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2017-02-11

戸川純の新曲に見え隠れする「天皇」のイメージ

わたしが鳴こうホトトギス

わたしが鳴こうホトトギス


去年発表された戸川純の35周年記念アルバムを、ずっと聴いている。ネット上のインタビュー記事もいくつか読んだ。

アルバムタイトルにもなっている新曲の歌詞は、今回アレンジと演奏を務めるVampilliaの真部脩一が大筋を書いた後、戸川純の要望を加えて完成したとのこと。「わたしが鳴こうホトトギス」というフレーズは、戦国の三英傑それぞれの気性を表した例の有名な川柳から、戸川純が思いついたものらしい。


「鳴いて血を吐くホトトギス」ではないが、いつまでも歌い続けるという彼女の強い意思を表しているこの歌、メロディラインは雅楽のムードの混じったゆったりした唱歌風で、歌詞の表記は旧仮名遣い、言葉遣いは文語調。中国の故事や日本の古典、ことわざがあちこちに。

『改造への躍動』や『極東慰安唱歌』や『昭和享年』(カバー曲集)など、これまでも懐古調なアルバムはあったが、近代を飛び越えてものすごく過去に遡っている。

そしてこれは私だけかもしれないが、聴いているとなぜか「天皇」のイメージがうっすら浮上してくる。今上天皇その人ではなく、天皇や天皇制にまつわる古典的、神話的なイメージが。


そこで、歌詞の意味やそこからの連想を、一行づつ書き出してみることにした。

以下の番号は、歌詞の行と対応している。「わたしが鳴こうホトトギス 歌詞」で検索して全文をご覧下さい。


1. 「春はあけぼの」で始まる清少納言の『枕草子』。

2.3. ホトトギスの鳴き声のオノマトペ。「籠の内に有て天辺かけたかと名のる声の殊に高く〜」(『古今要覧稿』http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/897551/220)。ホトトギスは中国の伝説に因んで「不如帰(去)」(「帰りたい」の意)とも表記し、『万葉集』『古今和歌集』『新古今和歌集』に頻出する。つまり古くから天皇とも縁が深い鳥。

4. 『君が代』を連想する。

5. 昭和天皇の「人間宣言」を連想する。

6. ホトトギスと姿がよく間違えられるカッコウの鳴き声。

7. ホトトギスが托卵するウグイスの鳴き声。

8. 『南総里見八犬伝』に登場する妖刀「村雨」を形容した言葉。そこから、研ぎすまされた日本刀の冷たく不気味に光るさまを言う。

9. この歌のタイトル。

10. 「門前の小僧習わぬ経を読む」から骨格を借りている。

11. カッコウの鳴き声。

12. 天気雨のこと。

13. 皇極天皇が雨乞いをして雨を降らせたという『日本書紀』の挿話を想起させる。

14. 「さあ鳴くのを待って下さい」の文語調の言い回し。

15. カッコウの鳴き声。

16. スズメ、ヒヨコ、トンビの鳴き声。

17. 「雉も鳴かずば撃たれまい」を逆の意味に改変している。

18.16と同じ。

19〜22. 自然情景描写。神話的イメージ。

23.24. 歌舞伎『楼門五三桐』の南禅寺山門の場で、石川五右衛門が満開の桜を愛でて言う台詞(実際は「絶景かな絶景かな」)

25. 「あっそうか」と歌っている。昭和天皇の口癖と言われた「あっそう」を思い出した。


まだ続くがこのへんで。

この後、先の石川五右衛門の台詞の後の「値万両、万々両」を改変した文言や、故事成語や、中国四大名著の一つや、菅原道真の有名な歌の冒頭などが出てくる。


最初の方で「天皇」のイメージが浮上したので、全部がそれに影響されて聴こえた嫌いはある。

「テッペンカケタカ=天辺欠けたか」とすると、これは天皇の逝去を意味しているのかと思ったり。じゃあ托卵は、かつての皇族にあった乳母制度を指しているのかとか。ホトトギス、カッコウ、ウグイスの並びが「偽り」「間違い」のメタファーなら、それは何を指すのか。「雉も〜」の意味を逆転させているところは、もう皇室タブーはなくなったという意味か‥‥‥。

いやいや、完全に深読みし過ぎです。でも作り手の意図とは別にリスナーが何を受け取るかは自由だし、ここまでではなくても同じようなことを感じている人がいるかもしれないので書いてみた。


私がこの歌にぼんやりと思い浮かべた、「雅」でどこかもの悲しい「天皇」のイメージから、単純な日本讃歌や右翼的な文脈を読み取ることは難しい。

だって並んで出てくるのが、平安文学や、中国の古い言い伝えや、閑古鳥の寂しい声や、架空の刀(の形容)や、天下を狙う大盗賊の台詞だ。あえて言うなら、古い文化としての、ノスタルジーの中の「天皇」になるのかもしれない。


戸川純は女優でもあるので、その歌唱も、歌われている主人公の女になりきって演じられる。彼女のプレイは、歌であると同時に芝居である。

そこからすると、この歌での彼女は、古の昔から時代を超えていつまでも歌い続ける歌姫だ。故事成語も古めかしい文言もそのための演出、あるいは雰囲気作りなのだろう。「古文やってみました」的な。

現れるイメージは、積み重なるにつれて何か繋がりがありそうに見えて、はっきりと像を結ばないうちに「日本」「古典」の雰囲気だけ残して消えていく。


ところで、もともとあったファッションとしてのレトロ趣味が、近年「ニッポン万歳」的なメッセージになっているということで注目されていたのは、椎名林檎だった。自民党の「文化伝統調査会」に呼ばれたりもしている。ネタでやってたことがベタになっちゃってる感が、ちょっとある。

戸川純はどうだろうか。戸川純と国威発揚。これほどのミスマッチもない気がするが、伝統文化や歴史、和ものへの関心が一昔前より高まっている中、この歌でその趣向を前面化させているところは、無意識のうちに今の空気をキャッチしているようにも思える。



アルバム全体の感想など。

好きな曲がいくつも入っていて(個人的には『ヒステリヤ』と『ギルガメッシュ』も入れて欲しかったが)、新しいアレンジも、少し野太くなった彼女の声もカッコいい。『バーバラ・セクサロイド』は今の声と歌い方のほうが凄みがある。『蛹化の女』のノイジーなリズムパートには痺れた。

本人の幼少時代の写真が散りばめられていて、世代が同じなだけに不思議な既視感を覚えた。わりと似た系列の顔かなとは思っていたが、ジャケットの写真や『赤い戦車』の歌詞の隣の写真が、自分の子どもの頃と激似で驚いた。


『パンク蛹化の女』、YouTubeに上がっている中では、このステージのドスの効いた声が好き。「林で〜」の時の目がいい。女優だなぁと思う(でも後半はスタミナ切れしてますね)。

D


『赤い戦車』。Yapoosのシンプルな音も捨て難い。新アルバムでもこの淡々とした歌い方は変えてなかった。

D


この曲が含まれた「犯罪と女」がテーマ(たぶん)のアルバム『ダイヤルYを廻せ!』は、何十回聴いただろう。今はYouTubeに丸ごと上がっている。

2015-05-17

44年目の『鳥の歌』

クラシック音楽の愛好家だった生前の父は、若い頃にバイオリンを齧っていたが、それより好きな楽器はどうやらチェロであったらしい。女の子が生まれたらピアノ、男の子が生まれたらチェロを習わせたかったと(私が女の子だったのでピアノになった)。

もちろん父の一番好きな演奏家は、パブロ・カザルスだった。1971年10月24日、ニューヨーク国連本部でのカザルスの演奏を、家族揃ってテレビで見た時のことはよく覚えている。「(私の故郷カタロニアでは)、鳥たちはこう歌います。Peace、Peace、Peace!」。95歳になろうとするチェリストの発言に、父は感極まった顔になった。

そして演奏された『鳥の歌』。原曲はカタロニア民謡で、カザルスが編曲したもの。

それは、当時12歳の私がそれまでの短い人生で聴いたどんなクラシックの演奏とも違っていた。今なんかすごいものを見ている(聴いている)んだ‥‥と思った。


D



先日、義父が米寿を迎えた。昨年義母が突然亡くなってからこの一年近く独り暮らしで、私が週に一度訪問して家事の手助けをしている。義父はまだかくしゃくとしており、同じ歳の頃、介護施設のベッドの上で夢と現実の間を彷徨っていた父とは大違い。とは言え、言動にいささかの不安定さが出てきたのも事実である。

今日、義父宅の近くの文化会館で開かれた千住真理子のコンサートに行った。義父と二人で行くのは2回目だ。

だいぶ前に、たまたまチラシが新聞に挟んであるのを見つけ、「千住真理子が来るんだね」と言ったら、「あんた、それ行きたいかね」と聞かれた。義父がこう聞いた時は、義父自身が行きたい(一緒におでかけしたい)ということなのだ。

義父は父とは文化圏が違っていて、クラシックはほとんど聴かない。以前、一緒にチェロのコンサートに行った時は、途中で少し寝てしまった。でも今回は「日本の歌を演奏」とチラシに書いてあったので、これなら義父も最後まで楽しく聴けるだろう。私個人は「日本の歌」よりゴリゴリのクラシックを聴きたい方だが、たまにはこういうのもいいと思った。


会場である扶桑文化会館の一階はほぼ満席で、二階も8分の入り。7割くらいが中高年、そのまた7割近くが女性だ。こういう地方の文化会館の催しに来るのはクラシックファンばかりではなく、「何か刺激を受けたい」「有名人の演奏や演技を見たい」という人も多い。デビュー40周年を迎えた千住真理子の知名度に加え、「日本の歌」ということで、途中で眠くなる(かもしれない)クラシックより引きがあったのだろう。

赤とんぼ、故郷、荒城の月、椰子の実、もみじ、浜辺の歌、この道、月の砂漠‥‥。なじみ深い曲目が並んだプログラムを見ながら義父は、「大正末期から昭和にかけての唱歌だな」と言った。時々、妙にしっかりしたことを言う義父である。


曲名を眺めていて、父を思い出した。これらの童謡、唱歌は私が幼い頃、父がよくレコードで聴かせてくれたものだ。

父自身、唱歌が好きだった。介護施設に入居後、枕元に置いていたのも『きけわだつみのこえ』と『日本唱歌集』。その一年目の夏に小さなキーボードを持って父を訪ね、これらの曲を弾き語りしたことも思い出した。認知症が進んでいたけど、まだ正常なやりとりができた最後の季節だったなぁと。

これはまずい‥‥。演奏が始まったら、自分は泣いちゃうんじゃないかと不安になってきた。


クラシックオンリーだった千住真理子が「日本の歌」を演奏するようになったのは、東日本大震災被災地ボランティアで行ったのがきっかけということである。特に年輩の人にとって、こうした懐かしい歌が心の癒しになるのはわかる気がする。

全12曲は、千住真理子の兄の千住明を含む6人の作曲家によって編曲されていた。歌の一つ一つは短いシンプルなものなので、編曲をして初めてプログラムになる。つまり演奏もさることながら、編曲に現れる作曲家の個性が聴きどころだ。それで、わりとそっちに集中して楽しむことができた。


3曲目の『荒城の月』。千住明の編曲はやや印象派っぽくて、すぐに情景が浮かび、それは昔、父に見せられた古い唱歌集の挿絵に繋がった。この曲の文語調の歌詞の意味を小学生の時に父から聞かされて、不思議な感銘を受けたことを思い出した。

4曲目の『椰子の実』。折りに触れて父はこの曲を歌っていたなと思った。高校の国語教師だった父の研究テーマが島崎藤村だったことに加え、南方の島で死んだ戦友の記憶があったからかもしれない。自分の遺骨を粉にして、『椰子の実』の舞台である伊良子岬から海に撒いてくれという遺言まで残している。献体したので、それを実行するのはまだ1、2年先なのだけど‥‥‥。


ふと気付くと、義父が座っているのと反対側の、私の左側の一つだけ空いた席に、父が座っていた。私の隣で、千住真理子のバイオリンに耳を傾けていた。変奏パートに入ると父は消えた。

それから、『浜辺の歌』と『この道』と『月の砂漠』(服部隆之の編曲。ユニークで面白かった)と『夕焼け小焼け』で、父は隣に現れた。

右側に義父、左側に亡き父がいて、同じ曲を聴いているという不思議な感覚を味わった。


会場全体が非常にリラックスした雰囲気のうちに、プログラムが終了した。アンコール曲は、『ロンドンデリーの歌』、『アロハ・オエ』と、これまた誰でも知っているポピュラーな曲目。

そして、アンコール曲のラストが、パブロ・カザルス編曲の『鳥の歌』だった。


演奏が始まると、和やかなムードだった客席が水を打ったように静まり返った。それまでにない深い静まり返りようだった。終盤、椅子に座っているのを大儀そうにしていた義父も、じっと耳を傾けている。

誰が弾いても44年前の国連でのカザルスの伝説的な演奏が思い出されてしまう、そういう特別な曲である『鳥の歌』を、千住真理子は渾身で弾いていた。カザルスによって付与された「平和祈願」というメッセージを措いたとしても、なんと重く、暗く、哀しみのこもった美しい旋律だろうかと改めて思った。

父はもう、隣の席に現れなかった。それまで、一粒も出なかった涙が溢れてきた。



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2015-02-15

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(追記:また出た)

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どれにも凄い数のブックマークがついていて、「ジャズ聴きたいけどどれから聴いたらいいの?」「詳しい人のお薦めが知りたい」と思っている人は多いんだなと思った。

私もかつてそうだった。幸い身近にマニアがいて、ものすごく丁寧に教えてくれた。ジャズ好きで教え好き。いや、ジャズ好きは大抵教え好きなのか。

この人は遠いところに行ってしまって今は交流がないが、当時よくやりとりに使っていた内輪の掲示板に私宛に書き込んでくれた彼のテキストが、パソコンに保存してあった。共有して良さそうなとても親切な内容なので、紹介したい(増田記事より初心者向け。長いです)。

特にピアノが聴きたい人向けのセレクトになっている。後半に定番も。このうちの何枚かはもちろん今も愛聴している。


●「Places/ブラッド・メルドー」

なんてとてもいいCDです。メルドーは白人のピアニスト。まだ若い人らしいです。

そのメルドーが各地に旅した印象を曲にして演奏しています。

曲想は美しく、演奏はとてもシャープです。きれいなんだけれど、感傷にひたった甘い感じがなくて、とても好きです。

最近のジャズで感動したのは、何よりこのアルバムなのですが、それだけではつまらないでしょうから、古いCDを紹介します。


でも、僕の場合、マニアックな人ですから、あんまり今現在の好みを書いても参考にならないと思うので、僕がはじめて聞き始めた頃に感動したアルバムを中心にあげます。

どれも古い録音です。新しくても1960年代の録音になります。

とりあえず、ご注文は

「ピアノ中心(プラス他の楽器)」と「モンク」と「軽快なやつ」ってことでしたね。

役に立てるかどうかわかりませんけど、いくつか挙げておきます。


   ●


【ピアノトリオ】

●『ポートレイト・イン・ジャズ』(ビル・エヴァンス)

●『ワルツ・フォー・デビー』(ビル・エヴァンス)


「ピアノ中心で他の楽器も」ってことですが、まずジャズの場合、「ピアノトリオ」というバンド形式が基本になります。つまり「ピアノ+ベース+ドラム」の組み合わせです。この「トリオ」の上に、サックスだとかトランペットとかの管楽器が乗っていくわけです。

実は僕はあまりピアノトリオが好きではないので、あんまり聴きませんが、とりあえずビル・エヴァンスだったら、有名な「枯葉」が入っている

●『ポートレイト・イン・ジャズ』

ってアルバムか

●『ワルツ・フォー・デビー』

がオススメ。どちらもピアノ・トリオの名作です。

黒人っぽいノリはありませんが、どちらもとてもキレイな演奏。

タワーのフェアにも、どちらかは入っているはずです。

買ってソンした気分にはならないはず。


【ピアノトリオ+管楽器】

●『スタイリングス・オブ・シルバー』(ホレス・シルバー)

●『ソング・フォー・マイ・ファーザー』(ホレス・シルバー)

●『ミーツ・ザ・リズムセクション』(アート・ペッパー)

●『カインド・オブ・ブルー』(マイルス・デイヴィス)

●『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』(マイルス・デイヴィス)


この組み合わせは無限にあります。大部分は「トリオ+管楽器」という組み合わせ。

「トリオ+管楽器1本」の四重奏なら「カルテット」。

「トリオ+管楽器2本」の五重奏なら「クインテット」と言います。


1940年代の「ビ・バップ」なら「アルトサックス+トランペット」、50年代〜の「ハード・バップ」なら「トランペット+テナーサックス」という組み合わせが多いようです。

「ビ・バップ」はそれなりにカッコいいものなのですが、はじめて聴くには敷居が高いかもしれないので、とりあえず「ハード・バップ」期の名盤をあげましょう。僕が大好きなのはホレス・シルバーというピアニストです。とにかくノリが良くてメロディが唄う。中でも一番好きなのは

●『スタイリングス・オブ・シルバー』

というアルバムですが、タワーのフェアには入っていないかも知れないです。

●『ソング・フォー・マイ・ファーザー』

ならたぶんあるはずです。これもとてもいいです。


ちなみに、この形式で僕が一番好きなのは、アート・ペッパーという白人アルト・サックス奏者の

●『ミーツ・ザ・リズムセクション』

です。

これはスゴい。ピアノ・トリオとペッパーのアルトの4人(カルテット)なのですが、ピアノ・ドラム・ベースは、元マイルス・クインテットの連中。ピアノはレッド・ガーランド。最高です。演奏は「軽快」かつ「切実」。

僕がジャズを聞き始めた頃に買った時には、「なんだ、普通のジャズじゃん」と思いましたが、聴けば聴くほどその深みがわかってくる。ちょっと渋めですが、一生聴けるアルバムです。

どんなに明るい曲を演奏していても、切実な情感があります。

興味があったら買ってみてください。

たぶんフェア商品。


マイルス・デイヴィスなら普通は

●『カインド・オブ・ブルー』

が一番の名作とされています。ピアノがビル・エヴァンス、テナーサックスにジョン・コルトレーン、アルト・サックスのキャノンボール・アダレイというすごいメンバーです。

これは「軽快」っていうよりは「内面性」を大事にしているアルバムかもしれないが、大好きです。

もし、『カインド・オブ・ブルー』をN君に借りて、聴いているのなら、次には

●『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』

という1964年のライブ盤もおすすめ。これはキレイでカッコいいです。

ハービー・ハンコックのピアノ、ロン・カーターのベース、トニー・ウィリアムスのドラムがいい感じで、聴くたびにどこかに連れて行かれそうな気がします。

たぶんフェアには入らないだろうけど、日本盤が1800円くらいで出ています。

マイルスのアルバムはどれもみな、とても映像的で美しいです。


【モンク】

●『セロニアス・ヒムセルフ』

●『ブリリアント・コーナーズ』


セロニアス・モンクは、ヘンなピアニストです。メロディがねじくれてる。アドリブもヘン。でもとても美しいピアノを弾きます。とっつきにくいといえばとっつきにくいが、ハマればこれほどハマる人もいないです。

残念ながらモンクにはピアノ・トリオの名作はあまりありませんが、ソロ・ピアノで弾いた

●『セロニアス・ヒムセルフ』

というとてつもない名盤があります。「軽快」な感じは少しもありませんが、内省的な演奏にはシビれます。ちょっとモタモタしてるけれど、正直な感じがします。

管楽器が入っているのならやはり

●『ブリリアント・コーナーズ』

がオススメ。これほどヘンテコで美しいアルバムは知りません。

どちらもフェア対象商品だと思いますよ。


【定番】

ジャズでは「定番」ってのがいくつかあるのであげておきます。

名作中の名作で、ロックでいったら「サージェント・ペパーズ」、画でいったら「モナリザ」とか「ゲルニカ」、即席ラーメンでいったら「出前一丁」か「サッポロ一番みそラーメン」に匹敵するものです。

まあ、ハズレはないです。


●『サキソフォン・コロッサス』(ソニー・ロリンズ)

テナーサックスの巨人、ロリンズの普通すぎるほど普通のジャズ。

  いいアルバムだとは思いますが、ちょっと変化がない。

●『モーニン』(アート・ブレイキー)

  ドラム名人の名盤。

  トランペットがリー・モーガンというむちゃくちゃカッコいいプレイをする人です。

  実は僕、このアルバムをちゃんと聴いたことありません(笑)。

●『クールストラッティン』(ソニー・クラーク)

  ソニー・クラークという日本でしか人気のないピアニストの名盤。

  本屋「ヴィレッジ・バンガード」の看板になってるジャケットのやつです。オーソドックスな

  ハードバップで、ちょっと泣きのメロディ。

●『枯葉』(キャノンボール・アダレイ)

  マイルスが演ってます。しんみりします。

●『バラード』(ジョン・コルトレーン)

  テナーサックスのコルトレーンがバラードだけを演奏したもの。

  むちゃくちゃ泣けます。

  僕の学生時代には「下宿に女の子が来たとき用」として、一人一枚この「LP」を持っているのがルールみたいなもんでした(笑)。

  これは買ってもいいかもしれないですよ。


【ジャズの楽しさ】

ロックなんかでは、「曲」を聴きますが、ジャズは「演奏」を聴きます。

例えば「枯葉」一曲でも、演奏する人によってぜんぜん表情が変わってくる。

それが楽しさなわけです。

それにはやはり、メンバーひとりひとりが何をやっているのかをきちんと聴かないと、よくわからないです。一個のメロディをどんどん変奏していく様子を楽しむ。

そのためには一度は、BGMみたいに流さないでスピーカーの前でひたすら演奏を聴く、ってことをしてみてください。

没入してはじめて聴こえてくる音がありますから。


ちなみに、ジャズをオトクに楽しむコツはただひとつ。

「固有名詞をなるべく覚える!」

ってことです。演奏者や、曲名や、レーベル名はなるべく覚えておく。

別に知識をひけらかして自慢するわけではないですよ。


たとえば、あるアルバムを聴いて「あ、今、このトランペット、いいメロディを吹いたな」と思ったら、そのトランペッター名を覚えておく。

で、次にCDショップに行った時に、そのトランペッターがメンバーに入っているCDを買えばいいわけです。

または、イイ曲だな、と思ったら、その曲を他の誰かがやってるCDを聴いてみる。

そういうことを繰り返していくと、だんだんどれを選んだらいいのかのカンが身に付いてきて、無駄なお金をつかわずに済みます(笑)。

でも、楽しいのは、スカをつかまされたり失敗したりすることなので、いろいろ試してみるといいですよ。

とりあえず最初の10枚くらいは、いろんな人に一番好きなアルバムを尋ねて買ってみて、それから何となく自分のカンを働かせて選んでみると面白いよ。


本屋によく「ジャズ名盤100」の類の本が出ているけど、どれも評論家が自分の好みを押しつけようとしてる感じがするので、読まなくていいと思います。それよりは、CDショップでタダでくれるカタログを集めて、いろいろ想像したほうが楽しめます。みんなが誉める演奏や、評論家絶賛の演奏もいいですが、自分にしかわからない音を見つけるのも楽しいです。

男選びといっしょですね。

誰もが好きなキムタクに熱をあげるより、「私だけのあの人」を見つけたほうがいいようなもんです。


【最後に】

いろいろ入門編っぽいのを列挙しましたが、

もし僕が無人島に一枚だけ持っていくのなら

●『ミーツ・ザ・リズムセクション』(アート・ペッパー)

ですね。

ただし、その島に電源とCDプレイヤがあるとしての話ですが(笑)。

3枚まで許してもらえるなら

●『カインド・オブ・ブルー』(マイルス・デイヴィス)

●『スタイリングス・オブ・シルバー』(ホレス・シルバー)

を追加です。

●『バラード』(ジョン・コルトレーン)

も隠し持って行くかも知れない。


楽しんでもらえればうれしいです。


実を言うと、ジャズファンっていうのは、こういうオススメをするのがとても好きな種族なのです。

だから、ムチャクチャ長くなりました。すみません。


もし、上の中で一枚でも聴いたら感想を聞かせてください。

「聴いてみたけどつまんなかったぜ、ゴラァ! 金返せ!」てなことにならなければいいと思います。


Places

Places

最初にお薦めされて聴いたブラッド・メルドー『Places』。当時精神的にキツい時期だったが、このCDに随分救われた。

2014-02-10

イージーリスニングの虜、アーティストの麻薬

佐村河内騒動で考える:松浦晋也のL/D

例の「交響曲第1番」の感想、NHKの「お涙頂戴」番組作り、新垣隆氏の仕事など論じられていることが幾つかのテーマに渡る長いエントリだが、終わりの方に書かれていたことについて思ったことをメモ。


現代音楽の売れなさは、もう笑うしかないレベルで、CDが出てもスタンプ枚数は数百枚というのが当たり前だ(コミケかよ!)。私はその手のCDを数百枚持っているが、「これと同じCDを世界の何人が持っているのだろう」と盤面を眺めたりもする。


現代音楽だけでなくクラシック音楽も客入りに悩んでいるという話はよく聞く。クラシック音楽業界の窮状について拙書に書いたところより引用。

 数年前、あるシンポジウムで音楽プロデューサーの平井洋さんとご一緒したことがあります。五嶋みどりをはじめ日本を代表する音楽家のマネジメントやコンサートのプロデュースを、長年やってこられた方です。平井さんによれば、クラシック音楽の分野では「今は一握りの人を除いて、プロがなかなか食っていけない時代」。

 伺ったお話をまとめると、「少し前ならトップクラスは演奏家で、二番手ならオーケストラに入り、三番手の人はヤマハ音楽教室で教え、その次は自宅でピアノ教師をするというように、食べていく手段が皆それなりにあった。今はオーケストラのバイオリンの空きポスト一つに人が殺到し、少子化で音楽教室には人が集まらない。住宅事情も悪く騒音問題もあるので、ピアノを買える家が少なくなった。どこの音楽ホールもお金が無く運営に苦心している。でも、これが当たり前なんだと思うべき。この状況で何ができるかを考え工夫することが大切」。

 ここから二つのことが言えると思います。一つは、これまでの「芸術の振興」は社会全体の安定と豊かさを前提としてきた。二つ目は、単に芸術だから守られるべきだということは言えない。一番目については、低迷する景気と政治的閉塞感の中での橋下氏当選[2011年、大阪市長に橋下徹が当選したことを指す]といった現象が端的に示していますし、詳しい説明は不要でしょう。

 二つ目について。現在は、ポピュラー音楽が低俗な娯楽でクラシック音楽が高級な芸術、あるいはポピュラーがわかりやすくクラシックは難しい、とはならなくなりました。趣味嗜好や価値観が多様化している中で、クラシックもポップスもジャズもロックもヒップホップも現代音楽も歌謡曲も民謡も、音楽としてはどれも同等。どれが重要でどれがそれほどでもないという言い方は、できないのです。そんな中で、かつてはヨーロッパ貴族の庇護のもとにあり、次いで「文化となった芸術」[近代以降の芸術は当初は既成の文化に対抗する「前衛」として現れ、やがて文化となっていくという意味]として制度の恩恵を受けてきたクラシック音楽は、売れなければ生き残れないポピュラー音楽に比べると、経済活動が貧弱です。日本発の文化ではないので、能や歌舞伎のような伝統芸能としての保護は望めません。海外で活躍する日本人アーティストに期待がかけられますが、国内で強い存在感を示すには「工夫」が必要ということになるのでしょう。


(『アート・ヒステリー』第一章 アートがわからなくてもあたりまえ p.79〜p.80)


その「工夫」の仕方が箍が外れるところまで行ってしまったのが今回の事件だったのだが、元記事に戻って。

 けっしてつまらないということはない。そこは玉石混淆の、持ち上げるもけなすも自在で自己責任の魅惑のバトルフィールドだ。

 ところが、そこに至るためには、せっせと聴き込んで,耳の感受性を作らねばならない。その敷居がすごく高い。理由は簡単で、クラシック系音楽は長いし、普通に生活していると聴く機会も限られているからだ。

 1時間あれば、2分のビートルズ「オール・マイ・ラビング」は30回聴ける。30回も繰り返し聴くと、曲の構造から込められた創意まで、なんとはなしに感じられるレベルの耳ができてくる。気がつくとラジオでかかったりもするし、知らずに全曲を聞いたりもする。

 しかしマーラーの交響曲は1時間あっても1曲聴けるかどうかだ。それを30回聴こうと思えば、1日以上の苦行となる。

 そこをくぐり抜けた者だけが「クラシックマニア」になる。さらにその中でも、さらに現代曲なんてものに引っかかった者が、分からないなりに聴き込んで、NHK-FM「現代の音楽」をエアチェックしたりして、やっと現代音楽の消費者となる。


現代音楽を聴く「耳の感受性」を作るのには、まず「クラシックマニア」になることが必須、と。こういうことは現代美術でもよく言われてきた。

ギリシア美術があったからイタリアルネサンスが生まれたことを認識し、抽象絵画を「見る」ためにはセザンヌへの理解が必要で、コンセプチュアルアートを読み解くにはデュシャンを知っていなければならないとか。さらにその先のさまざまな表現を鑑賞するにあたっても、「コンテクスト」と「コンセプト」を押さえられるかが要になるとか。一見口当たりの良くない大衆受けしないような、時には”閲覧注意”なビジュアルに、「新しい美とリアリティ」を見出す感受性も必要とか‥‥。*1


つまり現代音楽も現代美術も、耳や目の肥えたオタク、マニアのためにあるということになる。であれば、売れないのは当たり前ではないか。

それでも大本のジャンルが成り立ってきたのは、音楽と美術が初等・中等学校教育に組み込まれてきたからだ。美術館やコンサートホールが国や自治体から助成金を得られるのもそのためだ。ただその分競争力は弱く、商業主義に淘汰されがちになる。

 そんな小さな市場に、音大は年間100人オーダーの作曲家の卵を送り込み続けている(なんという蠱毒、オネゲルが「私は作曲家である」に書いた通りだ)。

 市場を大きくしたければ、そこに人々を導く導線が必要になる。デパートが人の動きを考えてエスカレーターを設置するのと変わるところはない。

現状、学校の吹奏楽部と合唱部(そして若干の室内楽とオーケストラの部活)が、若干の導線の役割を果たしている。

 佐村河内守名義の各曲は、新たな導線の可能性を示したのではなかろうか。なにしろ18万枚もCDが売れたのだ。
 それが「全聾の被曝二世作曲家」というレッテルなしに聴かれるか、という問題はある。が、それでも一切手抜きなし、ガチンコにしてセメントマッチの「イージー現代音楽」「ライト現代音楽」というのはありではないだろうか。アルバート・ケテルビーが、イッポリト・イワノフが果たした役割を、誰かが果たすべきではないだろうか。


エントリーページに、この「導線」について言及したブックマークコメントがあった。

KasugaRei 芸術 音楽 “「イージー現代音楽」「ライト現代音楽」” “聴衆を導く導線” 仮想や希望ではなく、実際に映画音楽がそれなりにその役目を担って来たと思いますよ。『サイコ』『猿の惑星』『未知との遭遇』など。


順にバーナード・ハーマン、ジェリー・ゴールドスミス、ジョン・ウィリアムズ。洋画好きな人なら一度は聞いたことのある名前だ。

現代音楽の作曲家兼評論家で映画音楽を手がけて成功した人としては、マイケル・ナイマンがいる。ピーター・グリーナウェイ監督の一連の作品でバッハとミニマルミュージックを融合した音楽が評価され、ジェーン・カンピオン監督の『ピアノ・レッスン』ではさらに情緒たっぷりなメロディアスな音楽が非常に一般受けした。つまりそれはイージーリスニングぽかった。ナイマンが出てきた頃は「前衛」というものもなくなっていたのだ。

日本でも映画音楽を作曲している音楽家はたくさんいるが、私が現代音楽の作曲家として思い浮かべるのは武満徹だ。一柳慧も高橋悠治も数は多くはないが映画音楽を制作している。*2 ただ武満徹も晩年は、かつてのちょっと尖った作風からかなりイージーリスニングな感じになっていた。



現代音楽でも現代美術でもそのジャンルの”先端”に躍り出ようとして制作をしている人は、映画という総合芸術の中の一パーツとして物語を支えるより、単独の作品だけで輝きたい、人を打ちのめしたいと思うものかもしれない。真面目に「自分の芸術」に取り組んでいる人ほどそう願うのかもしれない。

しかしそういうアーティストがゲーム音楽や映画音楽を手がけて、「これは業界に名前を売って食べていくためだけのもの」とドライに割り切れるかというと、そうとも限らない。そこにもあらんかぎりの情熱を注ぎ込んでしまうのが、作り手の性というものではないかと思う。

その分野の理論に精通し、さまざまな技術を巧みに操れる人が、頭の片隅で「こんなの芸術でもなんでもないし」と思いつつも「どうせやるなら」「こうしたらもっとハマるはず」と熱中して作ったものが、優れた"イージーリスニング"を心から欲し憧れる人を魅了し、そのわかりやすい魅力で支配してしまう。


自分のテクニックが多くの人を虜にするということは、アーティストにとっては麻薬だ。その状況にアーティスト自身が溺れていくということも、往々にしてあるのではないかと思う。

これだけ皆が喜んでくれているんだもの、”皆のため”になっているんだもの‥‥というばかりではない。一皮めくると焼き直しやハッタリだったとしても、情緒たっぷりでメロディアスでいい具合に”泣き”が入っているこれはこれで、結構気持ちいいものじゃん?そういうのを作れる自分ってたいしたものじゃん?という気になってくる。アーティスト自身が自分の創作にうっとりしてしまう。


そういう仕事でそれなりの報酬を得たりしていると、多くの人がついてこれない”先端”で孤独な創作に打ち込んでいる人々からは、「あいつは悪魔に魂を売り渡した」などと言われることはある。何が悪いんだ、売れたもの勝ちだと思っても、どこかで節を曲げてしまったなという思いは掠めるかもしれない。

新垣隆氏のことを言っているのではもちろんない。私もかつて現代美術の分野にいて自分の中の悪魔の囁きを聞いたことがまったくないとは言えないし、現代美術なんか捨ててそちらに行った人を何人も見てきた。書いていてそれを思い出した。

ちなみに90年代以降は、「対象を巧みに描ける」技術を現代美術に積極的に取り込む傾向が、福田美蘭や会田誠などをはじめとして藝大系の作家たちから出てきた。これも、「前衛」が終わって過去のあらゆるものが呼び出されている例というだけでなく、受験期に身につけたやたら高度な描写技術を持て余して(この「お宝」を眠らせとくのはもったいない)のこともあるのではないかと思う。


私事だが私は今、美術の”イージーリスニング”技術を、身近な人のために時たま使っている。デザイン専門学校のクロッキーの時間に学生を描いてあげたり、家族の求めに応じて肖像画を描いたり。

相手が喜んでくれるのはちょっと嬉しい。

*1:一方で、クラシック聴きまくり→現代音楽に到達というセオリー通りの鑑賞態度でなくても、現代音楽を楽しめているという人も中にはいると思う。私の友人はヒカシューを通じてジョン・ゾーンに出会ったし、プログレや民族音楽を聴いていて前衛音楽好きになった人もいる。(昔の)ニューウェイブとかプログレとか民族音楽自体、市場は限られているじゃないかと言えばそうだが、別に音楽史をなぞるような聴き方をしなければ先端には触れられない、というわけではないだろう。ただ、その機会は比較的少ないということだ。

*2:芥川也寸志は?團伊玖磨は?黛敏郎は?と言われそうだが、彼らと武満徹以下の人々とは決定的に違うように思う。ジョン・ケージ以前と以後の違いというか(黛敏郎はケージの紹介はしたけれども、それ以後の新しい音楽を切り開いた作曲家とは言えないだろう)。

2014-02-05

作曲家の”嘘”と視聴者の期待

聴覚障害の作曲家 別人が作曲 NHKニュース


人生中途で耳が聴こえなくなった作曲家が障害と闘いながら交響曲などを書き、CDを18万枚も売り上げ、NHKスペシャルでも感動の涙を絞っていたらしい。ところが実は耳の状態悪化で、十数年前から別の人に構想を伝えて作曲を依頼していたことを、本人が明かした。

上記のニュースのブックマークコメントを見ると、「客が音でなく物語を消費している」「モノを物自身の価値でなく、付加価値(この場合はストーリー性)有りきで消費する」といったコメントに賛同者が多い。


かつてNHKスペシャルを見て感動した人の反応記事も上がっていた。

ギャフン! ギャフン! ギャフン! - 北沢かえるの働けば自由になる日記

ここでも「私たちは物語を消費したがり過ぎている」という言葉があった。


Mamoru Samuragochi : I’m a fraud, admits ”Japan’s Beethoven” - Dailymotion動画

私はその番組を見ていないので、上の動画(そのうち削除されるかも)で曲の一部を聴いたが、ロマン派音楽のきれいなところを切り貼りしたような匿名的な作品に思えた。本体がこれだと、やっぱり相当おまけが特殊で美味しくないとウケないわ‥‥という感じはした。*1



芸術家に「感動的な物語」を付与するようになったのはいつからだろうか。音楽の方はよく知らないが、美術だとゴッホあたりからではないかと思われる。

「炎の人」「狂気の天才画家」などと称され、日本でも絶大な人気を誇るゴッホ。彼の神話(物語)形成に大きな役割を果たしたのも、他ならぬ日本人自身だった。美術史家の木下長宏は『ゴッホ神話の解体へ』(五柳書院、1989)で次のように述べている。

 ゴッホを日本へ紹介定着させたのは、なによりも白樺派の人たちである。あの、求道的で熱情的な画家、「無私」な精神によって自己克服の道を歩みつづけ、「みているとこっちの心も緊張しないではいられない純な世界」(武者小路実篤)を描いた芸術家、そのひたむきに理想を追いつづける青年画家像は、白樺派がつくり出したものといっていい。白樺派が築いた芸術観というものは、たとえば、倉敷の大原美術館がいまもってひろい人気を保持しているように(倉敷は「白樺」思想の帰結である)現代日本の知的位相に浸透している。

 しかし、ゴッホを、近代日本の知的構図のなかで、ひとつの無類の像へと結ばせたのは、小林秀雄であった。小林秀雄は、一九四八年から五八年へかけて、十年をついやして、この仕事を完成させている。白樺派が、すでにじゅうぶん土壌を肥しておいてくれたことは大きい。小林秀雄の仕事の思想史にそくしていうなら、彼は、出発を、白樺を批判するところからはじめ(文芸批評)、美術・音楽批評を通過して、最後には、白樺へもどっている(本居宣長論の思想などに、それがみえている)。


文芸誌『白樺』誌上でセザンヌやルノアール、ゴーギャン、ロダンなどとともに紹介されたゴッホは、近代的な個人主義、人道主義、理想主義の文脈で当時のインテリ青年たちの心を捉えた。最初に見たのは、雑誌のおそらく色も良くない小さな図版。しかしそこに付与されたのは、狂気に苛まれながら孤独に己の芸術を追求し続けたという魅力的な物語。1910年代から20年代にかけて、社会の矛盾と己の無力を感じ始めていた日本の知的階層は、”悲劇的”な芸術家像に、自己をナルシスティックに投影しやすかったのかもしれない。

これ以降、世間で流布される芸術家の「物語」には、社会に馴致されない「個人主義」、弱者に寄り添う「人道主義」、どこまでも希望の灯火を掲げる「理想主義」がどこかに反映されているように思われる。芸術はもともと富裕層や一部の知的階層の変態じみた趣味嗜好であったりするわけだが、それを裾野に広く啓蒙するにあたっては”深イイ話”とのセット売りが好まれる。

「個人主義」以下のこうした主題は、今ではありとあらゆるところでポエム化し、J-POPでも消費されている。その分、人々に芸術をアピールする際にも「使える」ということなのだろう。仮に本体が凡庸でも、おまけが豪華(に見える)なら売れる。


さて、件のセルフ暴露話が、「聴覚障害があるというのは嘘だった」だったらどうだろうか。*2「物語」で感動していた人は自分の感動の根拠を根こそぎ奪われて、それこそ「裏切られた」という気持ちになるのではないか。肝心のおまけを取ったら何が残るのかと。

*1:同じ理由で私は大江光の音楽をちっとも”天才的”とは思わないし、辻井伸行がコンサートの最後にアンコールに応えて自分の作った曲を披露したのをテレビで見た時も、「余計なことしなけりゃいいのに」と思った。

*2:追記:ゴーストライターである新垣氏の会見(http://blogos.com/article/79742/)によれば、聴覚障害は詐病の疑いが。脅迫紛いのことをして作曲させていた模様。