千歳樓の思い出

少し前にブックマークした、中央線定光寺駅付近の写真。廃墟のたたずまいと周囲の自然の対比に目を引かれる。
【フォト】定光寺駅(駅☓断崖絶壁☓廃墟)-Sakak's Gadget Blog


廃墟は、元は「千歳樓」(「千歳楼」の表記もあり)という昭和3年創業の有名な老舗旅館である。このあたりは瀬戸もので有名な瀬戸の奥座敷に当たり、昔は接待などにも盛んに使われていた。名古屋の青果市場で働いている知人曰く、「千歳樓って言えば、ちょっとしたもんだったもんね。毎日すごく大きな保冷車で仕入れに来てたし」。ピークは90年代中頃で、年商10億近かったという。
2003年に6億の負債を抱えて倒産したが、その数年前にもう営業は停止していたようだ。庄内川に面した建物はそのまま廃墟となり、2011〜12年頃には、白骨死体のある心霊スポットとして話題になっている。
廃墟を見に行ったことはないのだが、昔の千歳樓に夫と一泊した時、奇妙な体験をしたことがあった。


宿泊したのは、92、3年頃。当時私たちは中央線沿線の高蔵寺ニュータウンに住み、名古屋方面に仕事に行っていた。結婚して5年目くらいで、私は今の1.5倍、夫は2倍くらい仕事が忙しかった。
定光寺駅は、高蔵寺駅からすると名古屋とは反対方向の次の駅だ。たまに酔って乗り過ごし、無人の淋しい定光寺駅で上りの電車を待ったことがある‥‥というくらいしか、接点のない場所だった。
ある時、夫が「千歳樓は有名な料理旅館だから、一回くらい行きたいなぁ。近いんだし、懐石料理食って酒飲んで泊まるだけでいいじゃないか。川が流れててきれいだぞ。俺が二人分の費用出すわ」と言い出し、私もそれじゃあという気になって、春休みに泊まりに行った。


館内は若干古めかしいが広々して、瀬戸の有名な作家ものの壁面レリーフや焼き物があり、さすがという風格が漂っていた。
お目当ての懐石料理もすばらしかった。ちょうどひな祭りの近い時期で、口取りにかわいらしいお内裏様があしらわれていたのを思い出す。仲居さんにチップをはずんでおいたので、サービスはすこぶる良かった。
私と夫は久しぶりの贅沢気分で料理と酒を堪能し、いつもより早い時間に寝てしまった。


その夜中。私は誰かが喋っている声で目を覚ました。
布団の敷かれた座敷と川に面した広縁の間は、障子が閉め切ってある。広縁には多くの旅館と同じように、二脚の一人掛けソファと小テーブルが置かれている。寝る前に私と夫はそこに向かい合って、追加した日本酒を楽しんだが、夫は飲み足りなかったのだろうか、また起き出してお酒を飲んでいるようだった。
しかし、こんな夜中に一体誰と喋っているのだろう。話し相手が欲しくて、仲居さんを呼んできたのか? まさか。


耳を澄ますと、夫が相手に話しかけているところだった。
「‥‥そうだな、うん。そうなんだよな。だけどなぁ、おまえも頑張ったじゃないか。な。まあ、そんでいいがや。そういうことなんだて。な‥‥」(名古屋弁
おまえ? 近くに住んでいる学生(夫は予備校講師)か元学生でも呼び出したんだろうかと思った。しかしこのあたりに民家なんかあったっけ。それに、私が寝ているのに宿泊している部屋に人を呼ぶなんて、ちょっとデリカシーなさ過ぎじゃないの。


そのうち、私はおかしなことに気づいた。相手が一言も喋らないのだ。ずっと、夫ばかりが喋っている。
学生を家に連れて来てお酒を飲んで、相手がもう半分眠っているのに、夫が喋り続けているというパターンもないではなかったけど‥‥。いやいや、学生の線はない。「おまえ」呼ばわりだから仲居さんでもない。だいたい真夜中だ。
じゃあ、誰に向かって喋っているの?
起きて、障子を開けてみれば済むことだった。それか、夫に声をかけてみる。でも、なんとなく躊躇われた。邪魔しない方がいいような気がした。
「‥‥‥まぁいろいろあったな。だけどおまえ、ようやったがや。いいがや、そんで。な‥‥」
夫の声はとても気持ち良さそうだった。それを聞いているうち、私はまた眠ってしまった。


翌朝、夫はスッキリした顔をしていた。私も何も尋ねなかった。それ以来20年、一度も尋ねていない。「あの時、誰と喋っていたの?」とは。
あとでしみじみ思ったのである。あの時、夫の前に誰かが座っていたのではない。夫は自分に向かって喋っていたのだと。


その当時、彼はかなりキツそうだった。結婚してから急に仕事が増えたと喜んだのも束の間、自分の能力の限界を超えそうなハードな仕事量と仕事内容に、毎日毎日攻め立てられていた。そういうことは家では口にはしないけれども、やっぱり伝わってくる。
それがやっと一段落ついた時、一回行ってみたかった老舗旅館で少しばかり贅沢をして、自分で自分を褒めたい気分になったんじゃないかと思う。
自分に「おまえ」と呼びかけて延々と喋り続けるなんて、普通に考えたらかなり気持ち悪い。でも相当お酒が入っていたんだから仕方ない。妻は酔っぱらってグーグー寝ちゃって相手してくれないし。


こういう場合、ほんとは誰かがやっぱりそこにいて、終始黙って夫の喋りを聞いていた(たとえば下の川から河童が上がってきて窓から覗いていたのを夫が招き入れたとか)ということになると、話としては俄然興味深くなってくるのだけど、私たちの現実はそこまで面白くはできていなかったようだ。
千歳樓に泊まったのはその一回きりである。