隠喩から換喩へ、そして‥‥(「文学2.0」読書メモ)

『日本2.0 思想地図β3vol.3』に掲載の「文学2.0 余が言文一致の未来」(市川真人)読了。メインの分析対象として取り上げられている国民的マンガ『ONE PIECE』を読んでいないばかりか、そもそも最近の小説や文芸批評にもほとんど目を通していない私のような者にもわかりやすく、かつ刺激的な論考だった。
主要テーマである「隠喩から換喩へ」は、個人的には既視感があったのだが、そのことで一層テキストが興味深く読めた。これについては後で述べたい。
15章46ページに渡る論考全体の論旨をまとめるのは私の手には余る*1 ので、「隠喩と換喩」を中心に述べられた10章あたりまでを、テキスト参照しつつざっと復習してみる。


1、『ONE PIECE』が少年ジャンプに掲載されたこの15年、20世紀末から21世紀初頭にかけては、「言説とその流通をめぐる環境」が急速に変化したが、明治の一時期にも似たような変化が起こっており、そこで社会的な役割を果たしたのが「国民文学」だった。近代のフォーマット(国民国家の概念、近代的主体など)はそうした言説の”鋳型”を通じて作り上げられた。
そこでの言説(紙の本)は、世界を一望の下に把握するという近代的な世界把握(と、その中に位置づけられる近代的主体)を前提とし、「意味の連鎖」や「因果の成立」を期待させる「線的に進行するテキスト」だった。近代的な世界把握において、対象や概念はこうした隠喩的方法、構造の中で理解される。それは譬えるものと譬えられるものの関係を「類似」によって構築することである。つまり近代とは「隠喩の時代」であった。


2、一方、現代のネット環境におけるハイパーリンクを構造的前提とした電子テキストでは、「線的な進行」や統一された全体(世界)のイメージを持ちようがない。「無数のリンク=隣接が連鎖する」それは、類似=隠喩的ではなく、隣接=換喩的である。
これは東浩紀が『動物化するポストモダン』で示した「データベース消費」のイメージに近いが、実際には私たちは「動物化」=人間性の無意味化に耐えられず、「反動的」に「意味」を希求する。言説環境がどのように変化しようと、言表行為とは私たち個々人の身体の反映であり、隠喩的なものたらざるを得ないからだ。


3、『ONE PIECE』は、近代的な物語を踏襲しつつも、「場面転換や視点転換の極端な多さ」によって、物語の因果関係を線的に追う従来の読み方を困難にしている。たとえば離れて並立する登場人物を「マルチウィンドウやブラウザのタブを切り換えるように描いて」おり、これは隔たった人物たちや事物を「叙述」の構造において物理的に隣接させる(コマの隣接)という換喩的方法である。だがそれによって物語の因果関係が断片化しつつも、「登場人物たちの繋がり」(「友情・努力・勝利」)は物理的隣接関係においてはむしろ強化されている。このマンガでしばしば「せりふ」が「名言」としてクローズアップされるのも、こうした構造ゆえである。
つまり基本的に「意味」(隠喩)を希求する主体である私たちは、換喩的方法による切断(隣接)によって現れた「意味の不在」そのものにも意味を見出そうとする。ここに、「換喩を隠喩的に理解/欲望」するというある種の倒錯が生まれている。


(論考全体が「非線型」的に作られているので、こうしてまとめてしまうと何か重要なものが抜け落ちた感じになってしまいます。できれば是非元テキストに当たられますよう)
この後、「意味が奪い去られ、それゆえに意味が欲望される」現代は、もっとも「詩」が生まれやすい時代であるとして、換喩的方法の可能性が示唆されている。近代的主体を手放せない(動物になりきれない)私たちにとって、現代の換喩的世界とはある意味では過酷な世界であり、だからこそその「形式」を「方法」として使うという戦略が登場すると理解した。
この「隠喩から換喩へ」というテーゼは、かつて浅田彰が『構造と力』でフランス現代思想ポスト構造主義)をいかがわしいくらいわかりやすく紹介した中の「パラノ(偏執症)からスキゾ(分裂症)へ」とどこか重なるものも感じさせつつ、「物語からデータベースへ」(東浩紀)から次に折り返した感もあって、文学だけでなく芸術思想全般のキー概念となる(既になっている?)のではないかと思う。
因に『世界が土曜の夜の夢なら ヤンキーと精神分析』で斎藤環がヤンキーの特質を「本質を欠いた換喩性」としていて、隠喩が神経症と対応しているとすると、換喩は乖離と対応しているのだろうか?などと思ったりもした。



さて最初に書いたように、「隠喩から換喩へ」という提示に、私は見覚えがある。これは80年代末に結成された「絶対演劇」(「モレキュラー」「クアトロガトス」「オストオルガン」という三つの劇団からなる)から発せられた演劇思想の中の重要なタームの一つだった。
「絶対演劇」は上演の内容ではなく形式そのものをきわめて意識的かつクールな手つきで取り扱い、それによってすべての演劇(ドラマ)らしい演劇を相対化するというか、一種の否定神学というか、素人目にはそこまで行ったら身も蓋もないじゃないかというか、ともかく抜きん出てコンセプチュアルで高度に批評的な活動を展開していた演劇運動(体)だった。
私がそれらに触れたのは90年代半ばとやや遅く、「オストオルガン」と「クアトロガトス」の上演をそれぞれ2回ほど見ただけ(「モレキュラー」はヴィデオのみ)だが、自分の見知っている演劇との落差(むしろ現代美術に近い)と、現代美術でもあまりお目にかかったことのないような”難解”で先鋭的な議論に驚いた覚えがある。と言っても、よくあるようなポストモダン現代思想風というのとも少し違った。
その演劇理論の徹底の結果としてのストイック過ぎる(ように見える)舞台は、既存の演劇界からはほとんど黙殺されていたのではないかと思うが、幾人かの哲学者や批評家には注目され多くのシンポジウムの記録や論考が残っている。*2
名古屋を拠点として活動していた「オストオルガン」の主宰者で演出家の海上宏美氏(現在は演出家廃業)から、私が最初に聞いた方法論についての言葉が、「隠喩(メタファ)ではなく換喩(メトニミー)だ」であった。以下、海上氏のテキストから引用。

 (1)
 絶対演劇は<演劇は演劇である>という同語反復を肯定する。そこには目新しさは何もない。ある演劇の同一性を前提に<演劇は演劇である>と言われる事態がある。絶対演劇はこの事態ではなく、<演劇は演劇である>という同語反復そのものに注目する。ここでは絶対演劇は同語 - 反復やその由来である断絶の絶対性に隣接する。<演劇は演劇である>という同語反復がある奇妙さをともなっているとすれば、それは演劇という意味の同一性が前提されているはずなのに、繰り返されることで前提が揺らいでいるからであろう。それは<演劇は演劇である>という同語反復が同一であるところの内容について何も言っていないことからきている。つまり同一性を前提にしている演劇が空洞化しているという事態を示している。そうした事態は空虚であるとされるが、絶対演劇はこれを顕在化させることはあっても、前景化することはない。
 さらに絶対演劇は同一性を前提にして<演劇は演劇である>といわれるその< >の中に演劇という語が2つあることに注目する。つまり<演劇は演劇である>という同語反復の肯定ばかりではなく、” 2 ” であることへと断絶=隣接する。同一性が垂直軸でのメタフォリカルな<意味>の問題系だとすれば、絶対演劇ではそれを水平軸のメトニミックな<距離><数>の問題系として明示する。絶対演劇は<演劇は演劇である>という同語反復を文字通り二度の演劇として了解する。[以下略]


「2つめの絶対演劇第2宣言 絶対演劇第1宣言から剥離された切片」より/小冊子『絶対演劇 What is Absolute Theater?』(編集/豊島重之(MOLECULAR)+海上宏美(OST-ORGAN)+清水唯史(CUATRO GATOS)、発行/絶対演劇フェスティバル実行委員会、1992)に掲載


これだけだとやや観念的でとっつきにくいので、次に同じ小冊子に収められている北山研二氏のテキストから。ここでは「絶対演劇」の換喩(隣接)の方法について、デュシャンのメモに残された「アンフラマンス」という概念が参照されている。

[前略] アンフラマンスとは、あるものとあるものとが分離するとき見いだされる。あるいは「(ひとが立ったばかりの)座席のぬくもりはアンフラマンスである」(視覚的・触覚的アンフラマンス)。ひとの現前と不在の一瞬の差はアンフラマンスなのである。すでに明らかだろうが、ここにエロティックなニュアンスを見て取ってもよい。エロティックな境位にこそアンフラマンスの分離が明確にはたらくからだ。いまさら言うまでもないが、デュシャンはエロティックな作品を作り続け、機会があるごとに、エロティスムこそ遍在し四次元の世界に通じるものだと繰り返した。デュシャンは言う。「タバコの煙がそれを吐き出す口と同じように匂うとき、二つの匂いはアンフラマンスによって結ばれる」(嗅覚的アンフラマンス)。ここでは「結ばれる」という用語を用いているが、それは「分離する」と同義である。アンフラマンスは分離と結合の境界のありようであり、分離と結合の蝶番をなしているのだから(「分離は雄と雌の意味をもつ」)。またそこには類似的なものにおける差異、アンフラマンスな差異の反復を見て取ってよい。「大量生産による[同じ鋳型から出た]二つの物体の(寸法上の)差は、最大限(?)の正確さが得られたときに、アンフラマンスとなる」ことが確認されるからだ。似ていなければ差異は生まれない。反復はアンフラマンスな差異によってはじめて成立するのである。似るだけが問題になるのは近代までの論理つまり隠喩による同定の論理である。それから逸脱するのは、換喩/隣接の論理なのである(ルーセル的創作手法がその一例である)。アンフラマンスによってデュシャンは非同定の世界に割り込む。[中略] 凝視するとき、アンフラマンスは逃れ去る。対象を認定する(あるいは認定できない対象を排除する)見ること・聞くことを土台にして契約的に築かれた近代的主体、統一的個体では、アンフラマンスはとらえられないのである。
[中略]
 一方(引用者注:「モレキュラー」)カフカルーセルのテクストへの擬態的参照を行い、他方(引用者注:「オストオルガン」)ミュラーのテクストの断片の不完全な多重音を並列させながらずらし反復強迫的に吐き出すが、一方は意味はとりあえず成立するそぶりを見せて切れ切れに散乱し、他方は意味が成立しそうなところで霧消する。[以下略]


「見える/見えない、アンフラマンス」より


もう一つ、山崎行太郎氏のテキストから。

[前略]
 「絶対演劇」について語るとき、まず注目しなければならないのは、彼らが自覚的に試みている「意味」や「象徴」に対する徹底的な切断と断絶の思考であろう。「意味という病」に逃げるのではなく、「意味という病」の拒否である。メタファー的思考からメトニミー的思考への転回といってもいいし、また「である思考」から「がある思考」への転回といってもいい。
 「絶対演劇」ではしばしば「隣接」という言葉が使われているが、「隣接」とは「相似性」と対比して、ヤコブソンが「失語症」の説明のために使った言葉である。「相似性」が意味(シニフィエ)の類似性によって二つの言語が結びつくのに対して、「隣接性」は意味的類似性や語型的類似性によらない言葉と言葉の結びつき方のことで、いわばまったく関連性のない二つの言葉が偶発的に隣り合うことである。つまり「相似性」が、既成の意味を前提しているのに対して「隣接性」は、「命懸けの飛躍」による意味の新たなる生成のプロセスを問題にしている。
 さて「絶対演劇」において「隣接」という言葉が多用されるのは、彼らが既成の「意味」ではなく、新たなる「意味」の生成のダイナミズムを問題にしているということを意味している。つまり「意味」の誕生以前の空白の一瞬を捉えようとしている演劇が「絶対演劇」であるように見える。[以下略] 


「絶対演劇、あるいは演劇の終焉から演劇のはじまりへ」より/小冊子『絶対演劇論』(編集/海上宏美+豊島重之+清水唯史+奈良隆一、発行/小松屋、1992)に掲載 


隣接、メトニミック、アンフラマンス、偶発的、新たな「意味」の生成‥‥と見てくると、この次に来る(というか、既にここにある)のは「文学2.0」で述べられているところの「言表が隠喩的な因果性を離れて換喩的な隣接=切断に出あう」瞬間に生まれる「詩」になるのではないかと思えてくる。        



「オストオルガン」においては、換喩(隣接)の方法は上演が隠喩的に回収されてしまうことの否定、拒否の方法として用いられていた。演劇(ドラマ)が極めて隠喩的解釈に依存しやすい表現であり、そこからの脱却しかもうやるべきことは残されていないという見切りがあったからではないかと思う。
私は当時美術作家活動をしていたので、「オストオルガン」及び「絶対演劇」周辺の言説を、自分の中で現代美術バージョンに翻訳して理解しようとした。少なくともそこでなされていることは、デュシャン以降の現代芸術の行き着く先の一つのかたちだということはなんとなくわかった。現代美術の中では、どうやって今までのものを相対化できるかという競争が延々繰り広げられてきたので、その最終決定版を演劇において行なっているのでは‥‥と考えれば一応納得はいく。

 
しかしその上演を見ているうち、市川真人氏が先の論考で述べたことと同じことに私は行き当たった。それは自分が、換喩的方法による切断(隣接)によって現れた「意味の不在」そのものにも意味を見出そうとしている、「換喩を隠喩的に理解/欲望」しているということだった。‥‥なんという近代的主体。
もちろんその時、こういう言葉で分析できたわけではない。「意味」や「隠喩」以前に私の中に湧き上がってきたのは平たく言えば、「ここまで論理的にリテラルに行われているだけの上演でも、見る側の何らかの趣味判断がそこに働き、それによっていろんな想念が起こってくるのをいったいどうしたらいいんだろう?」ということだった。
しかし海上氏は「観客」も「身体」も当然「趣味判断」も(問題として)扱わないと明言し、明言することで「切断」していたので、これは最初から解決するもしないもないこと、なのであった。今考えると、その時私の中に生じては消えていった想念は、ポエジーに近いものだったような気もする。



90年代後半はネットがかなり普及してゆき、換喩(隣接)的環境はリアルなものとなりつつあった。だが実際には、既に80年代の半ば頃には、因果関係のあやふやな、物事の根拠がぼやけた、中心がなくバラバラに拡散していくような現実感覚というものは、あった。その感覚は、当時、ポストもの派以降の現代美術の中から出てきた、空間全体を使った無中心的でカオティックなインスタレーション作品群の中に、素朴なかたちで先取りされて表されていたと思う。*3
最後に、90年代初めに名古屋で演劇、舞踏、身体表現、美術、映像、音楽などの分野にまたがって行われたプロジェクトの中の、あるシンポジウムでの海上宏美氏の発言を引用したい(相手は美術批評家の三頭谷鷹史氏)。ここに示されている「場所」に対する現実認識は、20年経った今、ますますリアルなものとなっているように思うからだ。

海上 分かりますよ。問題は、私たちは何かを蓄積できる場所にいるのかどうか、ですよ。たぶん蓄積のようなものはあるでしょうけれど、ぼくの方法論で言えば、一切蓄積しないということがどれだけできるのか、考えられる。私たち、あるいは私は、そうした経験を蓄積できるような場所を持っていない。持っているというのは、一種の信憑構造の中であって、だから、根拠として無理矢理見出そうとしたりする。それは少し違うんじゃないか。蓄積されるのは、日々の生活の悲惨さや苦しさであって、それはそれぞれの中に身体といってもいいけれど、屈折したかたちで溜っていく。それに対して、三頭谷さんがおっしゃったような質を本当に獲得して蓄積できるような場があるんですかね。つまり簡単に言えば、もう一度場所のことになってしまうんですが、場所がないとか希薄化したからといって、フィクションとしての場所を要請しては駄目だと思うんです。そういえば西洋美術の流れから分離して存在してきた生け花なるものがあったのではないか(引用者注:三頭谷氏は当時、現代生け花とアートを接続する展覧会を企画していた)、というふうに場所に戻ってはいけないと思う。それでもファイン・アートと生け花があるとすればファイン・アートと生け花の隣接面を具体的な物として、それこそを現実的な場所として思考することが必要だと思うんですね。


討議「伝統空間とロケーショニズム〜パフォーマンスの問題系をめぐって」(1992.12.6)より/小冊子『「場所の現在/現在の場所」プロジェクト 討議資料』(編集/海上宏美+浜島嘉幸+茂登山清文+古田一晴+清水唯史、発行/「場所の現在/現在の場所」プロジェクト、1994)に収録


日本2.0 思想地図β vol.3

日本2.0 思想地図β vol.3

*1:アマゾンのレビューのページに、「文学2.0」に特化した簡潔なまとめを含むレビューがある。

*2:書籍としては『メロドラマの逆襲 「私演劇」の80年代』(内野儀勁草書房、1996)、『学問と悲劇 「ニーチェ」から「絶対演劇」へ』(井澤賢隆、情況出版、1998)、『空間の祝杯 七つ寺共同スタジオとその同時代史』(七つ寺演劇情報センター、1998)など。前の二つは未読。三番目には「美術と演劇」という観点で拙文を寄稿。

*3:海上宏美氏および「絶対演劇」の議論に半ば触発されるかたちで、私も後に「換喩」的なものを他のアーティストの作品の中に見つけて内輪で作っていた同人誌に批評文を書いてみたり、方法として自分の制作に取り入れてみたりした(具体的には既成の作品をある法則に則って造形的に変換し別の「物語」に組み込むとか、複数のシークエンスを同一面上に展開するとかいったこと)。その後、紆余曲折を経て海上氏と同様、私も”廃業”した(このあたりのことはここここ拙書に書いている)。