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2017-05-16

「差別」と「欲望」についての断片

例によって少し前の呟きから抜粋(人のtweetに反応したものだが、単体で成り立つよう若干手を入れた)。



差別(偏見や先入観などを元に特定の人々に対して不利益・不平等な扱いをする)とは単に好き嫌いの感情ではなく、構造的な権力関係を前提としてマジョリティマイノリティを排除したい時に現れるもの。

こうした社会的位相における差別と、個人的愛憎における区別とは異なる。人を愛することと差別に反対することは、個人の中で両立する。愛の反対は憎しみではなく無関心。儀礼的無関心に基づく平等というのもありうる。


そもそも人に「差別する自由」などというものはない。なぜなら、人はつい差別をしてしまうものであって、そこにするかしないかの選択の「自由」などないから。

差別感情は不条理且つ根源的なものゆえ、人の心から完全に消し去ることは難しい。だからこそ理性による制御が求められる、とされてきた。


近代は「人権」の時代であり、差別撤廃も近代的理念の徹底化の一つ。その流れはおそらく止められない。

ただもちろん法的規制については慎重さが必要。理念では律し得ない不条理を完全に消毒しようとすると、抑圧された差別感情は最悪のかたちで出てくる。今既にそうなりつつある。



自分の望むタイプの欲望を自由に選択できない点で、人は欲望から不自由な存在だ。

選択の余地なく抱いてしまったその欲望を実行に移したら加害行為になる、あるいはそれが相手の合意が取り付けられないような種類の欲望の場合、その存在は秘匿される。でなければ周囲の人々に強い不安をもたらすから。


秘匿せねばならない欲望を抱いてしまった人は、欲望を開示し行動に移せる人を羨んだり、時には自分が不当に抑圧されていると感じるかもしれない。だが反社会的欲望の開示は周囲だけでなく、自分にも結果的に社会的不利益をもたらす。

この苦しみは、欲望が多形倒錯である人間に生まれついたことによる。


自然から半ば疎外された存在であるがゆえに、人の性欲は生殖に限定されず多形倒錯となった。それが高度な文化を作る一方で犯罪も生んだ。

だから欲望の取り扱いには細心の注意を払わねばならない。私たちが自由に欲望を選べないことがその最初の認識。それは宿命として受け入れ手なづけるしかないもの。


https://twitter.com/anatatachi_ohno

2016-04-11

「愛の言葉」とコミュニケーション強制ギブス

「社会に通用する奴」は多様化しなかった - シロクマの屑籠

ポスト工業化社会の労働者の人間疎外とは、生産ライン上で同じ肉体労働を繰り返すタイプではなく、コミュニケーションを強いるタイプになるのだろう。いや、もう既にそうなっているか。


この最後の下りを読んで思い出したのは、以前働いていたデザイン専門学校でのこと。

年度始めの講師オリエンテーションで、ある時こういうお達しがあった。

「企業は仕事ができるできない以前に、礼儀をわきまえたコミュニケーションの取れる人材を求めている。まずは挨拶から。講師の皆さんは、積極的に生徒に声をかけるようにして下さい。講師同士でも挨拶よろしくお願いします」。


挨拶か‥‥。小・中学校の頃、憧れの男子に挨拶をできるかできないかみたいことで悩んでいたのが蘇った。

ある朝、廊下で出会った時に、思い切って「おはよう」と言ってみる。向こうは知らん顔。一週間くらい落ち込むが、「もしかして聞こえてなかったのかも」と思い直し、また言ってみる。

すると、爽やかな笑顔と共に「おはよう」が返ってきたー! 天にも昇る心持ち。もう「好きだ」と言われたくらいの舞い上がり様。

私にとって挨拶は一時的に、「愛の言葉」となった。


しかし大人になっても基本的には、挨拶が苦手だった。よく知っている人なら声をかけられるが、顔見知り程度だとなんだか気後れしてしまう。迷っているうちに距離はどんどん縮まっていって、何となく向こうも視線を外しているようなので、「‥‥ま、いいか」と思い黙って通り過ぎる。

まして知らない人だと、学校内でも挨拶しづらかった。黙礼をするかしないかみたいな、曖昧な感じでやりすごす。

通り過ぎようとした時に、向こうから「おはようございます」と言われることもある。慌てふためいて「お、おはようございます」と返す。しまった、知らんふりしてないでこちらからしなきゃだった。


自分が教える側になっても、まだ学生と打ち解けない当初は、挨拶がしにくかった。

学生のほうも、4、5人の集団でいれば誰かが気づいて言葉を交わすことになるが、1対1だと恥ずかしいのか緊張するのか、こちらに気づかないふりの学生は時々いる。私のほうも「今、話しかけられたくないんだろな」と妙に気を回し、そのまま通り過ぎる。


しかし、知ってようが知っていまいが、学校内で出会う人間には必ず挨拶せよ、ということになった。

それを徹底させるためか、ある時、朝から校舎の前に教務の職員の人が立つようになった。登校してくる学生たちに、逐一「おはようございます!」と声をかけている。

これは、よほどのことがないと無視できない。デザイン専門学校にはひたすらマンガを描くのが生き甲斐で、ほとんど声を聞かないような子もいるが、そんな学生も「‥‥‥ざいあす‥‥」くらいの小さな声と軽い礼で返すようになる。挨拶強制ギブス

一限目の始まるまでの30分あまり、若い職員の人による、まるで選挙の立候補者のような挨拶連呼が、2ヶ月くらい続いていた。

「おはようございます!」「おはようございます。毎朝大変ですね」。思わずねぎらってしまった。



小津安二郎作品『お早よう』(1959)の中で、無駄口の多いのを叱られた子どもが、「大人だって余計なことを言ってるじゃないか。『こんにちは』、『おはよう』、『こんばんは』、『いいお天気ですね』‥‥」と憎まれ口を叩く。

挨拶の文言自体に意味があるのではなく、挨拶を交わすという行為に意味が付与されるということが、子どもには理解できない。


何らかの関係性が生まれたから挨拶をするのではない。むしろ挨拶をしたから関係性が生じるのだ。挨拶を交わすとは、「敵」でないのはもちろん、完全な「部外者」や「傍観者」や「批判的な第三者」でないことの相互申告だ。

人間関係の構築(もしくは「愛の始まり」)が、有意味なメッセージなどではなく無内容な挨拶から始まるところに、コミュニケーションの神髄が宿る。小津はそのことを、高度経済成長が始まろうとする時期の日本の郊外を舞台に美しく描き出した。


しかしそれは裏返せば、学校でも職場でも地域でも社会の共同体において、「敵」や「部外者」や「傍観者」や「批判的な第三者」の可能性をあらかじめ排除しておくための、「コミュニケーションの強制」として挨拶が交わされる、ということでもある。実際、そうなっている。

結果、すべての振る舞いは、共同体内における効率性と生産性のもとに画一化されていく。

挨拶と笑顔とコミュニケーションと人間関係は、相互の繋がりを持たずバラバラになる。

そして「愛」の生まれる隙間は埋められる。

2016-03-14

「わくわくが止まらない」が止まらない

時期外れの話題だが、大学の学期末レポートを読んで気になったこと。

地方の芸術系大学の1年生中心の一般教養のレポート。最近目につき出したのは、以下のようなフレーズ(今期の例)。


・わくわくが止まらない。

・精一杯の私で応える。

・好きを追求していく。


別に違和感を覚えない人もいると思う。でも個人的には、声に出して読みたくない日本語だ。専門学校かどこかのCMの安易なフレーズみたいで、モヤモヤする。

twitterやブログならともかくとして、レポートなら普通は、


・わくわくする気持ちが溢れて止められない。

・自分の力を精一杯尽くして応える。

・自分の好きなもの、ことを追求していく。または、「これが好き」という自分の気持ちに拘っていく。


という具合に文節化して書く。レポート説明の時も、崩しや省略は極力使うな、硬くてもきちんと書けと言っている。しかし、これまで文章訓練などほぼしていない上、整った硬い表現以前に、崩したラフな表現のほうが先に耳に入っていたら、それに影響されてしまうのだろうとも思った。


おそらく上の三つも、どこかに元ネタがあるに違いない。そう思い調べてみたが‥‥


・わくわくが止まらない→少年サンデーで連載の『メルヘヴン』というマンガの中に「わくわくがとまらないぜ!」という有名な台詞があるらしい。「〜が止まらない」の元祖はC-C-Bの『Romanticが止まらない』か。

・精一杯の私で応える→同じフレーズは見つからなかったが、検索していたら「これが私の精一杯」というのが出てきた。西尾維新のファンタジー小説『化物語』を原作としたアニメのオープニングテーマに出てくる歌詞らしい。Jポップスにもありそうな印象。

・好きを追求していく。→元ネタわからず。10年くらい前から見かける表現で、学生や新社会人向けの啓発的文章でよく使われている様子。


私の記憶だと、こういう少したどたどしい言い方が新しい表現として出てきたのは、80年代。もっと限定すれば、糸井重里からだ。

「じぶん、新発見。」「不思議、大好き。」「おいしい生活。」「ロマンチックが、したいなぁ。」etc

コピーだから大胆な省略表現によりイメージが鮮やかに伝わればいいのだし、当時は新鮮に思えた。糸井重里はいい意味でも悪い意味でも、日本語のある部分を更新した。その後さまざまなメディアで真似し出して、広まっていったように思う。


こうした表現が苦手なのは一つには、80年代の消費文化の今思えばなんともこっぱずかしい、感覚中心主義的でお気楽で軽薄なムードを思い出してしまうからだ。自分も半ばそれに染まっていたという黒歴史。

それから30年も経ったのに、90年代生まれの学生のレポートで対面するとは思わなかった。モヤモヤが止まらない。



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「わたしのきれい」とか「みんなのうれしい」とか

2015-11-10

「漢字にルビをどこまで振るか」問題

ここのところずっと来月出る自著の校正をしていたのだが、一番悩んだのは、漢字のルビをどうするかという問題だ。

元のテキストはウェブ連載だったこともあって、ルビはない。もともとそれほど難解な漢字は使わないし、聞いたことがないような熟語も使っていない。しかし最初のゲラを見た時は、「ひえっ、ルビだらけ!」と思った。

編集者によれば、「ルビ基準は常用漢字外、および難読と思われる訓読み、固有名詞」とのこと。これまでの著作では、難読と思われる漢字や人名にルビを振ることはあったが、ここまでではなかった。今回は映画の本で、あまり読書をしないような人にも手に取ってもらいたいという目標があって、とりあえず大目にルビが振ってあるということなのだ。


しかし、義務教育で教わっていない漢字だからと言って、読めないとは限らない。一般に、書けなくても読める漢字は結構ある。

たとえば、「滲む」「叩く」「揉む」「茫然」「冴えない」「惣菜」「強姦」「尖った」「垢抜けない」「痒い」「殺戮」「噛む」「揃う」「手斧」「雀」「天真爛漫」「薔薇」などを、読めない人はどのくらいいるのだろう。読書好きではなくても、高校生以上なら大体読めるのではないか。たとえ読みに自信がなくても、前後の文脈でなんとなくわかるということもある。

そう考えて、3回くらいの校正の間にかなりのルビを取った。どっちかと言うと見慣れない(読み慣れない)漢字かな?と思ったところは、ひらがなに開いた。せっかく細かくルビを振ってもらったのを、赤でどんどん「トル」「トル」「トル」としていくのはなんとなく気が引けたが、書き手としては基本的にルビは極力少なくしたいのだ。

一切ルビを振らず、「読めなかったら自分で調べろよ」的に突き放すのも一つのあり方だろう。でも今回はそういうスタンスの本ではない。かと言ってあまりにルビが多いと、親切を通り越して読み手を低く見過ぎているような気もするし、見た目も美しくない。


人名はすべてルビを残した。*1「この人有名人だし、読めない人はいないでしょ」と思うケースは多々あったが、編集者によれば「今は誰でも読めても、たとえば30年後にその人は世間から忘れられているかもしれない。そうすると読めない人も出てくる」。‥‥‥そこまでは思いつかなかった。

もちろん30年後に私の本がまだ新しい読者に読まれている(図書館にあるとか)ことが前提の話なのだけど、本を作る人というのはそういうふうに先の先の可能性まで考えるのかと思った。

地名のルビもすべて残した。編集者曰く「東京圏の人なら茅ヶ崎も九段も読めるでしょうが、地方の人がすっと読めるとは限らないのです」。たしかに。東京の地名などあまり知らない人が、この本を手に取るかもしれない。そういう可能性が少しでもあれば、それに沿わせるということだ。


最後まで、ルビを残すか取るか迷い、残したものもかなりある。「繋ぐ」「逡巡」「佇まい」「孕む」「抉る」「忽然」「贖罪」「颯爽」「諺」「几帳面」「屹立」「掴む」など。

そんなの普通は読めるに決まってるよ!と思う人は多いだろう。ここを読みに来るような人は特に。でも自分や自分の周囲にとって「普通」で当たり前であることが、誰にとっても「普通」であるとは限らないのだ。

しかしまた中には、私の本を読んで「こんな漢字にルビ振るくらいなら、こっちにも振らないとバランスが取れないだろう」と感じる人もいるかもしれない。「この漢字にはルビが振ってないけど、これは読めて当たり前ということなのか。それは厳しいのでは?」と感じる人もいるかもしれない。

そのあたりの細かいところは、なんともし難いので、本当に悩ましい。私の中で精一杯想像した上での「これが普通だろう」という感覚も、やはり極めて曖昧なものなのだ。

*1:「映画の中の登場人物の名前で、読みがトヨザキかトヨサキかわからないところは、DVDを見て確かめた」と編集者。

2015-06-15

「わたしのきれい」とか「みんなのうれしい」とか

最近、広告のコピーなどで使われている表現で、気になっているもの。それは形容詞をそのまま名詞として使う言い方だ。たとえば、

・私のきれいを支えてくれる

・みんなのうれしいを実現します


「きれい」「うれしい」というポジティブで明るい形容詞を印象づけるために、さまざまな言葉が省略されている。正しく言うなら、「私がきれいであり続けることを支えてくれる」や「みんながうれしいと感じる状態を実現します」だが、それだと長いし硬い。

コマーシャルのコピーとしては、感覚的な掴みでわかりやすくていいのだろう。でも個人的には、好きではない表現。なんか首筋がゾワッとする。


「きれい」「うれしい」「楽しい」「悲しい」「面白い」‥‥。形容詞にはしばしばシンプルな主観が盛り込まれる。だから子どもは形容詞から覚える。ディズニーランドに行って「面白い!」。マンガを読んで「面白い!」。変な虫を見つけて「面白い!」。その場その場でパッパと主観を吐き出している。

だがそのうち、「面白さ」という言葉を覚える。そして、ディズニーランドの「面白さ」とマンガの「面白さ」と変な虫の「面白さ」とは違う、自分の感じる「面白さ」と他人の感じる「面白さ」も違うことがある、なんてことを考えるようになる。「面白さ」と「面白み」では伝わるものが微妙に違うんだよな、なんてことも考える。形容詞の語尾を変え名詞化して使いこなすとは、主観しかなかった子ども世界から、客観を交えた大人の世界に参入していくことだ。

そうした中で、「わたしのきれい」や「みんなのうれしい」に私が感じるのは、大人の世界に唐突にたどたどしい子どもっぽさを混ぜたカマトトぶった言葉遣いが、今風のキャッチーな表現として受容されていることの気色悪さである(話が長くなった)。


こういう言い方が巷で流行ったら厭だなあと思う。

「子どもの面白いを応援する」とか「あなたの辛いに寄り添いたい」とか「みんなのおいしいを発見する」とか。いくら感覚的にわかりやすくても、せいぜいCMくらいにしておいてもらいたい。*1

でもこういう表現は案外伝染力があるから、会社のプレゼンなんかで既に普通に使われているかもしれない。

*1:こういう言い方の始まりは、「元気をもらう」という表現の流行からだろうか。「元気」はかつて「元気である」や「元気な」という形容詞としてしか使われていなかったと思う。と書いていたら今、「あなたの元気を守ります」というCMのコピーがテレビから流れてきた。「あなたの一生懸命を応援します」ってのもあった気がする。