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2017-06-16

下駄の季節

昭和30年代後半から40年代が私の子ども時代で、当時、普段履きに下駄を履いている人がまだ普通にいた。きものや浴衣だけでなく、洋服の普段着に下駄を履く。

家の玄関の上り框にはいつも、父の大きくて四角い朴歯の下駄があった。子どもの頃から下駄を履き慣れた世代である。それを履いて父は、幼い私をよく散歩に連れていった。私の歩みに合わせてゆっくり歩いている時の、カラン、コロンという長閑な下駄の音を朧げに覚えている。

母は下駄ではなくサンダル履きだったが、祖母はよく普段着のワンピースに下駄をつっかけていた。今ならそのままコンビニに行く感じ。


3歳頃、戸外で撮った写真がある。セーターにフラノのような襞スカートなので秋かと思うが、素足に下駄。片足だけ、人差し指と中指の間に鼻緒のつぼをひっかけている。子どもなので適当な履き方をしている。

同じく下駄を履いた妹とあちこちポクポクほっつき歩いて帰ってくると、台所にいた母の「そのまま上がっちゃダメ!」という声が飛ぶ。そして勝手口のところで、「まぁどこを歩いてきたの」などと言われながら、汚れた足(まだ舗装されてない道もあった)を固く絞った雑巾で拭いてもらって、茶の間に上がる。

夏に浴衣を着せてもらった時は、少し上等の下駄を履けるので嬉しかった。


小学校を卒業する頃は、すっかり下駄からも卒業していた。浴衣を着ることもだんだんとなくなり、下駄からますます遠ざかった。

ただ、都市圏でも70年代の終わり頃までは、ジーンズに下駄履き男子が少数ながらいたと思う。私は東京の美術予備校でそういう人を目撃した。ちょっと特殊かもしれないが、中村雅俊が下駄履きでデビューした影響力がまだ残っていたのだろう。

そして、久しぶりに帰ってきた実家では、父の下駄はいつのまにか消えてスリッパのようなサンダルに変わっていた。

地方の町の商店街などに時々いた、洋装にタビックスを履いて下駄をつっかけたおばあさんをとんと見かけなくなってから、どのくらい経つだろう。


数年前からきものを着始めて、下駄に再会した。

まず草履に慣れ、次いで下駄で歩き回るのに慣れて、下駄が楽しくなった。草履より気取りがなくて、さっぱりしているところがいい。何といっても涼しい。足の指を思い切り伸び伸びと広げることができる。足が寛いで、気持ちも寛いでくる。

夏は、浴衣以外では麻などのカジュアルなきものしか着ないので、下駄の出番が多い。


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今やサンダルより多くなってしまった。新品も貰い物も。


私はもっぱら、歩きやすい右近(二枚歯ではなく低めのポックリのような形)を愛用しているが、時々駒下駄(二枚歯)も履く。駒下駄は粋だし、カラコロといい音がするのが魅力だ。

レストランや美術館など音を立ててはいけないところには履いて行けないが、舟形で裏全面にゴムの貼ってあるのは音がほとんどしないので、足袋を装着の上で美術館にも履いて行く。ぱっと見は草履に見える(画像左上)。

塗りの下駄は美しいが、前の角の塗りが剥げやすいのが難点。爪皮を被せ、もっぱら雨下駄として使っている。


下駄ほど、のんびりした無防備な履物はない。二枚歯は砂地ではめり込むし、コンクリートの上は若干反発が強い。石畳や細かい砂利道が一番歩きやすい。

そんなものを履いている時に、もし災害に遭ったらどうするの?と思わないこともない。帰宅困難者になったら、右近はまだしも駒下駄で長距離を歩くのは、ちょっとしんどいかもしれない。

非常時用に、折り畳めて軽い携帯用のペタンコ靴とかあると便利だ。


きもの研究家の山下悦子が『きもの歳時記』の中で、下駄について書いたくだり。

 草履は音をたてないで歩くもの、下駄は音をたてて歩くものである。

  [中略]

 のどかなそぞろ歩きの下駄の音は、足首や躯の緊張を解きほぐすだけでなく、 心の屈託も追いやるようだ。かたかたと小さな足音でそれとわかる子供、心せくままの前のめりの足音。律儀さは足音ばかりでなく、歯のへり具合にもあらわれる。同じ「からん、ころん」でも、『牡丹灯籠』の下駄の音は怪談に凄みを添える。


思い出したのは『ゲゲゲの鬼太郎』だ。♪カラーンコローンカランカランコロン‥‥

そして山下悦子は、下駄は「平和の象徴」であり「集団には結びつかない特性がある」と書いている。ここで下駄の対極に置かれているのは、軍靴である。

たしかに軍靴に集団性はつきものだし、マンガなどでもその足音は「ザッザッザッ‥‥」という、行進する集団の音として表記される。のんびりした「からん、ころん」は、「ザッザッザッ‥‥」にかき消される定めである。

72年前、学徒動員で行った戦争が終わり、軍靴を脱いで、戦前と同じく下駄を愛用する日常に、二十歳の父は戻ってきた。

一緒に散歩した時の長閑な下駄の音に、時々、上機嫌な父の口笛の音が混じっていたのを思い出す。



新装版 きもの歳時記

新装版 きもの歳時記

2017-05-23

眠りにつく前に

幼いお子さんについて時々呟かれているid:white_cakeさんのtweet


「こういう場合はこうするんだ」と、その行為を意味内容抜きで覚えた子どもが、早速それを実行する。子どもは決まり事が好きなのだと思う。

私は子どもがいないが、母から聞いた話を思い出した。


二番目のtweetにいくつか反応があり‥‥


皆さん、同じようなことしてたんですねぇ(笑


「あったかいね」も「トントントン」も子どもにとっての決まり事であれば、親が読み聞かせるお話の文言も大事な決まり事。それを自分の中にしっかり刻み付けているから、異変や逸脱に敏感になるのだろう。子どもは妙なところで頑固で融通が効かない。


睡眠は小さな死だという。愛し合った後の昏睡を指して「プチ・モール」とフランス人が言ったのが始まりらしい。セックスでなくても、エネルギーを出し切った後の眠りは死に近い。

終日全力で活動した後の小さな死を前に子どもは、「何もかもがいつも通り。お母さんのお話も寸分違わずいつも通り」という安心の確認をして、眠りにつきたいのだと思う。

そんな子ども時代は短いし、自身が日々成長して変わっていくのに、子どもは「何も変わりませんように」と願っているのである。*1


ちなみに大人になってからは大抵、エッセイなどの比較的軽い本を読みつつ寝る。既読のもの中心。すべてがあまりにも早く変化していく中で、寝る前くらい「寸分違わずいつも通り」を確認し安心したいのかもしれない。

*1:そう言えば、母親もいつか年老いて自分より先に死ぬと知った時、しばらくの間は布団に入ってから「お母さんが絶対におばあちゃんになりませんように」という理不尽なお願いを神様にしていたことをぼんやり思い出した。

2016-07-27

1949年のビフォーアフター、リンゴ箱の記憶

東京新聞:「ビフォーアフター」工事代払って 建設会社がTV局提訴へ:社会(TOKYO Web)


以前、建築士の知人から、たまにトラブルがあるらしいという話を聞いたことはあった。今回は建設会社が「被害」に遭っているようだが、後で施工主の方から不満が出て、元に戻したいというケースもあるらしい。

ビフォーにあった資材や役に立っていなかった物を、アフターでうまくリサイクルしているところが面白いと思って前はよく見ていた番組だが、画面に写っていないところではいろいろ起こっていたのだろう。


ところで今日の『とと姉ちゃん』も、ビフォーアフターだった。

空襲で焼け出され、人んちの物置に侘しい仮住まいの東堂先生夫妻。『あなたの暮らし』(『暮らしの手帖』がモデル)の創刊第二号のテーマをインテリアにした常子らは、東堂先生宅をなんとかしたいと知恵を絞り、花山のアイデアでただ同然のリンゴ箱を集め、本箱や机や椅子に転用する。◯◯林檎などのシールの貼られていた箱の表面には、きれいな紙を化粧貼り。

一気に人の住まいらしく、質素ながらもモダンで明るい雰囲気になった部屋。長椅子の背の部分に使っているリンゴ箱を床に並べれば、ベッドにもなる。劇的なビフォーアフターに感激する東堂先生。


もちろんすべてがリンゴ箱の「その場しのぎ」だから、チープではある。チープだけど「貧乏」ではない‥‥ような気がするところがキモ。

物置空間を洋風にして貧乏イメージから抜け出すという作戦が、それなりに功を奏しているのだ。洋風は当時、貧しい現実に憧れとファンタジーのオブラートをかけるものだったのだろう。



『とと姉ちゃん』を見ていて、リンゴ箱の記憶が蘇った。

実家の二階は昔、父の書庫になっていたが、その棚の半分くらいがリンゴ箱だった。1955年頃、父はまだあたりがほとんど雑木林だった土地を買って家を建て、57年に母と結婚した。新婚当初は家具を揃えるお金がなかったので、何もかもリンゴ箱で代用していたそうだ。

次第に家財道具が整って、余ったリンゴ箱は二階の書庫の本箱に回された。父の蔵書に混じって、親戚から読み終わったのを母が貰って読んでいた雑誌『それいゆ』や『ジュニアそれいゆ』が何冊かあったことを思い出す。

中原淳一の作ったそれらの女性雑誌でも、『暮らしの手帖』の提案と同じく、「空き箱にきれいな紙を貼って、小物入れに使いましょう」などという特集が載っていた。


実家のリンゴ箱にきれいな紙が貼られていたかどうか、もう覚えていないが、頂き物などの包装紙や紙袋を全部捨てずに取っておく家だった。その一部は、本のカバーになる(ドラマでも東堂先生がやっていた)。私は1959年生まれだが、小学生の頃、父にブックカバーの作り方を教わった。

戦後20年くらいまでは、どこの家庭でもそういうふうに、できるだけあるものでやりくりする感じだったのではないかと思う。そこに見よう見まねの洋風を取り入れることで、貧しさをカバーしていた。



『日本・現代・美術』の終章で椹木野衣は、『暮らしの手帖』創刊第二号(1949年1月)に掲載された写真について、「終戦直後の日本人が、「くらし」を少しでも美しくしようと、ありあわせの材料でしつらえた、西洋風の暖炉の「シミュレーション」なのである」(p.347) と記述しているが、その後に、『暮らしの手帖』の創刊者、花森安治の「なんにもなかったあの頃」というエッセイからの引用がある。


 炉の上の棚にはランプがともり、たてかけたフライパンのまえの五徳の上で、コーヒー沸しが歌をうたっていた。なにげなくこれをみれば、いささかキザであり、いささかセンチメンタルな構図ではある。

 しかし、この<インテリア>は、省線のガード下の、倉庫の二階なのである。

 焼けトタンと焼け瓦を底に敷いて、壁ぎわに炉を切って、壁にはやはり焼け跡でひろってきた煉瓦を積んで、歯医者の使う石膏で目地をぬりかためて、ちょっとマントルピースの感じをだしたのだ。

 冬の夜、ここで読書していると、頭上の省線もたのしい伴奏に思われてくると、これを作ったひとはいう。

次は『暮らしの手帖』創刊号より。

 はげしい風のふく日に、その風のふく方へ、一心に息をつめて歩いてゆくような、お互いに、生きてゆくのが命がけの明け暮れがつづいています、せめて、その日日に、ちいさな、かすかな灯をともすことが出来たら‥‥‥この本を作っていて、考えるのは、そのことでございました‥‥‥

(『日本・現代・美術』p.347〜348)


「どこにも行きつくあてのない「くらし」を「美しいくらし」につくりかえるために、「ガード下の倉庫の二階の一隅に、それも焼け跡でひろってきた材料ばかりで、このような<室内>を演出する日本人とは、一体なんだろうか」–––– そう問う花森に、いま、「豊か」になったわたしたちは、自信をもって解答することができるだろうか?」と、椹木野衣は問うていた。*1


畳の部屋にカーペットを敷き、ソファやベッドを入れて頑張って洋風にする。貧乏の匂いのする古臭い和風を生活空間から追い出す。カーペットをめくればそこには古ぼけた畳があるのだけど、とりあえずそのことは忘れよう、と。

80年代の頭くらいまではあった、そうした「洋」への憧れと「和」への忌避をこそばゆい感じで覚えているのは、今の50代後半までだろうか。

「和」流行りで「和」がオシャレということになっている昨今だが、かつて「洋」コンプレックスを持った身にとって、『とと姉ちゃん』の「ビフォーアフター」は少しせつない。



ところでドラマの中では、花森安治をモデルにしている花山伊佐次だが、ロシア風の上着やスカート(今日の回)はいいものの、ヘアスタイルがそのままなのはどうなん‥‥。花森安治っておかっぱヘアにしてたんじゃなかったっけ? 

唐沢寿明もさすがにおかっぱは拒否したのか、そこまでやると笑いを取る方向に行っちゃうのでやめたのか。

次回くらいで「女性の気持ちをよく知るには、装いもさることながら、やはり髪型からだと思ったのだ!」と、ドヤ顔のおかっぱ唐沢寿明が出てきたら面白いんだけどなー。面白すぎるかな。


※「昭和の「暮らしの手帖」から」というサイトで、表紙ビジュアルが紹介されている。

『暮しの手帖』の表紙 創刊号〜第10号まで

これも。

台所に椅子をおく リンゴ箱から作る 暮しの手帖 1949年



●関連記事

曲がった釘の思い出

*1:もちろんこれは、「なにも存在しない荒れ地のなかで、「まず何かを想定しなければならな」かったことによって、その場しのぎに作られたもの」である「日本の近代<美術>の始発点」(p.78)という、この本のテーマに重ね合わされているのだが。

2016-04-26

花と蛇

庭のハクモクレンが何年ぶりかにちぎったティッシュみたいな花をつけ、それが散ったらずっと前に植えてだんだん増えてきたスミレ群が咲き、次はシランの赤紫の花が一斉に開き、ドウダンツツジもスズランに似た小さい白い花をつけ始めて、あまり熱心に手入れしていない狭い庭もそれなりに季節が移り変わっていく。

こういうのこそ写真を撮ってブログにアップすれば、ほっこり系おばあちゃんブログという新しいスタイルを確立できるかもしれないのに、ぼんやり見ているだけで過ぎてしまった。


今は藤の季節。犬の散歩コースに見事な藤の花が。

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右は人家、左は用水。用水の方にどんどん張り出して、棚が作れないせいかつっかい棒で支えられている。野生の藤が近くの樹木に盛大に巻き付いて、樹木をほとんど乗っ取ってしまっているところもあった。

藤は、近くのものに巻き付く植物。蔓は強靭、幹は曲がりくねって大蛇のようだ。花だけはたおやかな風情だけど。

そんな藤の姿を見ていたら、あることを思い出した。


10数年前、30〜40代の仲間内でアート系同人誌を作っていた頃、学芸員志望の大学院生Bさん(女性)が同人に入った。その時の会話。

S 「オオノさんとBさんで、対談の連載やらない?」 

N 「Bさんが毎回素朴な疑問をオオノさんにぶつけて、オオノさんが答えるの」

B 「わーい」

私「いいね、やりましょう」

S 「タイトルはもう考えてあるんだ。『花と蛇』」

B私「なんで?」

S 「だからBさんがね、オオノさんにしごかれて目醒めていくという連載なんだよ」

B 「きゃー(笑)」

私「じゃあ花ってのは」

SN「もちろんBさん」

私 「で、蛇が私とな」

SN「はい」


SとNはふざけたタイトルを考えるのが好きで、当時私の連載レビューは「犬に噛まれたと思って」という、書いた本人にも書かれた人にもかなり失礼なタイトルをつけられていた(それを受け入れたのは自分だが)。

犬の次は蛇かーと思ったけど、この対談は結局実現する前にBさんが学芸員になって忙しくなったので、そのまま流れた記憶。


藤という植物の中で、「花と蛇」は一体になってる。そうだよ、おんなじものなんだよねぇと傍らの犬に話しかけたが反応はなかった。

2016-03-14

「わくわくが止まらない」が止まらない

時期外れの話題だが、大学の学期末レポートを読んで気になったこと。

地方の芸術系大学の1年生中心の一般教養のレポート。最近目につき出したのは、以下のようなフレーズ(今期の例)。


・わくわくが止まらない。

・精一杯の私で応える。

・好きを追求していく。


別に違和感を覚えない人もいると思う。でも個人的には、声に出して読みたくない日本語だ。専門学校かどこかのCMの安易なフレーズみたいで、モヤモヤする。

twitterやブログならともかくとして、レポートなら普通は、


・わくわくする気持ちが溢れて止められない。

・自分の力を精一杯尽くして応える。

・自分の好きなもの、ことを追求していく。または、「これが好き」という自分の気持ちに拘っていく。


という具合に文節化して書く。レポート説明の時も、崩しや省略は極力使うな、硬くてもきちんと書けと言っている。しかし、これまで文章訓練などほぼしていない上、整った硬い表現以前に、崩したラフな表現のほうが先に耳に入っていたら、それに影響されてしまうのだろうとも思った。


おそらく上の三つも、どこかに元ネタがあるに違いない。そう思い調べてみたが‥‥


・わくわくが止まらない→少年サンデーで連載の『メルヘヴン』というマンガの中に「わくわくがとまらないぜ!」という有名な台詞があるらしい。「〜が止まらない」の元祖はC-C-Bの『Romanticが止まらない』か。

・精一杯の私で応える→同じフレーズは見つからなかったが、検索していたら「これが私の精一杯」というのが出てきた。西尾維新のファンタジー小説『化物語』を原作としたアニメのオープニングテーマに出てくる歌詞らしい。Jポップスにもありそうな印象。

・好きを追求していく。→元ネタわからず。10年くらい前から見かける表現で、学生や新社会人向けの啓発的文章でよく使われている様子。


私の記憶だと、こういう少したどたどしい言い方が新しい表現として出てきたのは、80年代。もっと限定すれば、糸井重里からだ。

「じぶん、新発見。」「不思議、大好き。」「おいしい生活。」「ロマンチックが、したいなぁ。」etc

コピーだから大胆な省略表現によりイメージが鮮やかに伝わればいいのだし、当時は新鮮に思えた。糸井重里はいい意味でも悪い意味でも、日本語のある部分を更新した。その後さまざまなメディアで真似し出して、広まっていったように思う。


こうした表現が苦手なのは一つには、80年代の消費文化の今思えばなんともこっぱずかしい、感覚中心主義的でお気楽で軽薄なムードを思い出してしまうからだ。自分も半ばそれに染まっていたという黒歴史。

それから30年も経ったのに、90年代生まれの学生のレポートで対面するとは思わなかった。モヤモヤが止まらない。



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「わたしのきれい」とか「みんなのうれしい」とか