない。ただ、そういうものなのだ。

 僕たちは「そういう存在」だからこそ、倫理や制度を必要とする。(p.176〜177)


こうした発話そのものがジェンダーの固定化と規範化を促進しているのだ、と批判する女性はいるかもしれない。男性の所有原理と女性の関係原理の「由来」について、斎藤環はフロイトの「去勢」理論を使って説明しているが、フロイトの論はこれまでフェミニストに散々批判されてきた。そこに準拠すれば、男性中心の社会構造が生んだ性差別問題というフェミニズムの視点より以前に、父-母-子の関係の中で各々の性別に応じてジェンダーは必然的に決定されざるを得ないことになるからだ。


だがフロイトの理論を受け入れても、現実の性差別を人権の観点から扱うことは十分可能だ。ただそれはどこまでも男女を同じものとして完全な平等を目指すような方向にはならないだろう。

誰をも本当は完全な平等を求める善い心をもった人間と看做し、現在を社会が未成熟なためにまだ平等が実現されていないプロセスだとする考え方には、人間を理想に向かって常に前進しなければならない存在だとする狭量さと尊大さを感じざるをえない。少なくとも私にとっては、「差異」が欲望を作り、欲望が個々のアイデンティティに根を下ろすという考え方の方が、ずっとリアリティがある。

重要なのは、私たち自身を「支配」と「従属」を楽しむ「不道徳」な存在であると認めることである。その上で初めて「自分の暴力衝動とどう付き合うか」が切実で重要な課題となってくるはずだ。



男の「女のモノ扱い」、女への所有欲(ひいてはセクハラ、レイプ、DVなどの暴力)の理由、由来についてはさまざまな人が考察しているが、ここでもカミール・パーリアの『性のペルソナ』(河出書房新社、1998)第一章を参照してみたい。


パーリアは、ギリシアアポロン的伝統とユダヤキリスト教的伝統を、大地信仰から天空信仰への移行と捉え、そこには自然(女)を克服し、超越しようとする男の抵抗と防御があると見る。男性の権力への意志、暴力性と支配欲は、女性への不安と恐れから来るものなのだ。*2

 女は腹の魔力(ベリー・マジック)を表す偶像であった。女は自分だけの力で腹を膨らませて出産するのだと考えられていた。この世の始まり以来一貫して、女は不気味な存在と見なされてきた。男は女を崇めると同時に畏怖した。女は、かつて人間を吐き出し、今度はまた呑み込もうとする暗い胃袋だった。男たちは団結し、女=自然に対する防壁として文化を作りだした。天空信仰はこの過程における最も巧妙な手段であった。というのも創造の場所を大地から天空へと移すことは、腹の魔力を頭の魔力(ヘッド・マジック)に変えることであるからだ。そしてこの防御的な頭の魔力から男性文明の輝かしい栄光が生まれ、それに伴って女の地位も引き上げられた。近代の女たちが父権的文化を攻撃する際に用いる言語も論理も、男たちが発明したものである。(p.22〜23)


パーリアによれば、男が畏怖する女は「母親」と「宿命の女(ファム・ファタール)」である。

世界中の神話に見られる女のダイモン的元型は、人間と自然がどうしようもなく深い関係にあることを表している。この伝統は、先史時代の偶像から文学や美術を経て現代の映画にまで、ほとんど元の形のまま続いている。その典型的なイメージは「宿命の女(ファム・ファタール)」、すなわち男にとって致命的な女のイメージである。西洋では、自然が撃退されればされるほど、抑圧されたものの回帰として、宿命の女がますます頻繁に登場する。その姿は、自然に対する西洋の罪悪感の亡霊である。(p.27〜28)

 母親は息子にとって致命的な存在になりうる。男たちが政治とか天空信仰のような壮大な建物を建てたのは、母親に対抗するためである。母親はメデゥーサである。フロイトはメデゥーサの中に、去勢する、そして去勢された、女の陰部を見る。だが、メドゥーサの蛇状の髪の毛は、くねくねと伸びる自然の植物でもある。メドゥーサの醜く歪んだ顔は、女の笑いに対する男の恐怖が投影されたものだ。母親は子供に生命を与えると同時に、自由独立への道を閉ざす。だから私はサドと同意見で、私たちは鶏姦や堕胎によって自然の生殖衝動を挫く権利をもっていると考える。男性同性愛は、宿命の女から逃れよう、自然を打ち負かそうという企ての中でも、最も勇敢な企てかもしれない。(p.30)


パーリアはフェミニズムの伝統的な見方に反して、男という性を、圧倒的な自然に対抗せざるを得ない不安定で脆弱な性として位置づける。性行為から論理やシステムの構築に至るまで、男の熱中と競争、それらに通低する所有と支配への飽くなき欲求は、自己の存在論的な不安、寄る辺なさを解消しようとするためだということになる。だから男の性において、攻撃性と脆弱性は表裏一体なのだ。

斎藤環は哲学という優れて思弁的な分野がほぼ男性で独占されていると指摘していたが、パーリアは数学に男性が傾倒するのは、そこが自己完結的な純粋論理の世界だからだと言う。こうした傾向を職業における男女差別のせいだけにしてはポイントを見誤るというのが、パーリアの意見である。そうすると生物学者、特にサルの研究に女性が多いのは、研究の中で対象との「関係」がとりわけ重要になる分野だからかもしれない。


『セックス、アート、アメリカンカルチャー』(河出書房新社、1995)の中でパーリアは、無垢な被害者として自らを定位するフェミニズムを徹底的に批判し、女性こそが支配的な性である、女性は自分のセクシュアリティに責任をもつべきだと述べた。彼女に言わせれば、未だにフェミニズムは男と社会を責め立てすべてを手に入れようとする旧態依然としたドグマに縛られている。*3

パーリアの論を、女性をあまりに男性とかけ離れたものとして想定している、自然と同一視し過ぎだという意見はあるだろう。女=自然という観念は時に性差別強化に働く危険性をもつ。生物学を重要視しているため、断片的に言葉を拾うと一見バックラッシュ的言説にも見える。大胆な論旨や歯に衣着せぬ論調で有名になったが、他のフェミニストからは保守派だと非難されていたようだ(レズビアンで、かつて「Justify My Love」がMTV放送禁止になった時に敢然とマドンナを擁護し、あらゆるポルノ規制に反対の「保守派」は可笑しいが)。


パーリアが強調するのは、妊娠機能を備え自然のリズムに支配された女性の生理を軽く見るべきではないということである。

男は女に比べると自然の軛から幾分自由であるために、自然に逆らおうとする。自然をコントロールし、自然とは別のシステムを樹立することが、男にとっての勝利である。

男の作り出した文明の中で、女も荒々しい外界から保護された快適な生活空間を手に入れるようになったが、生理=自然の影響からは逃れられないことを体感的によく知っている。たとえ妊娠出産しなくても女は過剰な自然を内に抱えている。このことが女のメンタリティや振る舞いに及ぼす影響を、パーリアは重視するのである。彼女はそこに男のアポロン的な美意識とはまったく別種の、危険でエロティックでディオニュソス的な力の解放を積極的に見いだそうとしているようだ。



もし私が20代や30代の初めでパーリアを読んでいたら、おそらく強い反発を覚えただろう。30半ばを過ぎた頃から、男女の非対称性をつくづくと痛感し、男は女とは異なる生き物であり、異なるルールで動いているものだということを思い知るようになった。この差異を差異として受け止めながら異性と共生していくには、それこそ「強さとか優しさだけじゃなく経験とか技術も要る」ことも多少は学んだ。


面白いことに、カミール・パーリアも斎藤環も、基盤にしている論理は異なるが、性差の認識について似たようなことを書いている。

 中年になったわたしは、ホルモンをもとにした根本的な性差があるという考えを受け入れるようになった。体制べったりの五〇年代(ミルクシェーキとソックスとポニーテールという最近の甘ったるい郷愁など嘘っぱち)に猛烈に反抗した思春期のわたしは、男女には差がなく、あらゆる性差は慣習以外のなにものでもないと思っていた。

(『セックス、アート、アメリカンカルチャー』p.153)

 そんな性意識はもはや古い? そう言いたい気持ちもわからないではない。

 もしあなたがまだ若く、それはもう活発な性生活を営んでいる場合には、そう感じるのも無理はない。現実の性生活は、あまりにも多様なので、かえってジェンダーごとの差異は見えにくくなってしまう。しかし、これからあなたがさらに成熟し、あるいは年老いていくにつれて、ジェンダー間における性意識の違いに驚かされるであろうことは、ほとんど時間の問題だ。

(『関係する女 所有する男』p.169〜170)



関係する女 所有する男 (講談社現代新書)

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セックス、アート、アメリカンカルチャー

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*1:彼は生物学的性と区別するために一貫してジェンダーの問題として取り扱っているが、欲望を中心として考えるとセクシュアリティの問題として扱った方がいいように思える箇所は多い。

*2:これはあくまで西洋文明に特化した男女観ではないかという見方はあろう。パーリアは東洋の象徴体系では男女は同等であるとし、西洋との自然観の違いを指摘しているが、共同体における男女の役割は東西関係なく共通点が見られるし、また近代国家は西洋合理主義の元にある。

*3:と言っても本書の刊行から15年経った今は、アメリカのフェミニズムもいくらか変容しているとは思うけど。

yotayotaahiruyotayotaahiru 2010/05/23 03:41 こんばんは。よたよたあひるです。興味深いエントリありがとうございました。
引用されている本をどちらも読んでいないので、今度じっくり読んでみようと思いました。


>では女は男に、モノ扱いされることをあくまで拒み、人格を尊重しそれだけを愛するように求めるのだろうか。ほとんどの場合、そうではないと私は思う。女は男に、自分をモノとして愛でることと、自分の人間性を愛することの「両立」を求める。
>男のフェティシズムに対応するのは、女のナルシシズムである。女は「見られる性」であることを事あるごとに意識せざるを得ないが、その位相だけに留まっていられないがゆえに、男への要求は一見分裂的になる。

 現状、マジョリティであるヘテロセクシュアリティの「男女」の関係性、男女それぞれの性が異性に対して持つ態度の分析・評価としてはこういうことになるだろうと私も思います。
そして、性ホルモンや身体機能の差に基礎を持つような「性差」はやはりあって、それは仮に「フェミニズムの社会構築主義」的な取り組みで男女の社会的役割の平等が制度面で徹底できたとしても(なんかこれ微妙な感じですが…何をどう徹底化するのが男女平等になるのか自分でも整理できないので)なにかしら行動規範や態度においては「違い」として残るものがあるだろう、とも考えています。ただ、その「差異」「違い」を「ジェンダー」または「セクシュアリティ」のどちらの差異と考えてよいのか判断保留です。

「見られる性」をことあるごとに意識化し、その結果として内面化した「見られ、所有される女性的な性の在り様」は、「所有されることによる所有」(排他的関係性への欲求)、「めで所有する男性的な性の在り様」の補完物であり、結果的には「男女」の共犯関係の中で一層強化されたものだと考えています。というか、「男が所有を求め、女が関係性を求める」というのは、それぞれの生物学的性を持って生まれたものが、ホモサピエンスならぬ人間として現代の社会の中で生育して学習して得たものであるなら、当然、学びそここなう者や学ぶことを拒否するものも出てくるのではないかと。
 現実に、男性の摂食障害もそれなりの事例数が出てきています。男性と女性とで摂食障害が発生する理由が異なる可能性も否定はできませんが、男性もまた「見られる性」「選ばれる性」でもあるという状況がかなり一般化してきた現れと見ることもできるでしょう。また、女性から男性へのセクハラもDVも表面化してきています。特にセクハラに関しては、社会的地位が高い女性が一定数活躍してきていることと無関係ではないでしょう。
 学習することで獲得される「性差」の形は、社会の在り様に影響されながら少しずつ変わってきているのではないかと思います。
 無論、「男女の性差」が全く無くなることはありえないでしょうし、全く同じものになる、という形での「平等」の達成は、プライベートな関係性の中での「支配―被支配」を変えることになるとも思えないのですが。

一見一見 2010/05/23 09:27 blog主さんは女性なのかな。原因を男側にのみ求めている様に思います。

門外漢なので社会学と離れるかもしれませんが、恋愛をロマンチックなものとは見做さず単に遺伝子を残す方略とするなら、
男はセックスをした時点でその目的の大半を達成した事になります。
一方で女はセックスは始まりに過ぎません、子供を産み、育てない限り遺伝子を次世代に残す事にはならないからです。
これは男も同じですが、女も全く同じ動機で動いていますから責任を押し付ける事が出来ます。 これを踏まえると、

>「体目当てじゃないか。人として見てくれているのか」
に対して男の場合は「金目当てじゃないか。男として見てくれているのか」との不安がある様に思います。
女性の「人として・・・」は、「この後も自分の側にいて(子供の面倒を見)てくれるのか?」との不安の現れでしょう。
これは子育てに対するリスクマネージメントだと考えられます。

外見(体)はハードウェア(モノ)の出来に他ならず、それはその設計図である遺伝子の優秀さを示します。
体を求める事はすなわち遺伝子の優秀さを求めているのです。
これは自分の遺伝子を優秀な遺伝子と掛け合わせる事により生き残らせようとする方略です。
これら一連の現象は、男女共に同じ行動原理で動いているにも関わらず子育ての責任を誰が負うかの違いによるものと考えられます。
子供が女性から出てくる(生まれる)と言う現実により子育てのリスクを回避する事が可能な為、
男が優秀な遺伝子を追求する事が可能な一方、女はより子育てのリスクに目が行くと言うだけという事ではないでしょうか。

セックスと妊娠との因果関係が理解されるのは(有性生殖が行われる様になってから見れば)ごく最近の事ですから、
外見によってセックスの相手を決める事と子供を育てる事は「(男女問わず)仕様」であって、
女が外見以外に自分を評価されている事を確認するのは「(子育てを押し付けられる可能性がある側の)実利的な行為」だと考えます。

外見(体)によってセックスの相手を決める事が「仕様」であるなら、
「これからも自分を愛しつづけてくれるか」の不安は当然「体以外も評価してもらえているか?」との問いになるはずです。
女性の求めるものが具体的ではなく「体以外」としか表せない理由をこの様に解釈しました。

結局結局 2010/05/23 13:21 「異なるルールで動いている」という部分に帰結するのかな、と思いました。
所有とか性欲とかジェンダーとか、色々いいはじめると感情論になってしまうけど
結局「大人と子供」とか「労使」とか、とにかく異なる欲求・ルールで動いている個人や集団同士の軋轢というだけの話かなと。
社員は愛社精神があって仕事にやりがいを求めているのに、経営者は金が欲しいだけで社員のことなどどうでもよくて株価つりあげて売り抜けたいだけ、
ということが過去いた会社でありました。それと似ているかも。

お互い求めるものが違って、それがぶつかる場合、相手に合わせるか・自分に合わさせるか・関係を断つ かしかないと思う。
相手に合わせることも、自分に合わせてもらうこともできないなら関係もたなければいいのに
グダグダ文句ばかり言ってても異性を求めることをやめられないのが「欲求」「本能」だからしょうがないすなぁ。

ohnosakikoohnosakiko 2010/05/23 16:29 yotayotaahiruさん
個々で細かく見ていけばいろんな人がいるし、時代や環境の影響も受けるでしょうね。
その上で、こういう傾向があるだろうと見ることで、説明できたり納得できたり無駄な摩擦を避けられることもあるのでは?と思って書いております。

一見さん
何の原因でしょう? 性差別の? 男の人ってもともとこういうもんだって考えてみてはどうでしょう?という記事ですけど。

結局さん
そうですね。

あ 2010/05/23 16:55 ごちゃごちゃして、凄く読みにくい文章ですね

ohnosakikoohnosakiko 2010/05/23 17:00 ↑読まんでいい。

対比すると対比すると 2010/05/23 19:24 男を財布扱いするのは女の仕様、寄生欲について

sumer_camussumer_camus 2010/05/23 20:01 で、オンナはオトコをどう見てるんでしょうか?

mad-caponemad-capone 2010/05/23 21:46 女は男を財布として見ている。女を財布扱いする男は女のそれと比べて圧倒的に少ない。

sumer_camussumer_camus 2010/05/23 22:52 > mad-caponeさま
レスありがとうございます。
なるほど、だとすると、需給のバランスさえ取れていれば、何の問題も生じなさそうですね。経済的には。それに、オトコにとっても、亭主元気で留守がいい、ってのはオトコからすると随分傷つく発言ですよね。

> ohnosakikoさま
人様のブログ※で勝手に会話してスミマセン。
というわけで、男女ともにお互いをモノ扱いしてる、との説がここで出て参りましたが私は結構納得してしまいます。ここはどう解かれるのでしょうか?私としても生理的にはイヤな話ですが。
それと、
> 女は男に「モノとしてもヒトとしても見てもらいたい」
ごくろうさまです。多分ホストクラブにいくと満足できますよ。オトコがそうであるように。

ふなぼりすたふなぼりすた 2010/05/24 00:44 はじめまして。
私がいままで考えてきた事や経験からくる実感と少し違っていたのと、文章だけではよくわからない箇所があったので質問させてください。

>愛情は相手を喜ばせたいという利他的感情だが、性欲は相手を支配したいという利己的欲望である。

「性欲は自分を喜ばせたいという利己的欲望」だと思っていました。そしてその欲望を満たす事は、必然的に「相手はどうでもいい→(広義の)所有」となる、と。
性欲の対象そのものは、本当は「人間以外」でも「2次元」でもいいのかもしれない、ただ多くの人の場合、「(異性間の)関係性に求めるべきというモラル」が邪魔してそれを自覚できないだけ、だと思っています。
(愛情だって結局「相手を喜ばせたいという利己的欲望」でしょう?というのはとりあえず置いときます)

また、斎藤環氏の言で、「男は女性の人格とは無関係に、女性の身体そのものに欲望できる」は、別に男性の生物的特性ではなく女性だって同じでしょう、と思っていました。
で、その差について、

>女も審美的な目線で男を評価するが、男のそれは女の何倍も強い。

なんか「男も性的絶頂を実感できるが、女のそれは男の何倍も強い。」みたいな感じが・・・。
(まあ「絶頂」については、その生物学的差異が何?/「実感」は客観的にどう評価するの?というあたりがツッコミドコロでしょうね)
脱線失礼、「審美的目線」について。男性には許されていて女性には許されていない、という意味で「ああ、人の心ってここまで社会に支配されているのね」というのが私の実感(推論による帰結ではなく)でした。これはフェミニズムというものを知らなかった十代半ばから大きく変わりません(むしろ後からフェミニズムを知って「世の中には私と同じ考え方をする人がいる」と知りました)。

で、質問なんですが、

>女への男のフェティシズムは、男のジェンダーにしっかり刻み付けられている。

この場合の「ジェンダー」は、「生まれつき」と「学習の結果」とどちらの比重が高いと考えていらっしゃるのでしょうか。文章からは判断がつきかねたので、教えてください。
(コメント欄に「男の人ってもともとこういうもんだって考えてみてはどうでしょう?」とあるのは、「生まれつき」の比重が高いと考えていらっしゃるということでいいのでしょうか?それとも単に「考え方の一つ」を提示しただけで本心とは別、なのでしょうか。)

RIRIRIRI 2010/05/24 01:27 自分のコメントがきっかけで記事を広げてくださったんでしょうか?
興味深い内容ありがとうございます。パーリアは初めて知りました。
斉藤環は知っています。紹介された本を読んだことはありませんが。
進化論の本や心理学の本を一時読んだことがあったので
生物学的な差や 女性は関係性、男性は所有性という基本原理とかはなんとなーく
知っていたのですが
普通は、男性の所有欲こそが見られる性としての欲望を支えていることに気づけば
今まで受け入れられなかった男女の違いを素直に受け入れられるようになった
という状態に繋がるのでしょうが
自分の場合、所有欲が受け付けなくなる気持ちと同時に
自らのナルシシズム(少なくとも異性に向かう承認欲求としての)も多分今はほぼないんですよね。

10代の若いころは「モノ扱い」を嫌がる女性の気持ちがむしろ理解できなくて
女性は人間としても認められ、モノとしての側面でも承認してもらう事ができるのだから
むしろずっとトクじゃん、的な気持ちがあったんです。
人間として認められる以前に女性はどこまでいっても男性にとってモノでしかない。 
言うことにカルチャーショックを受けたまま、いまだに慣れません。

女をモノ扱いするのは女性差別であるなどと社会化する意義は一切なく
あくまで私の内面的問題なので・・・・。
究極のところ自分みたいな人間はレズビアンになった方がいいのかと思うんですが
今のところ性愛の嗜好は男性にしか感じないので凄く悩んでます。

あ、このblog非公開コメントに出来ませんか?
ohnoさんに読んで何らかの感想をいただければそれでいいので

ohnosakikoohnosakiko 2010/05/24 02:34 sumer_camesさん
本文で男の「女をモノ扱い」はフェティシズムだと書きました。「モノ扱い」をこれ以外の意味では使っていません。その意味で男女は基本的に非対称だというのが前提になっています。
もっとも、「モノ扱い」の意味をどこまでも広げれば、仰っているような話も出てくるでしょうね。


ふなぼりすたさん
「ジェンダー」ですから「学習の結果」ということです。「生まれつき」だと生物学的な要因になります。ただ同時にホルモンの影響を重視するパーリアを紹介しているように、「生まれつき」も無視できない要素だと考えています。
「ジェンダー」について補足すれば、身体構造の違いを意識するところから心的構造が決定されることになる(フロイト-斎藤環)ので、学習要素は大きいけれども生物学的要素と完全に切り離すことは難しいでしょう。
つまり、性差を社会構築的なものとしてのみ見ることには、無理があると私は思っているということです。


RIRIさん
男性の所有欲がわかることと、それを受け入れられるかどうかとは別で、私個人も抵抗を感じることは多いです。どこかで折り合いをつけるための考え方の一つと思っています。
あと、非公開コメントにできるようになってないのです、すみません。
個人的なメッセージでしたらお手数ですが、右上のHNをクリックするとプロフィール欄に飛びますので、そこにあるメールアドレスに送って頂けるでしょうか。お返事致します。

勉強します。勉強します。 2010/05/24 10:15 面白そうな文章と思えたので、引用の本も含めてもうちょっと勉強します。
私は女性の支配欲というものも感じる事があります。
これは日本だからかもしれませんが、昔から夫を家長とする文化はありましたが、
実際に家を切り盛りする面から見れば、その先頭におりその場を支配するのは女性でした。
女性はルール作りと自信のルールが及ぶ範囲の拡大という支配欲を潜在的に持っていると思います。
女性のグループはこれが機能している例でしょう。そこでは口に出さずとも序列があり、上位のものが暗黙のルールとなっているように見えます。
家族の内では必然的に上位に属し、時に有無を言わさない権力者となっていると思います。
昔はここで、外に向き活躍する夫と、内に向き活躍する妻がバランスを取っていたと思います。
しかし、現代はさらに妻が夫を支配するようになり、
権力の一極集中が怒っているのではないかと思います。
このような状況では女性が秀でている交渉力を発揮もせず、
ただ独善的に自らの気分でルールを作っているように見えることがあります。
私はこれを女性の支配願望の現れと見ています。
男の略奪的な支配というより、静かな侵略による支配が女性の特徴なのだと思います。
現代社会は男の力を使うことは許されません。
しかし、女性は自らの持つ力を発揮すれば良いだけです。
集団形成と有利なルールを作りに長け、自らに有利なルールが及ぶ範囲の拡大を目指す生き物・・・
このように見えることがあり、それに恐怖するのです。

tikani_nemuru_Mtikani_nemuru_M 2010/05/24 11:50 ブコメの反応などみるに、♂と♀の非対称性を生物学的な「本質」に基づくモノだとの理解がされているようで気になります。確かにこのエントリではそう読めなくもないですし。
統計的な傾向性の違いは、確かにほぼ通文化的に性差がありますが、それは♂♀間に「本質」の違いがあるからではない。地続きであり、相互理解が可能なものです。また、あくまでも統計的な分布であり、典型にあてはまらないことは断じて異常ということではありません。
このあたり、ohnosakikoは理解されていると思いますが、書き方のムツカシイところだとも思います。僕も書いてみたいネタではありますが、どう書きあぐねております。

ところで
フェティシズムについてですが、男の性欲は基本的にフェティシズムなので、生殖不能になると困るから、女の側も男のフェティシズムを受容せざるをえなかったのだとどこかで岸田秀がいっていました。つまり、男のフェティシズムは弱者による恫喝だということだとのことです。

ふなぼりすたふなぼりすた 2010/05/24 12:33 ohnosakikoさんへ

回答ありがとうございます。
「ジェンダー=学習の結果」了解しました。本文が

>だから男に、「女をモノみたいに値踏みするな」といくら言っても効果はない。

と続いているので、私自身の「ジェンダーは本当は簡単に書き換え可能」という先入観から、「もしかしたらジェンダーに違う意味を込めているのかも」と思った次第です。
でも、「男に『女をモノみたいに値踏みするな』と言う」という事自体、もしかしたら「男の学習機能に対して効果が薄い方法」というだけなのではないでしょうか。
修行すれば尊師様だってイケメンに見える!
効果を期待するなら、例えば頭に電極つけて「審美的目線」の度に電流流すのは一つの方法でしょう。ただ、さすがに現代では「人権思想」がそれを許さないでしょうね。そういう意味等諸々を含めれば、もちろん私も「ジェンダーは書き換え困難」だと思っています。
私は男ですが、この問題は「修行が足りない男が悪い」でいいと思っています。
もちろん私も修行が足りない男の一人です。

私自身は、生物学的要素が最終的に社会構築的なものに還元できるなら、「結局は社会構築的な理論のみで説明可能じゃないか」とどうしても思ってしまうのです。むしろ、いわゆる「性同一性障害」等の「身体構造の違いを意識するところから心的構造が決定されることになる」では説明しきれない事例から、「生まれつき」の「可能性を捨てきれない」でいます。
大体、サイエンスもフェミニズムも、この手の問題に対して現時点ではあまりに発展途上すぎてほとんど無力に思えます。門外漢の私に言えるのは、せいぜい「〜の可能性がある」「相関が認められる」くらい。どんな本を読んでも数学や物理学のような説得力がない(私の本のチョイスが悪いだけの可能性はあり。ただ数学などは、たとえ中学生の教科書でも、大体において反論不可能で充分説得力があるんですよね)。いっそのこと専門家には「ここらへんはあんまりよく解明されてないんだけど〜」って正直に言ってくれよ、って思ってしまいます。

あと思ったのが、今回の文章って「性差」を「人種差」に置き換えてもそのまま成立しますよね。ただ別分野なので、今までの研究の成果によって「生まれつき」か「学習の結果」かがもう少し詳しく解明されている→そのまま当て嵌まらない、という可能性はあるかと思います。もし「人種差」に置き換えるのが間違いなら、何か根拠(私の誤読とか研究成果とか)を教えていただけるとありがたいです。


RIRIさんへ

「人間として認められる以前に女性はどこまでいってもモノでしかない」という感覚を持たない、どころかその感覚を持つ同性を嫌う男性はいます。ただ、圧倒的に少ない(私の30数年の狭い人生経験で3人です:私基準)。この件、まずは「修行が足りない男が悪い」のです。その上での「折り合いをつけるための方法」です。無理して「性自認」まで変える必要はないと思います。つらいですよ。私自身、若干めんどくさい性自認(黙っていれば社会生活に影響のないもの)を持っていますが、なんとか相棒(女性です)が見つかりました。RIRIさんにもいい出逢いがあるように祈ります。

ohnosakikoohnosakiko 2010/05/24 22:09 勉強しますさん
女性は、公的場所から閉め出され私的場所(家庭)という狭い範囲に活動範囲を限定されることによって、そこでの支配力が大きく見えたということもあるのではないでしょうか。それでも一昔前までは、重要なことを決めるのは男という風潮は残っていたように思います。
今は、家庭内の女性の権限は最大限まで大きくなっているでしょう。それも外での権限のなさの裏返しという面はあるかもしれません。

ohnosakikoohnosakiko 2010/05/24 22:16 tikani_nemuru_Mさん
懸念されていることは非常にもっともだと思います。
こういう記事を書く動機の一つとして、性の話になるとすぐさま「多様性」があり「男も女もないのだ」的な話になって終わりがちであることに、ずっと違和感を覚えていたことがあります。また近代的な人権意識を重視するあまり(もちろん重視するべきですが)、異性への欲望や幻想というものを軽く見ているのではないかと思うこともありました。
一番懸念するのは男女の非対称性を、相対主義で「どっちもどっち」と無化してしまうような思考です。
なので、煽り気味に書いたところはあります。議論喚起したかったのですが、まあ私のブログをこれまで読んでない人には本質主義的に受け取られてしまう面もあるかなあというのは反省としてあります。

社会構築主義か本質主義かというのは不毛な議論だという気が個人的にはしています。そもそも本質というものはない。モデルとして人間=男性があり、女性は「〜ではない」というかたちでしか記述できません。少なくとも精神分析ではそうだと思います。
男性の本質、女性の本質がそれぞれあり、それ以外の要素はないとはもちろん思っていません。そしてすべてが社会的に構築されたものに過ぎないという見方も退けたいのです。

で、そうした認識と「相互理解」とはまた別のものだと思うのですね。
むしろ「相互理解」のために私はこういう記事を書いているつもりなんですけども。わからないからわかり合いたいという欲求が生まれると思うので。

男性のフェティシズムについては、女性のナルシシズムよりそれが先にあるだろう‥‥ということは思います。

ohnosakikoohnosakiko 2010/05/24 22:19 ふなぼりすたさん
身も蓋もなく言ってしまうと、性に関する議論というのは、「こう考えるといろんなことに辻褄が合う」か「こう考えると面白い」という仮説以上のものではありません。
性に関してある見方を提示すると、「私はそれには当てはまらない」「そうじゃない人もいる」という意見が必ず出ます。それだけジェンダーやセクシュアリティが人のアイデンティティに関わっているので反発も大きいのだろうと思いますが、斎藤環も言っているように実証可能な話ではないので、悟性で判断するしかないんですね。

「性差」を「人種差」に置き換えられる部分はいろいろあると思います。一つは差別抑圧を生んできたこと。もう一つは「生まれつき」もあるということです。例えば黒人の運動能力やリズム感は他の人種より勝っているように思います。これらがすべて「学習能力」の結果に過ぎないとした研究を私は知りません(もしかしたらあるのかもしれませんが)。

Silver_PONSilver_PON 2010/05/25 11:46 男女の性差というのは男性が子供を産まない事の一環として女性を守る戦う性であるという事ではないかと思います。現在まで戦う事と戦う事による結果が貨幣経済であったわけですので、まあそんなもんではないかと。
また女性は見られる性であるという事ですが、強い遺伝子を残す事、と、また強い男を抱えて守る事から、その為に見られる性であるという事は必要だったのではないかと。

ohnosakikoohnosakiko 2010/05/25 16:30 すいません、もう少し整理してから書いて下さい。
性差によって起こっている現象はすべて本能に還元可能、という話なら賛成できません。

ふなぼりすたふなぼりすた 2010/05/25 17:35 回答ありがとうございます。
「悟性で判断するしかない」については「他者を屈服させる能力を持たない」と解釈させていただくことにします(私自身は「他者を説得する能力を持たない」と思っているのですが)。

>黒人の運動能力やリズム感は他の人種より勝っているように思います。これらがすべて「学習能力」の結果に過ぎないとした研究を私は知りません(もしかしたらあるのかもしれませんが)。

「生まれつき」の影響が100パーセントであっても0パーセントであっても、将来それが解明されても解明できない事が証明されても、何の間違いもなく成り立つ文章なのですが、そのように思えない人・そのように扱わない人が世間には多いと思われます。そういう意味でも、やっぱりフェミニズムはリテラシーを学習するにはいい素材だなあ、と改めて思いました。
また、あえてリスキーなエントリーを立てられた事には敬意を表します。これからもなるべくキケンなネタでよろしくお願いします。(TLSの回は相手がしょぼすぎて正直つまんなかったです、というかご苦労様でした)

通りすがりk通りすがりk 2010/05/25 22:02 ohnosakikoさんへ

>だが勢い余って「人格に惚れたのであって決して外見ではない」などと断言してしまうと微妙なことになる。
>性的評価とは「モノとしての女」の価値を見ることであるから、この言葉を素直に受け取れる
>のはよほど自己評価が低いか、中年を過ぎて性的評価を落とさざるを得ない立場の女性に限られる。

そうなると思いますが、男が人格・経済力・肉体(顔も含む)、で総合的に評価されるのに対して女が、人格・肉体だけの場合どれか一つ否定されてもショックが大きいというだけじゃないの?という気もします。
そして「人格に惚れたのであって決して外見ではない」は、必ずしも外見の否定を意味したものではありませんよね。
どうなんだろ、私なんかだと「アナタの人格に惚れたのであって決して外見や経済力ではない」なんて女から言われても別に何でもないですよ。この場合は「自己評価が低い」からということではなくて、外見や経済力に自信があっても同じだと思います。

ohnosakikoohnosakiko 2010/05/25 22:36 通りすがりkさん
この記事は男女のジェンダーの非対称性について書いていますのでそれを踏まえれば、男が「総合的に評価」されている一方で「人格・肉体」だけしか評価軸がない女がその「どれか一つ否定」されたら「ショックが大きい」に決まっていますし、「人格に惚れたのであって決して外見ではない」は「外見には惚れてない」という意味だから男よりずっと外見で評価されることの多い女は内心傷つくこともあるだろうという話ですし、男性である貴方が「別に何でもない」のも当たり前のことでしかないです。

通りすがりk通りすがりk 2010/05/26 06:14 ohnosakikoさんへ
>「人格に惚れたのであって決して外見ではない」は「外見には惚れてない」という意味だから男よりずっと外見で評価されることの多い女は内心傷つくこともあるだろうという話ですし、男性である貴方が「別に何でもない」のも当たり前のことでしかないです。

そうですか?
女よりずっと経済力や人格で評価されることの多い男の私が、「アナタの外見に惚れたのであって決して人格や経済力ではない」で傷つかないのはどうしてなのでしょう。
もっと言えば、例え3項目全てに自信があっても無くても傷つきません。
記事から言えることは、女は「…ではない」を否定(マイナス)の意味だけで解釈する傾向がある、ということだと思います。

ohnosakikoohnosakiko 2010/05/26 08:26 だから? そういう男女の非対称性が起こる理由について記事で書いているでしょ?
それが不十分だと思うなら、なぜ「女は「…ではない」を否定(マイナス)の意味だけで解釈する傾向がある」のかご自分のブログで分析してみてはいかがですか。

ラク(=通りすがりk)ラク(=通りすがりk) 2010/05/26 20:29 (なんか面倒くさいのでラクにします)

ohnosakikoさんへ
>そういう男女の非対称性が起こる理由について記事で書いているでしょ?

もう一度はじめから読み直してみようとは思っていますが、その理由はどこに書かれているのですか?
書かれていればすいません。

>それが不十分だと思うなら、なぜ「女は「…ではない」を否定(マイナス)の意味だけで解釈する傾向がある」のかご自分のブログで分析してみてはいかがですか。

ブログなどというシャレたものはやっていませんが、これは性淘汰と雌の選り好み理論(+潜在的繁殖速度)によってほぼ説明できてしますと思います。
経済力や腕力がシカやサイなどの角や牙、傷つきやすい女への気遣いはクジャクの模様と考えればきれいに辻褄が合うと思うのです。
#参考本:『生き物をめぐる4つの「なぜ」』(長谷川眞理子)

PNGPNG 2010/05/27 00:07 はじめまして。初めてコメントします。

奥歯に物が挟まったようなコメントが多いので、男としての本音をありのままに述べます。

はっきり言って、論旨はその通りです。セックスという行為そのものに男の支配欲・破壊
欲・さらにいえば暴力欲がプログラミングされていると思います。

本当に好きな人には暴力的になれない、と仰る男性の方、本当に自分が愛する女性とのセ
ックスのクライマックスの場面をよく思い出してほしい。愛している女性とのセックスで
も、愛している気持ちの盛り上がりと同時並行で、正直愛情とは異なる支配感情が満たさ
せるのを感じることはないでしょうか。少なくとも私はその自覚があります。正常位で愛
を十分に感じつつも、射精の直前ではなりふり構わずガンガン腰を打ちつけてしまう自分
がいます。

だからといって射精欲だけではないのです。いとおしい気持ちにまったく変わりはないの
です。そこは、本当の男女間の性愛を体験した人ならわかるはずです。また、その時に女
性も、攻められて支配されている自分を楽しんでいるような気がしてならないのです。

男女の支配・服従関係の存在が望ましいかといえばそうではないと思いますが、セッ
クスそのものが、男の女に対するいわば「ビルト・イン・デストロイヤー」を本源的
に有していること、そしてどうやら男も女もその時点においてはそれをそれなりに楽
しんでいることは、現実として認めなければならないと思います。

そこにどう対処するかは十分にdebatableですが、根源的な暗さを認めることから始め
なければ空理空論の応酬になり、不毛な結論しか導き出されないでしょう。

ohnosakikoohnosakiko 2010/05/27 00:12 PNGさん
率直なご意見、ありがとうございます。
性の「根源的な暗さを認めること」には同意です。
本文最後にリンクした関連記事も、どうぞご覧頂ければと思います。

ラクラク 2010/05/28 21:12 ohnosakikoさんへ
>>そういう男女の非対称性が起こる理由について記事で書いているでしょ?

すいません、書かれていました。私の意見は思い込みの錯覚だったようです。
これは心理メカニズムの話だから、ohnosakikoさんの説の方が正しいでしょう。
男から見た女の性的魅力は女にとっては適応の問題なのでしょうね。
女にとって性的価値を評価されない(or軽視される)ということは、子供を残せないことや経済的資源を浮気相手に使われる可能性を秘めているからこそ重要視せざるをえないということかも知れません。
だけどこれだと、モノ扱いされるから〜という感覚はちょっと違うかな。

匿名匿名 2016/08/26 19:07 初めまして、偶然検索で訪れ読ませていただいた男です。

多くの男にとって「モノとして愛でることと、人間性を愛することの『両立』」は離れ業とみなされており、「女ってわかんねー」というセリフひとつでその場の男たちに連帯感が生まれるものですらあり、もはや「女のことをモノとして好きか人として好きかで悩むのは男としてのマナー」ぐらいの認識が、世間にはあるように思うのですが、私は男たちのそういった感覚にずっと疎外感を感じてきました。しかしそれを口に出せば、イヤミな奴にしかなりません。はぁ、モテる奴はいいですな、といったような次元の話に落とし込まれて終わり…。しかし女性の“性についての語り”の多くも、男の「それ」に反応したり反射したりしているにすぎないものが多いと感じます。男のは頭が悪すぎるし、女のは怒りが露すぎる。“性についての語り”には、ずっとそんな感じなもやがまとわり続けてるようで…。

セックスとは、この文章でまさに仰られている「モノとして愛でることと、人間性を愛することの『両立』」を、なぜか一瞬で実現することができる、たちどころにそれが成り立つものだという…ちなみに男女ともにです…性愛がもたらす当たり前の奇跡はみんな本当は知ってるはずで…つまり…「非対称」や「どっちもどっち」や、「人それぞれ」「深くて暗い河」なんかは、セックスという実行の中に解決し霧散している…その実感の多い男女は、議論する言葉を持つことはずっとないままなのかもしれないな…とも思います。とすると、性の渦中の人間はずっと言葉をもたず、ドーナツ状に議論が形成されるのを真ん中の穴から「ふーんそうなんだ〜」と見てるような…なんかそんな、穴からの報告でした…。

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