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2013-05-24

『日本の男を喰い尽くすタガメ女の正体』を読んで

話題の新書。amazonでの評価は分かれている。「評価が高い有用性のあるレビュー」(星4つ)が内容を手際良くまとめてあるので、どんなことが書いてあるか知りたい人にはおすすめ。

日本の男を喰い尽くすタガメ女の正体 (講談社+α新書)

日本の男を喰い尽くすタガメ女の正体 (講談社+α新書)


筆者の主張を簡単に言えば、「高度経済成長期以降に増えてきた男性の自殺、離婚、DVネグレクト、晩婚化・非婚化の要因は、結婚が専業主婦やそれを志向する女性にとって、生存競争を生き抜くために「幸福の擬装工作」までして男性を”搾取”するシステムとなってしまっているからだ。物質的・経済的な条件に左右される「幸福の指標」は『箍』となって、男性だけでなく女性自身をも呪縛し、今日の日本社会の閉塞状況を引き起こしている。これは、戦後のアメリカ的価値観を無批判に受け入れ、それを「常識」としてきた結果招かれた『魂の植民地化』である」。


‥‥と、こういうふうにまとめると「ああねぇ‥‥」くらいの反応なのだろうが、搾取する「タガメ女」、搾取される「カエル男」というネーミングとその「生態」についての容赦ない筆致には、(何度か専業主婦を悪者にしているのではないとの断りがあっても)反発を感じる人はいるだろう。

ただ、内容的には今まであちこちで言われてきた現代の結婚論、専業主婦論などと重なるところが多い。2003年に出て話題となった小倉千加子の『結婚の条件』の前半部を、もっとエグい読み応えにした感じ。


エリートサラリーマンとの「安定」した結婚を望み、結婚したら郊外の一戸建てかマンションのローンを組んで夫を縛り付け、ママ友の間での見栄の張り合いとデパートのブランドショッピングに精を出し、自分が家事をいかに頑張ってるかをアピールし、イベントと「約束」とディズニーランドが大好きで、投資より定期貯金に励みスマホは苦手な「タガメ女」。

この類型化には、若干の古臭さを感じないでもない。しかし筆者自身が子育てしながら同じ立場の彼女たちを観察してきたという点では、学者の上から目線の分析と一線を画している。

「社会」や「男性」を槍玉に挙げれば普通のジェンダー本となってしまうので、あえて女性への辛辣な視点を全面に押し出し、結婚をめぐって従来のフェミニズム的認識とは逆さまの男女の支配関係(女>男)を戯画的に描いて、新書としての引きを狙ったものと思われる。ちょっと極端でベタすぎやしないかという点も含めて狙いのうちということだろうが、10年前に出ていたらもっと新鮮に読めたかもしれない。


因に「タガメ女度チェックシート」をやってみた結果は20%と一番低いレベルに入ったが、それはたまたま自分が10代に美術などを志向してそちらのマイナーな世界に何十年も浸かってしまい、結婚は非正規労働者同士で衝動的にしてしまい、子どもももたずにかなり気ままな生活をしてきてしまったからであって、少しルートを逸れていたら典型的な「タガメ女」になった可能性も否定できないと思った。



戦後のアメリカ的価値観の話は最後にちょっと出てくるだけで、大半が「タガメ女」とそれに支配される「カエル男」の生態分析に費やされているが、私はそれらよりも「おわりに」の一節、

 言うまでもありませんが、太平洋戦争終了後、日本の「民主主義」はアメリカによって刷り込まれてきました。これが「正義」だ、こうしていれば国民は幸せなはずだ[「はず」には強調点]、という価値観は彼らによって植えつけられたのです。言い換えると、日本はアメリカによって「箍」をはめられたわけです。

(p.181)

が、議論喚起的で印象に残った。同じことを石原慎太郎が言っても違和感ない内容だ。もっともここまでのところで、著者の深尾葉子が石原慎太郎とは別の方向を向いているであろうことは想像できるのだが。


戦後のアメリカで女性たちに幸せな結婚のイメージを植えつけたものとして、マラベル・モーガン著の『トータル・ウーマン』と、ホームコメディ『奥様は魔女』が挙げられている。いずれもアメリカでフェミニズムが台頭する前後(『トータル・ウーマン』は明確にアンチ・フェミの文脈らしい)に登場したものだ。

前者は読んでないが、『奥様は魔女』は子どもの頃テレビで見ていた記憶がある。著者はそれを、「夫をいい気分で、外で働かせていれば女は幸せであって、どんなに素晴らしい能力をもっていようが、分不相応なことをしてはいけないという、タガメ女への教訓が随所にちりばめられた「タガメ女エンターテインメント」」と表現している。

日本で「タガメ女」的生き方を奨励している人というと、話題性としては古いが細木数子あたりだろうか。


因に日本で専業主婦の割合がもっとも高かったのは70年代だが、「女性の幸せ」「幸せな結婚」のプロトタイプはアメリカでは50年代には既に完成していた。家電の揃った小綺麗な庭付きマイホームでエリートの夫を癒すべく良妻として振る舞い、社交と家事と子育てを優雅にこなす憧れの専業主婦が、女性のアメリカンドリームだった。

もちろんそこには歪さが内包されていた。たとえばその時代の女性を取り上げている映画『めぐりあう時間たち』と『エデンより彼方に』には、専業として夫に尽くす「理想」の妻の日常に亀裂が生じていく様が描かれている。*1

また『自己愛過剰社会』(ジーン・M・トゥエンギ、W・キース・キャンベル著、桃井緑美子訳、河出書房新社、2011)が分析する、自尊心の賞揚が過剰なナルシシズムの肯定に発展して生じたアメリカのさまざまな社会現象・・・美容整形の流行、SNSでの自己顕示、子どもにつける個性的な名前、モンスター・ペアレンツ、若い女性のセレブ志向など・・・は、日本の現在とダブって見える。


戦後、「正義」と「幸せのイメージ」は、アメリカからもたらされた。それは「箍」となって日本人の価値観を作り上げた。日本の「症状」を辿るとアメリカの「病理」に行き着く、ということだ。

筆者はそこからの脱却を促し、「ひとりひとりが自分の頭で考えて、自分の魂と向き合って正直に生きる」のが秘訣と説く。正論であろうが、正直なところあまりに優等生的な答えだと感じた。

そもそも集団の価値観に流されず個の自律性を重視する個人主義だって、日本ではアメリカ的な考え方として一般に広まったのではないだろうか。果たして、何の型にも「箍」にも嵌められることのないまっさらな「自分の魂」というものが、最初からあるのだろうか。人はこの家族、この社会、この国家という一つの「箍」の中に生まれ落ちてくるのであって、「自分の魂」とはある制約や縛りの中で、それに対する反応として”事後的に”立ち上がってくるものではないのだろうか。


筆者の言うように、「タガメ女」と「カエル男」が多数派だとしよう(自分がこの10年、大学のジェンダーの講義で見てきたささやかな範囲でもそれは感じる)。

そのボリュームゾーンに対し、「ひとりひとりが自分の頭で考えて‥‥」と小学校の先生みたいな説教を垂れても(深尾氏は大学の先生だが)、誰一人耳を貸さないのではないかと思う。みんな、「自分の頭で考えて正直に生きているつもりだ」と言うだろう。

いっそ、行くところまで行きついて何かが滅びるか底を打つかしなければ、「次」はないのではないか‥‥(私の思考はどうしても「今更引き返すのはもう無理じゃないかなー」的な方向に傾きがちである)。*2


「タガメ女」と一緒に買った同じ著者の『魂の脱植民地化とは何か』(青灯社、2012)をチラッと見ると、「魂」とは自己省察をそこに含んだ対象への知的探求の終わりなき運動といったもので、「魂の脱植民地化」とは、自己を安全地帯に置いた上で客観的知識だけを実在とする学問観への批判を旨とするようだ。

つまり「タガメ女」は、現在の学問やそれに準ずる専門領域の「堕落」ぶり=「魂の植民地化」を、結婚をめぐる男女の姿に置き換えて一般向けにわかりやすく論じたものということだろう。

『魂の脱植民地化とは何か』を読んでから、もう一度考えてみたい。

*1:子ども向けの本『百まいのきもの』(エリノア・エスティーズ著、ルイス・スロボドキン絵、石井桃子訳、岩波書店)では、ファッションの話で盛り上がる少女たちの中でおしゃれ自慢の女の子が頂点、いつも同じ洋服を着てくる貧しい女の子が底辺の、40年代のアメリカのスクールカーストがモチーフとなっている。同じようなことが自分の小学校時代にもあった。日本でもアメリカでもタガメ女は幼少のうちから作られるのだ。

*2:追記:「引き返す」だとこの場合戦中か戦前に戻ることになってしまうので、「考え方と振る舞いを刷新する」としておくべきだったかも。

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