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2017-09-20

「美」とルッキズムをめぐるメモ

もうほとんどの人が忘れたと思われる宮崎県日向市のCMへの「ルッキズム」観点からの批判、ルッキズムに囚われがちな一人として悩ましい部分があった。

たとえば、スマートな人の外見が(そうでない人より)好みだということと、それを一般化して語ることとは区別すればいい‥‥‥で本当にいいのか。

厳密に言えば、区別するのは難しい。世の中にスマート>デブという権力勾配がある中では、「私は太った人よりスマートな人が好きです」という"個人的"言明も、ルッキズムだと見なされるかもしれない。


ルッキズムは単に容貌差別(容貌至上主義)というだけではなく、太っているより痩せている方が、背が低いより高い方が、顔が大きいより小さい方が、鼻が低いより高い方が、目が小さいより大きい方が、肌が黒いより白い方が‥‥(相対化されてきた部分もあるが)という西欧中心的価値判断を含んだものだ。

「太っているより痩せている方が美しい」という価値観が現在主流である以上、逆に誰かが「太った女性が美しい」として写真に撮ったりしても、それは「痩せている女性への差別」にはならない。世の中には圧倒的に、痩せた(というか所謂”ナイスバディ”と言われる)女性のビジュアルの方が多く、デブ賞賛的な場は限定的だから。


日本の場合も「美」の基準なるものは西欧の影響を強く受けているが、一方には「小さくてあどけなくて可愛い」という日本人的な基準もある。

「美」およびルッキズムは文化支配の産物でもあるから、アジア人が大昔から政治、経済、文化面で世界をリードしていたら、アジア人的体型や顔がもっとも美しいとされたかもしれない。

急に思い出したが、小津安二郎の『秋刀魚の味』の中で加藤大介が、「これで戦争に勝っててごらんなさい、アメ公がちょんまげ結って三味線弾いて」みたいなことを言う。


「どんな体型、どんな顔の人も、差別される謂れはない」とは言えるが、「どんな体型、どんな顔の人も、美しい」ということにはならないだろう。「美」とは常に特権的なものであって、すべてが美しいとなったら「美」そのものは消滅する。

「美」による差異化が一切なくなったら、平和な世界にはなるかもしれないが、快楽の一つは確実に失われる。


ルッキズムが最後まで残るだろうと私が思うのは、それが欲望(広い意味での性欲を指す)に深く関わっているからだ。言い換えれば、「美」に対する感覚は一方でエロティシズムと結びつき、個人の中に深く根を降ろしている。それはもちろん、現在主流の「美なるもの」と時々ずれる。

というより、個人の美の基準は、「それ」を見た後に「ああ私はこれを美しいと感じるのだ」という感得によって、その都度作られる。

故に、何が本当に美しいのか、私はまだ知らないことになる。


(夏のtweetから抜粋してまとめ直しています。https://twitter.com/anatatachi_ohno

2017-08-22

人は知らぬ間に差別者になり、事後的に反差別を選び直す - 2

※20日の記事に追記したら、なぜかもう一つ追記付きの記事が上がってしまいました。とりあえずこちらは追記だけにします。前の記事の続きとしてお読み下さい。


●追記/この後、またやりとりがありました。そこで思ったことなど。





● 関連記事

「差別」と「欲望」についての断片

2017-08-20

人は知らぬ間に差別者になり、事後的に反差別を選び直す

最近、Twitter千野帽子さんとやりとりさせて頂いた。質問と回答が若干前後しているがそのまま掲載。




















● 関連記事

「差別」と「欲望」についての断片

2017-07-19

ジェンダー平等社会のエロの位相、あるいは欲望と配慮の関係

男性向けポルノや少年誌のエロ表現関連の話題について、twitterでずっと呟いていましたが、今の時点での自分の考察(仮説)をざっとまとめました。昨日、連ツイしたものに大幅加筆しています。



女性への暴力的な性行為が快楽的に描かれるヘテロ男性向けポルノは、現代のポルノの中でも古典的にしてポピュラーなジャンルだと思われるが、そこにある性的支配のイメージは男女差別構造*1の反映、または還元だという言い方は、半分正しくて半分間違いだ。反映論だと現実に起こっている性意識の変化や流動性を無視することになり、還元論でも男女関係の一義的固定から先に進まない。

更に、エロマンガの昨今の潮流は、「女がすでにエロく、積極的に求められる」のを通り越し「女からの再三の催促に困った顔して渋々応じる」になっているという。*2  陵辱ものや強姦ものがある一方で、「男キャラの受け身化」がかなり前から進行し、最近はそれに拍車がかかっているらしい(BLの影響もあるのかもしれない)。

男性向けポルノにおける、暴力的男性キャラと受け身的男性キャラ。エロメディア批評ではとっくに論じられていることかもしれないが、この二極を前提として仮説的に考えてみた。


現在、女性の権利獲得や男女平等意識の浸透に伴って、セクハラをはじめとした性暴力(かつては暴力とされていなかったものもそこに含まれるようになった)への視線は厳しくなり、男性の従来的な位相は揺さぶられ続けている。男性にとっては、この事態にスムーズに対応し常に言動を自己検閲せねばならない抑圧感に加え、公私共に未だに能動性や積極性を期待され要求される場面が多いという矛盾感がある。

つまり、これまで様々な形で存在した性的支配が社会的に否定され排除されてきたからこそ、抑圧されたそれが、男性向けポルノの中でより過激かつファンタジックに再演されているのではないか。男性向けポルノにおけるある種の過剰さや多様さは、主にこの数十年の間に徐々に社会的な男女差別構造が崩れてきたことへの、防衛的な反応ではないか(ここで言う反応は直接的なものというより、さまざまな回路を経た影響として見出されるもの)。


それを受け手のレベルで見ると、まず現実では女性への配慮に心を砕き、強姦や陵辱もの(暴力的男性キャラ)で "現実では禁じられたこと" を楽しむというかたちになる。そこにあるのは端的に言えば去勢不安だ。この際、男性視聴者が犯される女性に感情移入することも普通にあるようだが、能動性を期待される男ジェンダーの軛から逃れたいという心理が影響しているのではないかと思う。*3

そしてもう一方の極では、現実ではやはり配慮しつつ、「女からの再三の催促に困った顔して渋々応じる」作品(受け身男性キャラ)で "現実ではありえないこと" を楽しむ。ここには現実世界の女性との関係構築の悩み、「女が何を欲しているのかよくわからない」「女への配慮的アプローチが難し過ぎる」という、男性視聴者の困惑が反映されているように思う。

今は後者の方が視聴者のリアルに訴えかけ、流行しているということは、これが、ジェンダー平等の進む社会で平等意識を内面化しつつも去勢の不安を抱える男性が描き得る最大のファンタジーだからではないか。


少年マンガ誌で描かれるラッキースケベも、「男キャラの受け身化」だと言える。

例えば下の記事は、この間twitterを中心に、口絵についての批判が出た週刊少年ジャンプに掲載の『ゆらぎ荘の幽奈さん』のストーリーが、かなりジェンダーに配慮したものであることを丁寧に解説している。ラッキースケベはその言葉に反して、主人公にとってラッキーな事態ではない。非合意なボディタッチをする悪役男子キャラは他にいると。

『ゆらぎ荘の幽奈さん』に見られるジェンダー的配慮 - 辰巳JUNKエリア ニワカを極めるブログ


内容をよく知る者には、問題となった口絵も物語の一コマ、せいぜいアクセントに過ぎないのかもしれない。しかしあのビジュアルには、配慮されたストーリーを逸脱するかようなエロ・インパクトがあったのも確かだ。

つまり、ストーリーと単体ビジュアルは乖離している(少なくともしっくり噛み合っていない)のではないかということだ。これは批判ではない。

PCに配慮したリベラルな「ゆらぎ荘〜」のストーリーは今、主に男性に求められている行動規範と重なるという意味で非常に「教育的」だ。一方、口絵は「教育的でない」という観点から、そこに置かれていることを批判された。

このマンガの二重性は、ジェンダー平等を進める社会と男性向けポルノの関係をそっくり反復しているように見える。


つまり少年向けマンガのストーリーがリベラルであればあるほど、そこから排除された(非リベラルと見なされがちな)エロはビジュアルに宿るということになる。

これはマンガ表現において昔からあるPC配慮とマーケティングの兼ね合いであるという、実際面からの指摘*4は確かに説得的で頷けるものがあるが、ここでは欲望から読み解きたいと思う。

ストーリーを意識、ビジュアルを無意識に喩えてみよう。意識から抑圧、排除されたものは無意識に留まり、変形したかたちで現れる。ラッキースケベのシーンはその変形そのものだ。

更に言えば、少年誌においてエロという抑圧されがちなものをビジュアル化したい欲望が最初にあり、ジェンダー配慮的なストーリーはその欲望を隠蔽し、エロを無害化するための方便(だから教育的なものになる)として組み立てられているという見方もできる。これは芸術作品ではよくあることなので、マンガでもないとは言えない。

そもそも、ジェンダー平等を進める社会と男性向けポルノを含めたエロ表現の歴史的位置関係は、後者が先、前者が後だ。それを「ゆらぎ荘〜」(ポルノではないが)に重ねれば、エロを描きたいという欲望が先にあり、ストーリーにおけるジェンダー配慮は後付けということにならないか。「宮崎駿の動機・欲望はメカと美少女」のように。


そのことを、読者はやはり無意識でキャッチするだろう。

主人公は女性蔑視的視点は持たず、他者を気遣いサポートできる優しい男子として描かれているようだが、彼を見舞うラッキースケベは、主人公に自己を仮託する少年読者の中では「困った状況だけどやっぱりラッキーだよね」というふうに感受されているのではないか。あのビジュアルは、多くの少年のあまり他人には言いたくないスケベ心を満足させるサービスの役目を果たしているはずだ。

では、もしPCに配慮されたストーリーとエロいビジュアルの乖離(に見えるもの)があえて作られているとして、それは大人から子どもに押し付けられる二重規範として批判されるべきだろうか? それとも、異性への配慮的対応とスケベ心の乖離に悩み始めた少年たちへのエールや心配りと捉えるべきだろうか?


私も問題の口絵だけ見た時、「少年誌でこれはちょっと‥‥」と感じた。その感覚は実はまだ消えていない。ただ、先に述べたジェンダー平等を進める社会と男性向けポルノの捻れた関係が実際にあると仮定すると、「ゆらぎ荘〜」はその関係性をそのままきれいに反映するマンガということになるだろう。

少なくとも、エロ要素を作品に取り込む創作者なら、ストーリー=リベラル/ラッキースケベシーン=非リベラル(に見える可能性)の二重構造は、充分に自覚されているはずである。


そして一方で、その表現が自覚的であろうとなかろうと、(エロ自体の否定ではなく)「教育的配慮」という観点から「影響」を懸念する声はなくならないだろう。そこでは、急速に抑圧された男性上位の性的支配の無意識的発露としての男性向けポルノの存在が、反映論や還元論によって捉えられているように見える。

それは先に「半分正しい」と書いた。女性への性暴力がなくならない以上、反映論や還元論はいつまでも批判や糾弾として出てくるだろう。

人権思想の一つである男女平等思想を更に浸透させないで、どうやって性暴力被害を減らしていくのか?という問いは正当である。性暴力が快楽的に見えるようなビジュアルを、男女平等思想を学ぶ途中の子どもに娯楽として享受させるのは果たして良いことなのか?という問いも真っ当である。

しかし娯楽の中にどこまで教育的配慮を求めるべきか、その線引きは難しい議論になると思われる。


社会的規範とそこで抑圧されるものの関係を、意識と無意識になぞらえることが許されるなら、ポルノはアートと同様、無意識が変形した「夢」だ。バランスが難しいところだが、抑圧は強過ぎても弱過ぎてもまずいのではないだろうか。

人権を尊びPCに配慮し男女平等を押し進める、というリベラルな動勢を止めることはできない。それが近代を徹底するということなのだから。

一方で、抑圧によって生まれる去勢不安の中、欲望は迷走し、配慮と期待に引き裂かれる現実の異性愛関係には困惑と疲労が蓄積する。これも避けられない。

ただこうしたことが逆説的に、ポルノだけでなくさまざまな物語やビジュアル領域に、多様で特異な表現をもたらすかもしれない。そこに顕現してくるだろう既存の性愛を超えた何かを見たいという気持ちが私にはある。



●付記

女性向けポルノを主に論じたものとしては、『欲望のコード - マンガに見るセクシュアリティの男女差』(堀あきこ、臨川書店、2009)や『女はポルノを読む - 女性の性欲とフェミニズム』(守如子、青弓社、2010)など、BL分析では『ボーイズ進化論 - ボーイズラブが社会を動かす』(溝口彰子、太田出版、2015)という良書があるけど、男性向けポルノの批評ではどんなものを読めばいいんだろう。

『エロの敵 - 今、アダルトメディアに起こりつつあること』(安田理央・雨宮まみ、翔泳社、2006)は読んだが11年も前のものだ。AV批評はいくつかあるようだが、エロマンガの最近の動向も押さえたものが読んでみたい。


●関連記事

「ミソジニー」といかに付き合うか(本記事はここでの考察を元にしている)

「お上よ、もっとエロを規制してくれ!」とエロメディアの作り手が言ってたりする

女をモノ扱いするのは男の仕様、あるいは男の性の脆弱性と所有欲について

*1:これを前「家父長制」という言葉に代表させて議論の混乱を招いたので、今後は避けるようにしたい。

*2https://twitter.com/m_pokesawa/status/887327360374132736

*3:もっとも、さまざまな性暴力被害に遭っている多くの女性からは、「フィクションにせよ被害者側に立って興奮するなんていい気なものだ。現実を知ってもそんな快楽を貪れるのか」と思われても仕方ないかもしれない。

*4https://twitter.com/ppponsu/status/887281285797892099

2016-11-13

「嫌悪感の表明」と「相互理解」の間

最近話題になっていた、セクシュアルマイノリティへの施策をめぐる千葉市長の一連のTweet(わかりやすくするため番号を振った)

1

2

3

4

5

6



昨夜は5のtweetにはてなブックマークがたくさんついていて、私も最初にそれを読んだ。現状認識はほぼ同意だが、最後の一文がセクシュアルマイノリティに向かって「嫌悪感の表明」をしても良いと言っているように受け取れたので、最初かなり批判的なブコメをつけた。

しかし、後でその前のtweetを読み、セクマイへの偏見や差別を払拭できない人々に対しどう説得的に対応するかで苦慮している風だったり、「行き過ぎたポリコレ」への不満を抱く人々の感情にも寄り添わねばと配慮している感じなど、あちこちに気を使ったあまり説明不足の表現になったみたいだと思い、少し穏健なブコメに書き換えた。6のtweetを読んだのは今朝。さすがに対応が早い(けど、両立しないことを両立させているように見えるので違和感は残る)。


3のtweetも、『セクマイの人々に対して「生理的にダメ」「気持ちが整理できない」というのは、多くの異性愛者にとってはごく普通のことで、それ自体は責められるべきことではない。セクマイの権利を守る施策に反対する人は、まずそういう感覚、感情が自分の中にあると認めよう。そこを無視して、「同性同士の結婚は子どもが作れないからダメ」「少子化を促進する」「家族の形が壊れてしまう」といった非論理的な批判をしても議論にならない』という意味だろう。

要は、「理屈が破綻している点で既にそれが感情的な問題に過ぎないことを示している」という指摘だ(それを柔らかめに、該当者の感情を慮りながら言っている)。*1


大体その通りだと思うが、一方で私は別のことも感じた。

もしセクマイの権利を守る施策に反対する人々が、自分の中の嫌悪感を自覚していて、その上で、というかだからこそ「嫌悪感の表明」をするのはマズいと思っていたらどうだろう。

(「気持ちが整理できない」はまだしも)「生理的にダメ」などと言っては直接セクマイの人々を逆撫でするだろうし、議論の俎上にも上げてもらえない。だからそこは隠して理屈で反対しよう、という”配慮”が彼らの中にあったとしたら? そういう人はいると思う。

そこに、「理屈が破綻している点で既にそれが感情的な問題に過ぎないことを示している」と冷静なツッコミを入れ、そのなけなしの”配慮”もなかったことにして「感情に素直に」に一気に行っちゃうというのは‥‥どうなんだろうか?というのが少しある。


人の感覚や感情は、理屈では制御できない。だが一方で人は社会的な動物である以上、建前というものを作る。表に出しづらい本音を建前で包んでコミュニケーションすることで、互いに不要にぶつかり合って疲弊しないように配慮する。

どうしても「嫌だ」ということを言いたい場合は、その感情が必然であり一定の人々が精神的損害を被るばかりではなく、社会的に悪影響を及ぼす可能性があることなど、きちんと理屈をつけて正当性を主張する。その理屈でより多くの人を、「なるほど確かにそうだ」「そうしたほうが社会的に利があるな」と思わせたほうが勝ち。

もっともすぐさま、「それだとこっちの立場はどうなる?」という文句や批判が来て議論が振り出しに‥‥という可能性はあるが、一応かたちとしては理屈で勝負ということになっている。その手続きを全部すっとばして、「とにかくお前らが気に入らないだけだ」と言ってしまったら終わりだ。あのトランプだって、傍から見れば「それ、個人的に気にいらないだけじゃないか?」と思えることにも、一応理屈はつけている。社会を作り変えていく政治、政策を前提にして考えれば、そう振る舞うしかない。


そこからすると、「下手な建前(理屈)は崩れてるんだから、本音(感情)出せば?」は真逆である。

もちろん千葉市長が、人々の嫌悪感情を頭ごなしに否定しない(それだと逆効果)という作戦を取っているのはわかる。が、普通なら、「人間は感情でできているが社会は理屈で作らねばならないので、セクマイの権利を守る施策に反対する人々は、単なる嫌悪感情ではなく、問題点について説得的な論理を展開してみせてほしい。政策はあくまで理屈で議論しよう」と言うところだ。

ヘイトスピーチをやんわり封じた上で、理屈勝負に持っていって勝つ。それを辛抱強く繰返して、徐々にコンセンサスを得ていく。


問題は、そういう「普通の正統派の言い方」ではもう先に進めない、感情的に反発する人々を包摂できない、むしろ「普通の正統派の言い方」をすればするほど壁に頭を打ちつける、だけでなく、事態を良くないほうに引っ張っていくことになりかねない‥‥ということなのだろう。

かといって、思い切った言い方をすれば、「逆張り」だとか「ガス抜き」だとか誹られる。いろいろ気を遣いどうとでも取れる言い方をすれば、いらん支持やいらん反発が来てしまう。

すべての言葉が何らかの政治に触れてしまう中で、いったいどういう言い方をすればいいのか。どうやったら、あっちとこっちを架け橋し「相互理解」を実現できるのか。‥‥って書いただけで、もはや使い古された「普通の正統派の言い方」感が漂ってくる。誰でもジジェクみたいに語れるわけではないし。

こういう危機感とそれに伴ううっすらとした絶望感は、為政者のみならず、何かものを言わねばと思っている人々の中に広く潜在しているのではないかと思う。

*1:付け加えれば、こうした「嫌悪感」を一律に理屈で教化することは無理であり、個人が出会い個人として知り合う中でしか解消されていかない面はある。映画『メゾン・ド・ヒミコ』はそのあたりの、マジョリティの感情の揺れ動きや変化をよく描いている。講義で使っているが、このような物語を通して、固定的イメージが変化し偏見が和らぎ感情に影響を及ぼす可能性はあると思っている。