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2017-09-08

太陽フレアのせいで

太陽フレアのせいで犬が日本語を喋り出した。

虫の話し声も聞こえてくる。

自分が聞いたことのない言語で喋っているのを聞く。

という朝が来たら素敵だったな。


太陽フレアのせいでネット上の

すべての論争がどうでもいい些事になり、

夕ご飯に何食べるかが最重要課題になっていた。

そんな朝は来ないんだな。


でもみんなわかっているはずよ。

犬や虫のお喋りはなんとなく聞こえてくるし、

自分が何言ってるかはちっともわからないし、

ネットの論争なんかどうでもいいことで、

今日の夕ご飯が一番大切だってことを。



Twitterで詩がひとつ書けたので私もパターソンに一歩近づけた気がする。

 気に入った人は勝手にメロディつけて歌っていいですよ♪ )

2017-08-24

温厚なクマと利発なリス‥‥中年夫婦の店に見る安定のパターン

私は普段外食はほとんどしないけれど、夫が単身赴任先から帰ってくると、一緒に行く近場の店が何軒かある。

いずれも中年の夫婦でやっている、カウンター中心のこじんまりした和食屋や居酒屋。値段はわりとリーズナブルで料理は普通に美味しく、何よりくつろげて居心地がいい。

自分たちと年齢の近い夫婦がやっているからそう感じるのかと思っていたが、それ以外に共通点があることに気づいた。


包丁を握る旦那さん *1 は見かけノッソリしていてあまり喋らないが、こちらから何か聞いたおりに口を開くと、どことなくユーモラスな人柄がうかがえる。奥さんは小柄で、シャキシャキしていて明るい。

動物に喩えると、温厚なクマと利発なリス、みたいな感じ。

今月初めに観光で新潟に行き、夫のマンションの近くの鮨屋に連れられていったら、やや年代は上だったがやはり見事に同じパターンだった。良い店、旨い店はたくさんあると思うが、自分たちが安心できるのは、こういうバランスの夫婦の店だと思った。


これが逆に、旦那さんが陽気で口数が多くて、奥さんがいかにも陰で支えてますという風味だと、なんか落ち着かないのだ。

まあ調理担当の人は仕事中あまりペラペラ喋ってほしくないし、接客の人は明るい方がいいという基本的なこともあるが、夫婦の関係性として見ていても、その方が何となく収まりが良く見える。

‥‥という話を夫とした後で、ちょっと考えた。


今の50代から60代というと、その親世代は高度経済成長期、夫が外で働き、妻は家事育児に専念していたケースが多いと思う。自分たちの生活スタイルはそれとは違ってきているし、「男女平等」は当たり前のこととして頭では理解しつつも、感情や感覚的なところは保守的な部分を残している。

お店でも、包丁を握っているのは旦那さんであり、夫の側が店の「主人」となっている構図は従来的なものだ。でも見た目の関係性としては、旦那さんが大人しめで奥さんが活発、旦那さんがボケ役で奥さんがツッコミ役、となっている。

それによってある種のバランスがとれて、安心できる感じが醸し出される。そこに、長年一緒に暮らし一緒に仕事をしてきた人同士の、一朝一夕では作れない安定感が加わる。


もちろんこちらの知らないところでは、いろんなことがあったんだろう。それはこちらも同じ。でも、何とかかんとかここまで来た。お互い、まあ頑張りましたよね‥‥‥。そんな同世代・同族意識が、カウンターの向こうのクマさんとリスさん見てると、自然と共有できるような気がしてくるわけです。

旦那さん=リス、奥さん=クマのパターンも、乙なものだと思う。小柄でよく動く職人肌の旦那さんと、どっしり構えた貫禄のある奥さん。ノミの夫婦。


ちなみに私のところは2人とも小柄なので、ビジュアル的には面白みがない。夫はいろんなことを次々思いつきで喋る人で、こっちはもっぱら聞き役。そして時々変なところをツッコむ。口数は(外では)夫の方が多めだが、やはり同じボケとツッコミのパターンになっているようだ。

*1:「旦那」や「主人」という言葉、夫婦に上下関係が持ち込まれている感があるので、あまり好きではありません。「その言葉は性差別を含んでいる」と批判する人もいると思います。が、世間では通りのいい言葉なので、対人的には「旦那さん」「ご主人」などと使うことがあります(自分の夫は「夫」です)し、ここでも他に適当な言葉が見当たらないので使ってます。「奥さん」も同様。あえてカタカナで書くことも考えましたが、不自然に見えたのでやめました。

2017-06-28

自己実現と失敗と書くこと

内輪の読書会の後の飲み会で、2人の知人に意見をもらったところから、ツラツラと考えたことを書き起こす(Twitterより)。


U氏とK氏は私の思想的基盤(らしきものがあるとして)形成にとって重要な人物だが、「美術家廃業から始まった大野の今のあり方はまだ不徹底だ」とU氏は言い、K氏は「逆に、世俗に塗れ悪魔に魂を売り渡して人並みに苦しんでないのが弱みだ」と言う。生き方について真逆のことを言われている。

共通するのはおそらく「楽なところで自己実現しようとするな」だろうと思う。「楽」かどうかは相対的なものなので措いといて、「書く」ことは自分にとって自己実現なのだろうか。という問題について、改めて考える。


自己実現を超えた価値とはどういうものなのだろうか。ある人は「社会を変えようと志すこと」だと言う。私の書くものにはそれが希薄だ、つまり自己実現に留まっていると。

たとえば、芸術には自己実現を超える価値があり、それは社会に影響を及ぼすという考え方がある。美術家の頃、私は素朴にそう思っていた。だがある時から、社会は芸術の影響によって変わるのではなく、社会の変化に伴って芸術の様態も変わる、ということに過ぎないのではないかと思い始めた。

己の自己実現とともにある「いつか何かが良い方向に変わるんじゃないか」という期待は、裏切られるのではない。ずっと期待のまま維持され、そのうち諦観と腐敗に辿り着く。残った自己実現願望には多少の後ろめたさが伴うだろう。これは私が美術作家活動を通じて体感したことだった。

その芸術で救われる人もいるわけだからそれでいいではないかという視点もある。ここで芸術で救われるとはどういうことかという問題が出てくる。この世の中が少し生き易くなるということだろうか。ならばそれは芸術でなくても宗教でも恋愛でも家族でもいいかもしれない。実際そういう場面は多い。


一方で、民主主義が、民主主義の理念と矛盾する欲望(たとえばメシア願望)を育てているように見える。ある日、救世主や天才が現れてすべてを解決してくれたら、という。そこで人々は挫折した自己実現をその一人の救世主や天才に託す。藤井四段礼賛と安倍批判は表裏一体のものではないだろうか。

私の中にもメシア願望がないことはない。「平等」への疑い。この社会での凡人の自己実現は、何かの諦観や腐敗と手を切れないのではないかという認識。であれば、そうした自己実現の失敗として、「うまく失敗すること」として、「書く」ことを位置づけ直すことはできないだろうか。

2017-06-16

下駄の季節

昭和30年代後半から40年代が私の子ども時代で、当時、普段履きに下駄を履いている人がまだ普通にいた。きものや浴衣だけでなく、洋服の普段着に下駄を履く。

家の玄関の上り框にはいつも、父の大きくて四角い朴歯の下駄があった。子どもの頃から下駄を履き慣れた世代である。それを履いて父は、幼い私をよく散歩に連れていった。私の歩みに合わせてゆっくり歩いている時の、カラン、コロンという長閑な下駄の音を朧げに覚えている。

母は下駄ではなくサンダル履きだったが、祖母はよく普段着のワンピースに下駄をつっかけていた。今ならそのままコンビニに行く感じ。


3歳頃、戸外で撮った写真がある。セーターにフラノのような襞スカートなので秋かと思うが、素足に下駄。片足だけ、人差し指と中指の間に鼻緒のつぼをひっかけている。子どもなので適当な履き方をしている。

同じく下駄を履いた妹とあちこちポクポクほっつき歩いて帰ってくると、台所にいた母の「そのまま上がっちゃダメ!」という声が飛ぶ。そして勝手口のところで、「まぁどこを歩いてきたの」などと言われながら、汚れた足(まだ舗装されてない道もあった)を固く絞った雑巾で拭いてもらって、茶の間に上がる。

夏に浴衣を着せてもらった時は、少し上等の下駄を履けるので嬉しかった。


小学校を卒業する頃は、すっかり下駄からも卒業していた。浴衣を着ることもだんだんとなくなり、下駄からますます遠ざかった。

ただ、都市圏でも70年代の終わり頃までは、ジーンズに下駄履き男子が少数ながらいたと思う。私は東京の美術予備校でそういう人を目撃した。ちょっと特殊かもしれないが、中村雅俊が下駄履きでデビューした影響力がまだ残っていたのだろう。

そして、久しぶりに帰ってきた実家では、父の下駄はいつのまにか消えてスリッパのようなサンダルに変わっていた。

地方の町の商店街などに時々いた、洋装にタビックスを履いて下駄をつっかけたおばあさんをとんと見かけなくなってから、どのくらい経つだろう。


数年前からきものを着始めて、下駄に再会した。

まず草履に慣れ、次いで下駄で歩き回るのに慣れて、下駄が楽しくなった。草履より気取りがなくて、さっぱりしているところがいい。何といっても涼しい。足の指を思い切り伸び伸びと広げることができる。足が寛いで、気持ちも寛いでくる。

夏は、浴衣以外では麻などのカジュアルなきものしか着ないので、下駄の出番が多い。


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今やサンダルより多くなってしまった。新品も貰い物も。


私はもっぱら、歩きやすい右近(二枚歯ではなく低めのポックリのような形)を愛用しているが、時々駒下駄(二枚歯)も履く。駒下駄は粋だし、カラコロといい音がするのが魅力だ。

レストランや美術館など音を立ててはいけないところには履いて行けないが、舟形で裏全面にゴムの貼ってあるのは音がほとんどしないので、足袋を装着の上で美術館にも履いて行く。ぱっと見は草履に見える(画像左上)。

塗りの下駄は美しいが、前の角の塗りが剥げやすいのが難点。爪皮を被せ、もっぱら雨下駄として使っている。


下駄ほど、のんびりした無防備な履物はない。二枚歯は砂地ではめり込むし、コンクリートの上は若干反発が強い。石畳や細かい砂利道が一番歩きやすい。

そんなものを履いている時に、もし災害に遭ったらどうするの?と思わないこともない。帰宅困難者になったら、右近はまだしも駒下駄で長距離を歩くのは、ちょっとしんどいかもしれない。

非常時用に、折り畳めて軽い携帯用のペタンコ靴とかあると便利だ。


きもの研究家の山下悦子が『きもの歳時記』の中で、下駄について書いたくだり。

 草履は音をたてないで歩くもの、下駄は音をたてて歩くものである。

  [中略]

 のどかなそぞろ歩きの下駄の音は、足首や躯の緊張を解きほぐすだけでなく、 心の屈託も追いやるようだ。かたかたと小さな足音でそれとわかる子供、心せくままの前のめりの足音。律儀さは足音ばかりでなく、歯のへり具合にもあらわれる。同じ「からん、ころん」でも、『牡丹灯籠』の下駄の音は怪談に凄みを添える。


思い出したのは『ゲゲゲの鬼太郎』だ。♪カラーンコローンカランカランコロン‥‥

そして山下悦子は、下駄は「平和の象徴」であり「集団には結びつかない特性がある」と書いている。ここで下駄の対極に置かれているのは、軍靴である。

たしかに軍靴に集団性はつきものだし、マンガなどでもその足音は「ザッザッザッ‥‥」という、行進する集団の音として表記される。のんびりした「からん、ころん」は、「ザッザッザッ‥‥」にかき消される定めである。

72年前、学徒動員で行った戦争が終わり、軍靴を脱いで、戦前と同じく下駄を愛用する日常に、二十歳の父は戻ってきた。

一緒に散歩した時の長閑な下駄の音に、時々、上機嫌な父の口笛の音が混じっていたのを思い出す。



新装版 きもの歳時記

新装版 きもの歳時記

2017-05-24

散歩道、キラキラしたものは一つもなく、空が広い

曇り空の下、散歩に出た。比較的涼しいが湿度は若干高め。

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イチョウの木々がざわざわと話しかけてくる。夜は野鳥のねぐらになる。

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乾ききった田。雑草は刈られているので、そのうち水が入るはず。

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水の入ったばかりの田。向こうの木立は猫たちの隠れ家。

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繊維工場とその宿舎。外国人労働者が住んでいる。このそっけない建物が妙に好き。

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ところどころに咲いているオオキンケイギク。オレンジがかった黄色い花はよく目立つ。

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マツバギク。全体が一つの生きもののようで、じっと見ているとこわい。

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新旧の家。写っていないが手前は玄関脇に洋間をしつらえた、戦前に流行した造り。

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廃屋。去年までは住人がいて裏庭で犬も飼っていた。

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畑の隅に、打ち捨てられたように一輪だけ咲いていたアマリリス。

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帰宅。家の前に生えているムラサキカタバミ。間からクチナシとユリの葉が出てきてカオス。しかしこの色の混ざり具合がいい。

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キラキラしたものは一つもなく、のどかなような殺風景のような、空だけが広く見える、私とタロのいつもの散歩道。