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2016-11-13

「嫌悪感の表明」と「相互理解」の間

最近話題になっていた、セクシュアルマイノリティへの施策をめぐる千葉市長の一連のTweet(わかりやすくするため番号を振った)

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昨夜は5のtweetにはてなブックマークがたくさんついていて、私も最初にそれを読んだ。現状認識はほぼ同意だが、最後の一文がセクシュアルマイノリティに向かって「嫌悪感の表明」をしても良いと言っているように受け取れたので、最初かなり批判的なブコメをつけた。

しかし、後でその前のtweetを読み、セクマイへの偏見や差別を払拭できない人々に対しどう説得的に対応するかで苦慮している風だったり、「行き過ぎたポリコレ」への不満を抱く人々の感情にも寄り添わねばと配慮している感じなど、あちこちに気を使ったあまり説明不足の表現になったみたいだと思い、少し穏健なブコメに書き換えた。6のtweetを読んだのは今朝。さすがに対応が早い(けど、両立しないことを両立させているように見えるので違和感は残る)。


3のtweetも、『セクマイの人々に対して「生理的にダメ」「気持ちが整理できない」というのは、多くの異性愛者にとってはごく普通のことで、それ自体は責められるべきことではない。セクマイの権利を守る施策に反対する人は、まずそういう感覚、感情が自分の中にあると認めよう。そこを無視して、「同性同士の結婚は子どもが作れないからダメ」「少子化を促進する」「家族の形が壊れてしまう」といった非論理的な批判をしても議論にならない』という意味だろう。

要は、「理屈が破綻している点で既にそれが感情的な問題に過ぎないことを示している」という指摘だ(それを柔らかめに、該当者の感情を慮りながら言っている)。*1


大体その通りだと思うが、一方で私は別のことも感じた。

もしセクマイの権利を守る施策に反対する人々が、自分の中の嫌悪感を自覚していて、その上で、というかだからこそ「嫌悪感の表明」をするのはマズいと思っていたらどうだろう。

(「気持ちが整理できない」はまだしも)「生理的にダメ」などと言っては直接セクマイの人々を逆撫でするだろうし、議論の俎上にも上げてもらえない。だからそこは隠して理屈で反対しよう、という”配慮”が彼らの中にあったとしたら? そういう人はいると思う。

そこに、「理屈が破綻している点で既にそれが感情的な問題に過ぎないことを示している」と冷静なツッコミを入れ、そのなけなしの”配慮”もなかったことにして「感情に素直に」に一気に行っちゃうというのは‥‥どうなんだろうか?というのが少しある。


人の感覚や感情は、理屈では制御できない。だが一方で人は社会的な動物である以上、建前というものを作る。表に出しづらい本音を建前で包んでコミュニケーションすることで、互いに不要にぶつかり合って疲弊しないように配慮する。

どうしても「嫌だ」ということを言いたい場合は、その感情が必然であり一定の人々が精神的損害を被るばかりではなく、社会的に悪影響を及ぼす可能性があることなど、きちんと理屈をつけて正当性を主張する。その理屈でより多くの人を、「なるほど確かにそうだ」「そうしたほうが社会的に利があるな」と思わせたほうが勝ち。

もっともすぐさま、「それだとこっちの立場はどうなる?」という文句や批判が来て議論が振り出しに‥‥という可能性はあるが、一応かたちとしては理屈で勝負ということになっている。その手続きを全部すっとばして、「とにかくお前らが気に入らないだけだ」と言ってしまったら終わりだ。あのトランプだって、傍から見れば「それ、個人的に気にいらないだけじゃないか?」と思えることにも、一応理屈はつけている。社会を作り変えていく政治、政策を前提にして考えれば、そう振る舞うしかない。


そこからすると、「下手な建前(理屈)は崩れてるんだから、本音(感情)出せば?」は真逆である。

もちろん千葉市長が、人々の嫌悪感情を頭ごなしに否定しない(それだと逆効果)という作戦を取っているのはわかる。が、普通なら、「人間は感情でできているが社会は理屈で作らねばならないので、セクマイの権利を守る施策に反対する人々は、単なる嫌悪感情ではなく、問題点について説得的な論理を展開してみせてほしい。政策はあくまで理屈で議論しよう」と言うところだ。

ヘイトスピーチをやんわり封じた上で、理屈勝負に持っていって勝つ。それを辛抱強く繰返して、徐々にコンセンサスを得ていく。


問題は、そういう「普通の正統派の言い方」ではもう先に進めない、感情的に反発する人々を包摂できない、むしろ「普通の正統派の言い方」をすればするほど壁に頭を打ちつける、だけでなく、事態を良くないほうに引っ張っていくことになりかねない‥‥ということなのだろう。

かといって、思い切った言い方をすれば、「逆張り」だとか「ガス抜き」だとか誹られる。いろいろ気を遣いどうとでも取れる言い方をすれば、いらん支持やいらん反発が来てしまう。

すべての言葉が何らかの政治に触れてしまう中で、いったいどういう言い方をすればいいのか。どうやったら、あっちとこっちを架け橋し「相互理解」を実現できるのか。‥‥って書いただけで、もはや使い古された「普通の正統派の言い方」感が漂ってくる。誰でもジジェクみたいに語れるわけではないし。

こういう危機感とそれに伴ううっすらとした絶望感は、為政者のみならず、何かものを言わねばと思っている人々の中に広く潜在しているのではないかと思う。

*1:付け加えれば、こうした「嫌悪感」を一律に理屈で教化することは無理であり、個人が出会い個人として知り合う中でしか解消されていかない面はある。映画『メゾン・ド・ヒミコ』はそのあたりの、マジョリティの感情の揺れ動きや変化をよく描いている。講義で使っているが、このような物語を通して、固定的イメージが変化し偏見が和らぎ感情に影響を及ぼす可能性はあると思っている。

2016-04-11

「愛の言葉」とコミュニケーション強制ギブス

「社会に通用する奴」は多様化しなかった - シロクマの屑籠

ポスト工業化社会の労働者の人間疎外とは、生産ライン上で同じ肉体労働を繰り返すタイプではなく、コミュニケーションを強いるタイプになるのだろう。いや、もう既にそうなっているか。


この最後の下りを読んで思い出したのは、以前働いていたデザイン専門学校でのこと。

年度始めの講師オリエンテーションで、ある時こういうお達しがあった。

「企業は仕事ができるできない以前に、礼儀をわきまえたコミュニケーションの取れる人材を求めている。まずは挨拶から。講師の皆さんは、積極的に生徒に声をかけるようにして下さい。講師同士でも挨拶よろしくお願いします」。


挨拶か‥‥。小・中学校の頃、憧れの男子に挨拶をできるかできないかみたいことで悩んでいたのが蘇った。

ある朝、廊下で出会った時に、思い切って「おはよう」と言ってみる。向こうは知らん顔。一週間くらい落ち込むが、「もしかして聞こえてなかったのかも」と思い直し、また言ってみる。

すると、爽やかな笑顔と共に「おはよう」が返ってきたー! 天にも昇る心持ち。もう「好きだ」と言われたくらいの舞い上がり様。

私にとって挨拶は一時的に、「愛の言葉」となった。


しかし大人になっても基本的には、挨拶が苦手だった。よく知っている人なら声をかけられるが、顔見知り程度だとなんだか気後れしてしまう。迷っているうちに距離はどんどん縮まっていって、何となく向こうも視線を外しているようなので、「‥‥ま、いいか」と思い黙って通り過ぎる。

まして知らない人だと、学校内でも挨拶しづらかった。黙礼をするかしないかみたいな、曖昧な感じでやりすごす。

通り過ぎようとした時に、向こうから「おはようございます」と言われることもある。慌てふためいて「お、おはようございます」と返す。しまった、知らんふりしてないでこちらからしなきゃだった。


自分が教える側になっても、まだ学生と打ち解けない当初は、挨拶がしにくかった。

学生のほうも、4、5人の集団でいれば誰かが気づいて言葉を交わすことになるが、1対1だと恥ずかしいのか緊張するのか、こちらに気づかないふりの学生は時々いる。私のほうも「今、話しかけられたくないんだろな」と妙に気を回し、そのまま通り過ぎる。


しかし、知ってようが知っていまいが、学校内で出会う人間には必ず挨拶せよ、ということになった。

それを徹底させるためか、ある時、朝から校舎の前に教務の職員の人が立つようになった。登校してくる学生たちに、逐一「おはようございます!」と声をかけている。

これは、よほどのことがないと無視できない。デザイン専門学校にはひたすらマンガを描くのが生き甲斐で、ほとんど声を聞かないような子もいるが、そんな学生も「‥‥‥ざいあす‥‥」くらいの小さな声と軽い礼で返すようになる。挨拶強制ギブス

一限目の始まるまでの30分あまり、若い職員の人による、まるで選挙の立候補者のような挨拶連呼が、2ヶ月くらい続いていた。

「おはようございます!」「おはようございます。毎朝大変ですね」。思わずねぎらってしまった。



小津安二郎作品『お早よう』(1959)の中で、無駄口の多いのを叱られた子どもが、「大人だって余計なことを言ってるじゃないか。『こんにちは』、『おはよう』、『こんばんは』、『いいお天気ですね』‥‥」と憎まれ口を叩く。

挨拶の文言自体に意味があるのではなく、挨拶を交わすという行為に意味が付与されるということが、子どもには理解できない。


何らかの関係性が生まれたから挨拶をするのではない。むしろ挨拶をしたから関係性が生じるのだ。挨拶を交わすとは、「敵」でないのはもちろん、完全な「部外者」や「傍観者」や「批判的な第三者」でないことの相互申告だ。

人間関係の構築(もしくは「愛の始まり」)が、有意味なメッセージなどではなく無内容な挨拶から始まるところに、コミュニケーションの神髄が宿る。小津はそのことを、高度経済成長が始まろうとする時期の日本の郊外を舞台に美しく描き出した。


しかしそれは裏返せば、学校でも職場でも地域でも社会の共同体において、「敵」や「部外者」や「傍観者」や「批判的な第三者」の可能性をあらかじめ排除しておくための、「コミュニケーションの強制」として挨拶が交わされる、ということでもある。実際、そうなっている。

結果、すべての振る舞いは、共同体内における効率性と生産性のもとに画一化されていく。

挨拶と笑顔とコミュニケーションと人間関係は、相互の繋がりを持たずバラバラになる。

そして「愛」の生まれる隙間は埋められる。

2014-03-11

インベカヲリ★さんとの対談がWEBスナイパーに掲載されました

写真集『やっぱ月帰るわ、私。』(赤々舎)発売記念 インベカヲリ★×大野左紀子 特別対談!! - WEBスナイパー


12月に行われた写真家・インベカヲリ★さんとの対談が、ようやく記事になりました。

内容は、昨年出たデビュー写真集『やっぱ月帰るわ、私。』(拙ブログでのレビューはこちら)についての私からのインタビューを皮切りに、女性の表現衝動や欲望について、ジブリ映画と竹取物語、女子校文化、女性アーティストをとりまく環境、生き方のロールモデルの不在など。

2時間以上に渡る対談内容のほとんどが掲載されています。これまで対談や座談会原稿の校正は幾つもしましたが、今回は自分の発言の手直しを最低限に止めましたので、会話の息づかいがかなり残った感じになっています。


写真も多数載っています。冒頭はインベさんと私。”上京して大学に通う娘、訪ねてきた母親”という感じのツーショットです(記事の一番最後のプロフィールを見て頂ければわかる通り、21歳の開きがあるのです‥‥oh)。

それからインベさんの作品写真が14枚。最初の方は私がセレクトしたものです。作品の方法論を知った上で改めて見ると、また味わいが違います。

そして、ちょっと恥ずかしいですが私の作品写真も2枚掲載されています。アーティストを廃業してから過去の作品写真を自分で公にするのは、たぶんこれが最初で最後です。


インベさんとは初対面でしたが、互いに緊張しつつも、非常に楽しくお話させて頂きました。

ありきたりの言葉で捉えられないユニークなインベカヲリ★の世界。それだけに、既成のフェミニズムやジェンダー論のわかりやすいところに落とし込んではいけないと思いつつ、うろうろと言葉を探しながらの発話でした。今年の木村伊兵衛賞の候補にノミネートされながら惜しくも授賞を逃したインベさんですが、その作品と率直な言葉の端々から私は多くの刺激を受けました。

どうぞじっくりお読み下さいませ。



やっは?月帰るわ、私。

やっは?月帰るわ、私。

2013-11-14

「お世話になっております」の世界

仕事のメールの冒頭に必ず「お世話になっております」とつけるのは、何故なんだろう。

世事に疎い私だが、最初にそのメールをもらったのは、非常勤で行っている私立学校の教務からの事務連絡だった。こちらはその学校に講師として雇われている、つまり「どちらかというと、こちらがお世話になっている」という感覚があったので、少し戸惑った。

たとえば生徒の親が講師に「お世話になっております」と言うことはあっても、学校側が講師にそれを言うのは変じゃないか? 私は労働力を提供して報酬を貰っているのであって、別に学校を「お世話」したことはないわけだし。


そう思っていたところ、別の勤務先の常勤講師の人から電話があった。その人も冒頭で「いつもお世話になっております。◯◯校の△△です」と言った。私は急いで「こちらこそお世話になっております」と返した。

常勤講師は組織に属する人だから、この場合は学校を代表して喋っているのだろう。つまり仕事を依頼する方も引き受ける方も、互いに「お世話になっております」を使っていることになる。

そう言えば、編集者からのメールの冒頭も大抵「お世話になっております」だった。これも当初、「私、何もお世話してないけど‥‥」といぶかしく思ったが、要は「一緒に仕事をしている間、利害関係がある間の儀礼的挨拶」ということなのだなと、やがてわかった。


一般的なビジネスメールでは、ごく当たり前の挨拶、マナーとなっているらしい「お世話になっております」。調べてみたら、取引先など企業間のみならず、企業が顧客に対して使うことも、その逆もある。

ここで例に出されていたのは、設計士と家主の場合。設計士は「仕事のご依頼(ご愛顧)ありがとうございます」の気持ちを、家主は「よろしくお願い致します」あるいは「良いお仕事、ありがとうございます」の気持ちを込めて、互いに「お世話になっております」と言う。それは不自然ではないと。

労働力やサービスを提供する側/対価を支払う側。雇われる非常勤講師/雇う学校の関係と同じなのに、たしかにこちらには違和感がない。設計士と家主は、互いの条件が合わなければ他の相手を捜せばいいという関係だ。どちらがどちらに強く依存しているということはなく、対等な立場で契約している場合、相互の「お世話になっております」は挨拶としてまあ普通に思える。

非常勤講師と学校の関係は、そうではない。非常勤の代わりはいくらでもおり雇い止めもできるが、突然解雇された側が次の仕事を探すのは至難の業。だからクビになったら困るなぁとビクビクしながら働いている私は、「もう少し給料上げてクダサイ」「コマが欲しいです」と言う勇気もなく、卑屈に「お世話になっております」という態度になりがちで、学校側から「お世話になっております」と言われたりすると軽くビビり、次にその言葉の形式的な空虚さから来る慇懃無礼さにひんやりした気持ちになるのである。


話が逸れた。

「世話」には、「面倒をみること。尽力すること」「間に立って斡旋(あっせん)すること。取り持つこと」「手数がかかってやっかいであること。面倒であること」といった意味がある。「世話をする側」がいて、「世話になる側」がいる。その関係はどこまでも非対称だ。だから「お世話になりっぱなしで申し訳ない」「お世話になった御礼をしたい」という言い方が出てくるのだ。

つまり「お世話をする/お世話になる」とは本来、最初に何らかの契約を交わして行われる対等のビジネスではなく、一方から一方へ、善意の贈り物というかたちを取って行われるものである。

だが、お世話された側がその贈り物(善意)を貰ったままでは、非対称の関係が固定されてしまうので、何らかの返礼をしようとする。物や金銭や行為や、それも無理ならせめて言葉で。


そういうことが積み重なっていった結果、最初から暗に返礼織り込み済みの「お世話」も多くなっているだろう。だがここで重要なのは、あらかじめビジネス契約があっては「お世話」の意味は成立しないということだ。

最初にあるのは、「お世話する/される」という非対称な関係である。次に、それを対称に戻そうという運動が「された」側から起こる。そして時に、対称になる以上のお返しをする。だってまた「お世話」になることがあるかもしれないから。

人間関係には、この「非対称な関係から対称な関係への運動」が常に働いている。いや、対称な関係で終わるとそこで止まってしまうので、「非対称な関係を覆そうとする逆の非対称関係への運動」と言うべきか。

こうした対人関係における運動を圧縮して制度化したのが、契約だ。それで、何らかの契約を交わした仕事関係において、「お世話になっております」が相互の儀礼的挨拶として定着した。そう考えると、一応納得はいく。



一方が使っても、もう一方は使わない場合もある。例えば医療や教育の場。そこで「お世話になっております」は、医師や教師に向けて、患者(の家族)や生徒(の親)からのみ発せられる。逆はない。労働力やサービスを提供する側/対価を支払う側という点では、設計士と家主の関係と同じなのに、なぜ?

おそらく一番大きいのは、医師や教師の仕事の対象が「物」ではなく「人」であるという点にある。

一番最初の医療、一番最初の教育というものは、家族という親密圏で行われる。子どもが擦り傷を作ったら消毒してバンドエイドを貼ってやるのは親。子どもに最初に言葉を教えるのも親。「お世話する/される」関係は非対称だ。

親がいなかったら、親に当たる人がそれをする。傷の手当や言葉の教育を先延ばしすることはできないから、お返しが来るかどうかわからなくても、誰かが「お世話」をしなければならない。

それは一種の贈り物である。あれは贈り物だったのだと受取った人が気づいた時に、何らかのかたちで返礼がなされる。ただ、贈り物をした当人に宛ててとは限らない。誰かの傷の手当を率先して行うことで、それは間接的に返礼となる。そこで口には出さないが現れるのは、「自分も誰かのお世話になったから」という思いだろう。「お世話になっております」時期は過ぎ去ってしまったので、過去形だ。


‥‥と回り道をしたが、病院と学校は家庭に代わって、人を預かり「お世話」する場所である。対価を貰うのだからそれは純然たる贈り物とは言えない。返礼織り込み済みの「お世話」である。しかし、「する/される」という物理的に非対称な関係は、そのまま残っている。それで預ける側も自然と「お世話になっております」という言葉が出る(「ヤブ医者め」「バカだこの教師」と思えばもちろん言わない)。

これに対する正しい返答は、「当然のことです。お預かりした以上、責任持ってお世話させて頂いております」であろう。もっとも実際はそんなことは言わず、「いえいえ‥‥」とか何とか口の中でモゴモゴして誤摩化すことが多いと思う。きっと皆、心の中で言っているのだ。


もう一つ、医師や教師が「お世話になっております」を言えない理由がある。

設計士にしても一般の商店主にしても企業にしても、顧客や取引先への「お世話になっております」は「毎度ご愛顧ありがとうございます」といった程度の意味だ。そこには時に「今後も末永くよろしくね」という意味も含まれる。

これを医師が患者に言ったらまずい。医師や病院としてはお客さんに来てほしいのはやまやまだが、それが「毎度」だったり「末長く」なったりするのは、患者本人にとっては不幸なことだから、あからさまに望んではいけない。

学校や教師も同じだ。いくら教えても成果が出ず落第に次ぐ落第の学生がたくさんいたら、その分たくさん授業料が入ってくるから助かる、なんてことは職業倫理的には口にできない。しっかり勉強してとっとと卒業していって下さい(でもたまに思い出してくれると嬉しいな)くらいのことしか言えない。


ビジネスマナーになっている慣用句の「お世話になっております」は、コミュニケーションの潤滑油である。そういうものも世の中に必要なのだろう。互いに「お世話になって」いるwin-winの関係。でも「お世話」の本来の意味はそこにはない。

非対称性の中で使われる「お世話になっております」においてのみ、いつまでもこの状態ではいけないという思いと、「非対称な関係を覆そうとする逆の非対称関係への運動」が生まれるのである。その運動だけが、人間関係を作っていく。




●追記

ほぼ日刊イトイ新聞 - オトナ語の謎より。

お世話になっております

(提供者:多数)

■オトナ語の基本中の基本。

 オトナの世界はまずこのひと言から始まる。

 わざわざ書くのがバカバカしいほど基本的なことだが、

 ほんとうにお世話になっているかどうかは

 まったく関係がない。

 とにかく、「お世話になっております」!

 開口一番、「お世話になっております」!

 むしろオレがおまえをお世話してるんだよと思いつつも

 「お世話になっております」!

 あなたと私は絶対に初対面であるけれども

 「お世話になっております」!

 たとえ、先方の電話に出たのがベッカムだとしても

 「お世話になっております」!

 たとえ、メールを送る相手がローマ法王だったとしても

 「お世話になっております」!


ちょっと笑った。

2010-12-27

ファリックマザーとかナチュラルメイクとか

読んでる人は読んでるが、読んでない人は全然読んでない(当たり前か)拙ブログのコメント欄。

この10日ほど同じ名前の書き込みが連続している場面を見て引いていた人もいるかもですが、ざっくり言うと脂さんという人による「ohnosakikoという症状」分析です。面白いのでよかったら読んでみて下さい。長いけど最初から順にいくのがおすすめ(専門用語がイミフでも斜め読みで)。

全部繋がっていますが3つの記事に渡っているので、下にざっと各コメント欄の概要を。


1. ここから。脂さん殴り込み(初めのうちは「最近」さん。「細菌」の誤変換だったらしい)。フェティシズムの話から始まり、脂さんによる私の分析が中心。脂さんによれば私は「親という症状」、「正常という精神疾患」、「絶対的加害者」(「普通」という言葉について)、「ヒステリーより自罰パラノイアがはまり役」、(言動が)「ダブルバインド」。だいたい当たっている。私がヒステリー者だというのは後で脂さんも書いている。

後半は脂さんの自己分析も。精神分析、メンヘラなどに興味のある人読むといいです。


2. 続き。「あなたの文章は相手をヒステリー化させているのではなく強迫症化させる作用があるのでは」「気づかれない程度にうっすらしているナチュラルメイクのせい」という脂さんの指摘。

自分の来歴周りの話とか、私の文章に対する女性の嫌反応とか、「日本のフェミは糞」とか、「欲望病」とか。後半、「圧倒的で過剰な世界」についての脂さんの説明が素晴らしい(というのを後で読み返して思った)。でも私の反応が悪いのでキレられた(笑)。


3. その続き。「あなたの文章はつっこみどころ満載の遊園地」という脂さんの指摘から始まる。font-daさんのハイクへの応答記事だったので、途中から脂さんがfont-daさん分析を始め御本人降臨。その前後からぽつぽつといろんな人が出入りし始める。相変わらず脂さんのコメントが「精神分析はこう使える」の見本のようだ。

後は一連の「セクハラ」騒動を含め、「取り巻き(批判者含む)」と私の関係についての脂さんの意見。数人が俎上に。elveさんとのやりとりも面白い。


▶合わせて読みたい

脂さんのアブラブログ(因に「砒素ババア」は私のこと)。



昨日の脂さんと私とのやりとりを部分的に抜き出してみる。ここから。

大野センセ自覚ないだろうがさ、zさんが言っている「自分の幻想を支えるコードに認証印を押してくれる母親」って、結構あなたの「代用品」として多く幻想されていると思う。

「なんかどっかのえらい大学のセンセ」だけじゃない。

あんた自分で言ってたじゃん、ファリックマザーて。

ファリックマザーはファルスつまりS1ではない。「軸」が「構造」を「保証」するのではなく、「軸」ではない何かが「コード」を「認証」する(ああ単語の使い方正確だなこれ)。

そのクサバヤシさんやzさんなんかは、ファリックマザーに近い「代用品」であなたを見てる気がする。


メタメッセージてすごいな。

わたしゃファリックマザーをテリブルマザーにひきさげようとしている。で大野センセもちらっとこっち向いてたりする。

子供は気が気じゃないだろうな。

少し間を飛ばす(「えらい大学のセンセ」はないわ。地方の三流私立芸大の非常勤だつってるのに)。

大野

>大野センセ自覚ないだろうがさ、zさんが言っている「自分の幻想を支えるコードに認証印を押してくれる母親」って、結構あなたの「代用品」として多く幻想されていると思う。


そうなのかェ? 

ああ、そういやだいぶ前、草の人にそれを指摘されたことあるわ。私に絡んでくる奴はママに甘えてるだけとか何とか。

でもクサバヤシ自身もそうなのかw

って、それも別の誰かがだいぶ前にブコメで指摘してたわそう言えば!


テリブルマザーの方がカッコいいな。←ミーハー

ロジャー・コーマンの『血まみれギャングママ』みたいだな。でもあれは息子を溺愛しとったか。ジョン・ウォーターズの『シリアル・ママ』みたいなんかな。

いや。たぶんもっとヤバいものだ。

わくわくしてきたw

↑なんか馬鹿丸出し。恥(実は既に酔っぱらってた)。また飛ばす。

今回の件があるからこそファリックマザーだと思ってたんだがな。今回の件はファリックマザーがただのファロセントリストになってしまうことからの防衛。

わたしは「欲望を表明すること」についてはなんも言ってない。逆にあんたや取り巻きに反対されるかもしれないが、青少年健全育成条例改正案には、「どっちでもいいけどんなことどーだあーだやっても人間欲望がなけりゃ健全なコミュニケーションは成立しないんだから意味ないだろ」って意味で反対だ。施行されても誰かの潔癖症的な欲望にしかならん、と。

http://kabashira.com/blog/?p=537


いやまあ解離症状のおかげでただのファロセントリストにはならなかったのかもしれないな。

自我が肥大しなかった。

あんた自我に対し他人事なところあるもんな。

自閉症にもいろいろいるが、わたしがする「心の中をナイフで抉る」ことにそれこそあんたのように「ふんふん」と聞いてくる奴がいた。こういうのも「自我の解離」だろうな。

だからファリックマザーのままでいられた、のか。

今回のは「いや私はファリックマザーですが何か?」の表明だろむしろ。

この間にhatesenIDさんとかelveさんとか乱入。(面白いけど)大幅に飛ばす。

大野

ごめんねー、今日もしこたま飲んじゃってっからもうグダグダなんです。けど少しレスしとこ。


脂さん

>今回の件はファリックマザーがただのファロセントリストになってしまうことからの防衛。

>今回のは「いや私はファリックマザーですが何か?」の表明だろむしろ。


そのとーり。なんでわかるの。ってダダ漏れか。

で、私を見る視線は「一人一人違う」ってのはそうだろうとは思う。その中に、ある集団が見出せるというか、こちらから見ると彼ら/彼女らがある価値観を共有しているように見える、それが私には多様性を前提とした毒にも薬にもならないリベラル・フェミに回収されるように見える。そこから発せられる「僕は」「私は」が厭だ。これは半分自分が厭だに等しい。



私はたまに思い出したように「性教育大事です(キリッ」みたいな記事を書く。つまらない。つまらないのを半分惰性で書いているから後で自己嫌悪になる。そういうある程度支持されそうな「ナチュラルメイク」な記事をアリバイみたいに書いているうちは、まだまだだなおまえ。

という声が自分の中で沸々と。

おばさんのフェティシズムはそんな中でポコッと出てきた、所謂脇の甘い文章だった。そしていろんな意味で既視感溢れる"揉め事"の様相を呈した。


‥‥ということも、もはやだんだんどうでもよくなりつつあって。

私の「ナチュラルメイク」は少し剥げたが、テリブルマザーまではまだかなり距離がある。