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2007-03-27

日本の純愛史 16(最終回)『星の金貨』、マレビトの奇跡 -90年代(2)

九十年代のテレビドラマで目立っていたのは、『ピュア』『ひとつ屋根の下』『家なき子』など障碍者が登場するドラマである。そこでは概ね、障碍者=純粋な心をもった者という設定で作られていた。

純愛ドラマで粘り強く愛を貫こうとするのも、障碍者の方である。聴覚障碍者が主人公の『愛していると言ってくれ』と『星の金貨』の人気で、手話を習う若者が急増という現象まで起こった。


『星の金貨』(酒井法子大沢たかお竹野内豊細川直美)では、恋人の記憶喪失というもっと強力な純愛の障害によって、ただでさえ「弱者」である聴覚障碍者のヒロインが、散々辛酸を舐めるという話。人気に乗じて『続・星の金貨』『新・星の金貨』が作られているが、ここでは大ヒットとなった最初のドラマを取り上げよう。

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両親に捨てられた聴覚障碍者の彩(酒井)は、北海道の片田舎の診療所で医者の秀一(大沢)の助手をしている。ある時、東京の大病院の息子である秀一は親から呼び出され、帰って来たら彩と結婚することを誓って北海道を発つ。

その後音信不通となった秀一を探して彩は東京に出て来るが、彼は事故で記憶を失っており、その事故で知り合った祥子(細川)に愛されている。

彩は秀一の勤務する病院で働き彼に献身するものの、二人の仲は秀一の記憶喪失によって立証不可能になっており、彩を思い出せない秀一と祥子の関係が進展していく。

祥子は大会社社長令嬢で、いかにも育ちの良さそうな華やかな美人。それにひきかえ、彩は身よりのない貧しい小娘。もう昔の少女マンガによく出てきたような、鮮やか過ぎる対比である。

彩は秀一に「私があなたの婚約者」と伝える勇気がなく、大病院の御曹司の秀一とは社会的に不釣り合いである自分の立場に"引け目"を感じつつ、いつか彼の記憶が蘇るのを信じて辛抱強く待っている。その精神構造は、『愛染かつら』のかつ枝と似ている。

一方、秀一の弟、拓巳(竹野内)も病院の勤務医なのだが、優秀な兄に嫉妬し、彩が兄ばかり追いかけるのも気に入らず、不貞腐れて遊んでいる。これまた鮮やか過ぎる対比だ。


さて、大怪我をした彩の執刀医となった秀一が、手術の最中突然宙を見つめてつぶやき出す場面がドラマのピークである。

「身よりのない貧しい少女が、一切れのパンを持って歩いていました。その少女は‥‥」

秀一と彩の過去を繋ぐキーモチーフのアンデルセン童話である『星の金貨』の、出だしのフレーズだ。貧しい少女が自分よりも貧しい子供達にいろいろなものを分け与え、最後は裸同然で歩いていると、空の星が金貨となって降ってくるという話。

「金貨」は、自己犠牲を厭わない底辺の弱者に、最後にもたらされる天の恩寵である。秀一はかつて北海道時代に、彩に手話でその童話を語り聞かせ、いつも「彩の上に星が降る」と締めくくっていたという伏線がある。


ようやく空白の二年間を取り戻した秀一は彩に改めて愛を誓い、祥子に「結婚できない」と告げるのだが、祥子の妊娠が発覚して責任を取らざるを得なくなるというジェットコースターのような展開。

絶望した彩は入水自殺を図るが患者に助けられ、諦めて北海道に帰ることを決意。

空港まで追いかけてきた秀一は再度「北海道で結婚しよう」と言うが(ってもう祥子と結婚式挙げてしまった後)、彩は「あなたの子どもに私のような思いをさせないで。私は後悔してない」と涙目の笑顔で去っていく。


つまりヒロインの努力は報われない。ほぼ一方通行の愛である。その代わりに、逆境の中で彼女の中に芽生えていく「強さ」がテーマとなっている。

それは、拓巳との絡みでよく描かれている。うるさくつきまとう拓巳を拒否しつつ、彼の怠惰な姿勢を叱りつけ、医者としての自信をなくした拓巳が「俺を殴れ!俺の中の臆病を殴り飛ばせ!」(こういう大袈裟なセリフが多い)とすがりつけば、容赦なく平手打ち。まるで厳しいおかんである。

そもそも「北海道」という彼女の出身地がキーだろう。

北海道の大自然に生きる人々は、どこまでもピュアで心が広く芯が強く、母なる大地並みのスケールの愛に溢れている。実際はそうでもないかもしれないが、そういうイメージがある。


ドラマ全体を見ると、大病院の中に渦巻く陰謀やワルモノ理事の悪事などドロドロしたところは、火曜サスペンス劇場のノリだ。

涙や平手打ちや取っ組み合いがよく出て来るところは、人情刑事もの。

記憶喪失や、異母兄弟である秀一と拓巳の、彩を巡る確執などは、後の『冬のソナタ』のモチーフと似ている。

登場人物が多く関係が運命的に絡み合っていくとこは、まるでドフトエフスキーの小説のような重いノリ。

童話は「星の金貨」だけでなく、「人魚姫」も入っている。

溺れた王子を助けて彼に一目惚れし、魔法使いに頼んで人間にしてもらった人魚姫は口が訊けないので思いを伝えられず、彼女が自分を助けたとは知らない王子は他所の国の王女と結婚し、人魚姫は海に身を投げ泡と消える。ドラマ『星の金貨』は、それと同形の話である。

事実、彩は入水自殺する際、「あの人魚姫のように小さな水の泡になります。海になり土になり風になりそして星になり、あの人を永遠に守ります」という遺書を書いていた。


火曜サスペンス劇場+人情刑事もの+冬ソナ+ドフトエフスキー+童話。

強力だ。強力過ぎて、今見ると引く場面も多い。





同じ失恋と言っても、彩は『東京ラブストーリー』のリカとは対照的である。

リカは押しまくって自分のプライドを守るために別れたが、彩は引きまくって相手の幸せのために別れている。彼女の献身愛が、自分の幸せを願う以上に秀一の幸せを願うものである以上、この結末は避けられない。

自分の気持ちに正直であることを評価する人は、リカを支持するだろうし、自己犠牲に美しさを見出す人は、彩に感動するだろう。ただ九十年代の中頃に彩のようなヒロインが現れたのは、象徴的である。


まず、こんなにさまざまな屈辱を味わう女が、戦後の純愛ものに登場したことはなかった。

リカの失恋がいくら惨めだったとしても、彼女は自信に満ちた都会の"キャリアウーマン"であり、「負け犬」になるかもしれないが「負け組」になることはない女であった。

だが彩は、垢抜けない田舎娘で孤児で障碍者というハンディを背負った、根っからの"弱者"である。「一番弱い者がとうとう最後に幸せを掴みました」というお約束的結末も、採用されない。

しかし九十年代の半ばになって、一身を犠牲にすることを厭わない「おしん」のように耐える古典的なヒロインが出てきたのは、リアルな女を描いては純愛物語は成立しないという見切りがあったからだろう。

「おしん」で「おかん」。それが、九十年代中期の純愛ドラマが理想的に描いた純愛者(女)である。


彩は困難にメゲず、周囲の人々に惜しみない無私の愛を注ぎ、まるでマザー・テレサのようなあり方によって、病院の人々に認められ患者を感動させ、遊び人の拓巳を魅了し彼の改心まで促した。

しかし彼女の上に「星の金貨」は降らない。彩は最終的に、何もご褒美を手にすることがない。

彼女の純愛がもたらしたものは、その成就=「彼女の幸福」ではなく、「みんなの幸福」である。

病院は彩がそこに登場して以降、潜在していた「病根」が徐々に明るみになって混乱をきたし、彩の退場をもって「正常」を取り戻す。彩は、腐敗した共同体に亀裂を入れ再修復を促すマレビトなのだ。

彩の純愛の効果は、「みんなの幸福」というかたちで周囲に還元され、彼女を再び元の孤独にさし戻す。

本人に幸せは訪れないが、思いがけないプレゼントを周囲の人々に残す一種の「奇跡」として、純愛は描かれている。だから男女が結ばれない結末は必然だと言える。


周囲に還元された「奇跡」の効果は、拓巳に象徴的に表現されている。彼は医師としての自覚を取り戻し、投げやりな生活態度を改め、最終的には東京の大病院の勤務医の地位を捨てて、彩のいる北海道の片田舎の診療所までやって来る。

もちろん拓巳の純愛も報われないだろう。恵まれた環境に甘えてきた男が、初めて「自分の欲望」に従って生き方を選択したということだけが、純愛が彼にもたらした効能である。





戦後の純愛ものの大雑把な流れをまとめると、次のようになる。


a 五十〜六十年代‥‥‥乙女と青春、純潔純愛

b 六十年代末〜七十年代前半‥‥‥暴走と心中、挫折純愛

c 七十年代後半‥‥‥古典回帰、アイドル純愛

a'八十年代‥‥‥純愛暗黒時代、トレンディドラマ全盛

b'九十年代‥‥‥悲劇と無償の愛、命がけ純愛

c'二〇〇四年‥‥‥レトロと癒しと泣き、韓国風味純愛(詳しくは拙本参照)


各時代の傾向は、世相を反映しながら反復されている。そのことを示すために、a-a'、b-b'、c-c'という対応関係を作ってみた。

まず、なぜ純愛黄金期(a)と純愛暗黒時代(a')が対応するのか? 

五十〜六十年代(a)は、右肩上がり経済成長が始まった時代である。純愛映画から次々若いスターが輩出され、純愛往復書簡や手記がヒットし、ジュニア向けの純愛小説が量産され、純潔の若い恋が謳歌された。純愛それ自体が「流行もの」。つまりこの当時の純愛ドラマは、一種の"トレンディドラマ"だった。

日本が戦後空前のバブル景気で浮かれていたのが八十年代(a')である。この時期盛んに作られたトレンディドラマでも若手スターばかりが起用され、消費を背景とした若者の恋が謳歌された。

内容はまったく異なっても、若い女子に受ける「流行もの」としての位置づけは、両者同じなのである。


b-b'はわかりやすい。六十年代の学生運動に代表される政治的高揚感とその挫折の結果として、六十年代末〜七十年代前半(b)の純愛映画が悲劇的であったように、九十一年のバブル崩壊の結果として、九十年代(b')の純愛ドラマはシリアス路線だった。九十年代に、ファッションや音楽で七十年代回帰が起こっていたことも、この現象と符合する。

そして七十年代後半(c)に、カリスマ的アイドルがレトロな純愛物語を演じたと同様の現象が、二〇〇四年(c')に起こっている。cのカリスマは山口百恵、物語は古典文芸もの。c'のカリスマはペ・ヨンジュン、物語はレトロ趣味。

レトロと言えば、八十年代を回想した「セカチュー」も同様。セックスの匂いがしないところも、共通している。

こうした反復の中で、純愛は実際にはありえないもの、不可能なものとしてのイメージを強めていった。


明治恋愛至上主義は、純潔賛美の精神主義から始まり、やがて恋愛結婚流行の下地を作った(一九三五年、69.0%の人が見合いで結婚しているが、二〇〇〇年、見合いで結婚する人はわずか7.1%。一方一九三五年、13.4%の人が恋愛結婚しているが、二〇〇〇年、恋愛で結婚する人は86.6%。逆転は六十年代半ばに起こっている)。

現在まで引き継がれている純愛ものの核心たるテーマは、もう純潔でも恋愛結婚に至る道でもなく、「相手の唯一無二」性である。恋愛ドラマでよくあるように、別の相手との間で揺れ動くことなく、主人公はほぼ迷いなく、自分にとって唯一無二と信じる対象に向かっていく。相手への信仰に近い愛が、純愛である。


「連載のはじめに」で、私は純愛を「任侠」になぞらえた。「純粋でベタマジで思い込んだら命がけ」。

大義や理想に全人生を賭けられる人は、幸せだと思う。自分の生と引き換えにしてもいいほどの何か。普通の人間にそんなものはない。それは、「ありえない、不可能なもの」だ。

しかし生の無意味さに、四六時中向き合っていくことはできない(人生の無情さや無常さに向き合い耐えることはできても)。そこで人は生き甲斐を見出し「人生の意味」を作り出す。意味の濃度が高まると、そこに「唯一無二」性が求められる。だから純愛はもともと、相対化や多様性とは対立している。


信心が嵩じて死に至ることもある。

ラース・フォン・トリアー監督の『奇跡の海』は、純愛を信仰に変え「殉教」する女の話だった(当ブログ内映画評はこちら)。純愛は「ひたすらな愛」であり、相手とずっと共にいることを求めるものであるのに、それが極限まで追求されてある閾を超えてしまうと、純愛そのものをつまり自らをぶち壊すのである。

純愛は突き詰められると自壊する。純愛者は「向こう側」に突き抜ける。

アートにとてもよく似ている。

2007-03-19

日本の純愛史 15 『この世の果て』にみる純愛の限界 -90年代(2)

純愛とは、「一身を犠牲にすることをいとわない、ひたむきな愛情」(新明解国語辞典)。

これが思い切りベタに描かれたのが、『高校教師』で一躍名が知れた脚本家、野島伸司の悲劇の純愛ドラマ第二弾『この世の果て』(94年/鈴木保奈美三上博史桜井幸子、豊川悦治、大浦龍宇二、横山めぐみ吉行和子)である。

都市(東京)がまだバブルの中で眩しく描かれていた『東京ラブストーリー』(91年)に対して、このドラマの東京は砂漠のようなまさに「この世の果て」。

女のために地位と名声を放棄した男と、男に究極の献身を捧げる女を中心に、様々な人物の愛憎が描かれた。ここでは主人公の士郎とまりあに絞って見ていこう。


天才ピアニストの士郎(三上)は、路上で偶然助けてくれたホステスのまりあ(鈴木)と離れ難くなり、連れ戻しに来た妻の前で自ら片手を切り裂きピアニスト生命を断つのだが、ピアノを弾くしか能のない男にロクな仕事はなく、まりあのヒモ的存在になり下がった自分に苛立って荒んでいき、二人を妬むホステス、ルミ(横山)の罠にかかって覚醒剤中毒となりしまいにはヤクザに追われる身に‥‥という悲惨極まりない展開である。

毎回これでもかというほど不運が二人に襲いかかり、ぐったり疲れるドラマであった。

一番疲れるのは、まりあが明るく気丈で献身的であるのに比例して、士郎が精神的にどんどん腐っていくところである。

仕事にあぶれ、毎日女から昼食代をもらって大人しくお留守番の毎日。ほとんど"飼い犬"と化した男のプライドが傷つくのは、女より優位に立てるところが何一つないからだ。

女が男より優位に立てるところが何もないとプライドが傷つく、という話はあまり聞いたことがない。女がそういう関係を受け入れるのは、"飼い犬"に甘んじてきた歴史が長いからかもしれない。


まりあは、ヒモ男を責めることもなく養い、「俺の手を返してくれ」などと理不尽なことを言われても耐え、士郎の暴力(覚醒剤による錯乱)が原因で子供を流産したにも関わらず、自分に掛けた保険金の受け取り人を妹(桜井)から彼に書き換えて、飛び込み自殺(失敗)まで敢行する。

非現実的なほど出来過ぎな女、"聖母"まりあ。

いくら好きでも、なんでそこまで? 


その背景と思わせるのが、まりあの子供時代のトラウマ話である。

彼女は少女時代、親に愛されていないという思いから自宅に放火し、父を死なせ妹を失明させた過去をもつ。今は手術費用捻出のために昼夜働き、ある意味で妹べったりの姉になり、それが原因で妹との間に確執が生じている。

つまりまりあは、贖罪意識によって過剰に献身的な「母親」ぶりを発揮してしまう女である。男がダメになればなるほど頑張るのも、同様のメンタリティだ。苦しみに依存しそれを快感とするのは、悲劇的な状況にナルシシズムを感じる「女の業」にも見える。

彼女は、薫(101回めのプロポーズ)や繭(高校教師)と基本的に同型である。

つまり野島伸司の描く純愛に生きる女は、皆「不幸を背負った病んだ聖母」タイプである。そういう女を「理想」として描くところに、「そんな女、いるわけねぇよ(‥‥でもいてほしい)」といった野島伸司の捩じれた願望がうかがわれる。


またこのドラマの場合、ある決定的な過去がその人の人格に大きく影響しているという設定は、ヒロインだけでなく、登場する人物の大半に及んでいる。

彼らの行動の逸脱は、すべて過去にあった「愛の喪失」の結果として描かれる。

たとえば、まりあの母(吉行)は二度夫を失うという体験のために、今は虚無的な毎日を送り、士郎は愛情のない妻に管理されたピアニストだったから、まりあの「無償の愛」に溺れ、まりあの客で実業家の征二(豊川)は妾の子という生い立ちだったから女を憎み、まりあの妹へ想いを寄せる淳(大浦)は元コインロッカーベイビーで顔に醜いあざがあったから、根性がひねくれてストーカー化し、ホステスのルミはレイプ被害時に恋人に逃げられたという過去のために、カップルを破滅させたいと思うようになり‥‥。

その他、結婚式前日に事故で植物人間になった妻を看護し続けて、そこらの「犠牲的精神」は信じなくなった医師や、かつてルミに騙され妻殺しをさせられて復讐に燃える男など、息苦しくなるようなトラウマと不幸な過去のオンパレードだ。

描かれるのはネガティヴな人物像であり、屈折していない者はほとんど登場しない。登場しても花屋の夫婦のように、善意が災いして思わぬ犯罪を呼んでしまい不幸になるという調子。一方、底辺で生きる者や罪に苦しむ者は、幸せを掴むために並々ならぬ苦労を強いられ、それが報われるとは限らない。


映画や小説においても、90年代は「トラウマ流行り」であった。

純粋な愛が外的障害(貧困、社会、他人の嫉妬)によって阻まれているような筋書きを作りながら、本当の原因は個人のトラウマ=「心の闇」にあるかのように思わせるこのドラマの作りは、明らかに当時の流行に従ったものである。




純愛を描くのに、献身や自己犠牲は「効果的」だからよく使われる。まりあの一途な行動は、他の人物に様々な影響を与え、視聴者を圧倒する。

しかしそれが愛情の純粋さ、深さによるものなのか、彼女の病理あるいは「女の業」に由来するものなのかは、冷静に見ると実に微妙だ。


最終回で世間一般的な幸せを掴みかかったまりあに、最大の「不運」が訪れる。

士郎を覚醒剤中毒から救い出すにも関わらず、元のさやに収まってはまた相手をダメにすると考えた彼女は、征二(豊川悦治)のプロポーズに応じるのだが、岸壁でこっそり見送る士郎の姿を結婚式を挙げる教会に向かうヘリの窓から発見したとたん、思い出が走馬灯のように頭を駆け巡り、なんとヘリから東京湾にダイビング。

玉の輿まであと一歩で、すべてが元の木阿弥となる。

私なら、散々人に甘えて迷惑をかけ続けた一文無しの士郎より、大金持ちで自分のことを大切にしてくれそうな征二の方に行くだろう。まりあによって初めて愛情に目覚め、ヤクザに大金払って士郎から手を引かせ、思わぬ流産で妊娠不能な身体になった彼女を引き受ける征二の方が、百倍信頼できそうだ。みすぼらしい野良犬みたいな三上博史を最後に見つけてドキッとしても、見なかったことにする。

ドラマを見ていた大半の女はそう考えただろう。もうトヨエツにしとけと。


しかしまりあは、決して"野良犬"を捨てることができない。士郎は自分が初めて心を開くことのできた男であり、自分のためにピアニストの一生を棒にふったのだから、自分だけが勝手に幸せになるのは、やはり無理だということなのだ。

彼女のような女にとって、最後に士郎を偶然見つけてしまったのは、「不運」というより「宿命」である。

一命をとりとめたが植物人間になったまりあを、士郎は"奪還"する。

「君を失うことで君を取り戻したのだ」「僕の未来を君に捧げる」

記憶と意志をもったヒトとしての女は失われたにも関わらず、士郎は「取り戻した」としている。そこで初めて彼が、人形のような彼女より"優位"に立てるのだとしたら、皮肉な運命だ。男女のどちらにとっても、ヒロインが死んで男が回想するという古典的パターンより、残酷な結末になっている。


視聴者は、まりあの派手な自己犠牲シーンに目を奪われ、究極の純愛ものを見たような気にもさせられた。『この世の果て』は当時、相手に対価も代償も求めず、死すら恐れない「無償の愛」を描いた感動ドラマとして受け止められた。

しかし、男女はすれ違ったままで終了する。ここには、「幸福で十全な男女関係」に対する根本的な懐疑が感じられる。このドラマは、純愛への憧れと純愛への諦念に分裂しているのである。


ただ、それまでの純愛ドラマにはなかったのが、純愛の底知れない「精算力」だ。

士郎はまりあと出会ったことで、生き方を全面的に変更した。天才ピアニストとしての地位と名声の放棄と、恵まれた環境と人間関係の放棄。その代償が大き過ぎたために、彼は底辺まで転落した。

まりあは、生き方を根本的に変えたというわけではない(彼女は終始一貫している)。士郎だけが、それまでのレールに乗った人生を破棄し、そこから時間をかけて別の生き方を選択した。

別の生き方とは、名もなく貧しく自分の十字架(自分のために廃人となった女)を一生背負って生きるということである。それは士郎が最初から求めていたものではない。純愛の延長線上で必然的に選ぶことになった、かつては想像もしなかった生き方だ。

一時的に転落したとしても、当初の望み通り憧れの女と結婚できた『101回めのプロポーズ』とは、そこが決定的に違っている。転落したまま二人だけの幸せに充足したいと願った『高校教師』の先を描いているとも言える。


純愛の底知れない「精算力」とは、夢の実現ではなく、純愛が破壊を通じて個人にもたらす思いがけない人生のリセットのことだ、というのがこのドラマの回答である。

純愛は、恋の成就というハッピーエンドや感傷的な回想に、当事者を留め置いてはくれない。まったく予期せぬところまで連れて行き、そこに置き去りにするものだ、と。そこまでを描いた点においてのみ、私はこのドラマを評価したいと思う。





さて、『101回目のプロポーズ』も『高校教師』も『この世の果て』も、男はかつての純愛黄金期の主人公のような青少年ではなく、青年期を過ぎた大人である。彼らは、社会的転落と引き換えにしか純愛をまっとうできない(九十年代後半の『青い鳥』『失楽園』も同様)。純愛は、今現在の状態を確保したままでは手に入らないものとして描かれている。

だが現実問題として、そんな究極の選択をできる人は極めて少ないはずだ。男が女のために進んで一生を棒に振るなど、ファンタジーの世界である。そもそも「そんな女、いるわけねぇよ」という諦観がある。

つまり描かれる女は、実は具体的な恋愛対象としての女ではなく、男が初めて自覚した「自分の欲望」そのものだと見るべきではないか。

「社会の欲望」(金銭欲、名声欲、物欲、消費欲、勤労意欲、学習意欲など、社会が人にインストールした欲望)を手放して、「自分の欲望」(何かあるいは誰かとの熱い緊張関係の中で一瞬一瞬を輝かせたいという凶暴な欲望)を生きることの困難さと自由。それがたまたま「純愛」という不可能な形を借りて現れているように思う。


従って男女関係という観点から見ると、恋愛の喜びとかせつなさとか醍醐味といったものは、ここではもはや重要な意味を持たない。

ポイントは、「自分の欲望」を生きることにおいて生じたリスクを、彼がどのように背負ったかという点である。

それがもっとも完成度の高い形で描かれたのが九十七年の『青い鳥』(豊川悦司夏川結衣)であるが、男性が主人公のドラマが続いたので、次回は『星の金貨』の分析でこの連載の締めくくりとしたい。(続く)

2007-03-11

日本の純愛史 14 『高校教師』のご破算願望 -90年代(1)

「純愛三部作」の後、純愛ドラマはシリアス路線を強めていく。立ちふさがる邪魔者。越えられない壁。追いつめられ苦しむ主人公。

となれば、『101回目のプロポーズ』が既にそのパターンだったが、コミカルなやりとりで笑いをとったりはしない。タッチはあくまで深刻ムード。

以下に、そうした純愛カテゴリに入ると思われる、当時話題になった一時間枠の連続ドラマを並べた。

放映当時、これらがすべて「純愛ドラマ」と銘打たれていたわけではないが、各種メディアでの紹介に際しては「究極の愛」「純粋な愛」という言葉が盛んに使われ、コメディタッチの恋愛ドラマや、恋愛と友情二本立ての青春ドラマ、家族や社会問題などを絡めて描いたヒューマンドラマとの差別化が意図されていた。


93年 高校教師(高校教師と女子生徒/二人の心中を暗示)

94年 この世の果て(元ピアニストの男とホステスの女/女が重度障碍者となる)

95年 星の金貨(聴覚障碍者の女と記憶喪失になった男/二人は結ばれない)

    愛していると言ってくれ(聴覚障碍者の画家と劇団員の女/二人は結ばれない)

96年 オンリー・ユー 愛されて(知的障碍者の男とモデルの女/二人は結ばれる)

    真昼の月(レイプ被害者の女とそれを支える男/女が立ち直る)

97年 失楽園(編集者と書道講師のW不倫/心中)

     青い鳥(独身の男と人妻の不倫/女が死に、男は服役後、女の娘と再会)

99年 神様、もう少しだけ(作曲家と元援交女子高校生/女がHIVで死ぬ)

    魔女の条件(高校教師と男子生徒/二人が結ばれることを暗示)


タイトルの並びが与える印象だけでも、バブルが崩壊し、地下鉄サリン事件や阪神淡路大震災に見舞われた90年代の、閉塞的な"世紀末気分"が漂っている。80年代末トレンディドラマの浮かれたタイトルとは、隔世の感。「純愛三部作」(『東京ラブストーリー』、『素敵な片思い』、『101回目のプロポーズ』)ですら牧歌的に思えてくる暗さである。

そして悲惨な結末が多い。「道ならぬ恋」も多い。夜九時や十時代にお茶の間に堂々と流すのはどうかと思われるような、ヤバい内容が盛り沢山。障害の種類も実に多様。

つまり60年代末から70年代にかけて作られた悲劇の純愛映画が、バージョンアップしてテレビに登場してきたのだった。


91年のリカや達郎の場合には、相手の感情の中に障害要素があった。すべては相手の気持ち一つであり、こっちはビリでも懸命に走ればよかった。そして最終回のラストでは、恋が成就してもしなくても、主人公はトンネルを一つくぐり抜けていた。

だがそういう話は、「頑張れ」「失敗しても明日がある」という言葉が、まだリアリティを失っていなかった時代のことである。

バブル崩壊以降の90年代は、トンネルの先が見えない時代だった。世論調査で「生活が楽になる」見通しや「世の中が良くなる」見通しのパーセンテージがぐっと下降し、自殺者や引きこもりが増加した。

明るい明日が見えないのにこれ以上どう頑張れと?ビリでも一生懸命走れ?もう疲れたよ‥‥そういったプチ鬱な気分が確実に広がっていった十年だった。


こういう状況で、人はますます外界から引きこもり、プライベートに向かっていくことになる。

そんな時期に流行っていたのが、「本当の自分探し」である。恋愛で言えば本当の「運命の相手」との出会いを信じて、あの男の次はこの男と彷徨い続ける「転職型」。

その一方で、80年代から続く「副業型」も増えていった。結婚相手と恋愛相手は別、この彼氏とあの彼氏は別用途というふうに、相手を目的に応じて使い分けるリスク回避志向である。

女性誌の恋愛特集の相談コーナーなどを見ると、よくこの二つの立場からの悩み事が掲載されていた。

「なかなか運命の人に出会えない」という「転職型」の人の相談には、「一人にすべてを求めないで、いいところだけもらえばいいんです。もっと気楽にいきましょう」。

「男を一人に絞れない」という「副業型」の人の相談には、「二人からいいところだけもらおうってのは、ムシが良すぎます。もっと真剣に考えなさい」。いったいどうすりゃいいの‥‥混乱する一方である。


こうした混乱に共通しているのは、たった一人に全力投球することへの恐れである。

もしかしたらその場限りかもしれない恋愛感情に身を任せ、行くところまで行くのはハイリスクだ。

しかしハイリスクだからこそ、それは憧れに転換し、特権化される。

「転職」や「副業」ではいつまでたっても満たされない。だったらいっそのこと、危険な博打に身を投じて燃え尽きてみたい。だって他に頑張れそうなことなんか何もないんだもん。

そういう要求に応えるかのように、恋愛ドラマの多くは現実社会のダークサイドや人間の心の醜さをエグっているものが多く、主人公が気の毒なほど辛酸を舐めるという展開だった。視聴者は「二人が早く結ばれてほしい」と半分位は思いつつも、後の半分は「もっと悲惨でグロい展開になってほしい」という暗い願望を禁じ得ないのであった。


上記のドラマのうち、放映時の反響がとりわけ高かったのが、『高校教師』。続編、新編が作られるほど視聴率を上げたのが『星の金貨』。原作の小説と映画のヒットが社会現象にまでなったのが、『失楽園』である。

障害はそれぞれ、立場の違い、恋人の記憶喪失、不倫で、主人公は、次々と社会的な試練に見舞われ窮地に陥る。言い換えれば、そこまで様々な障害を設定しないと、男女の愛を描いて視聴率を取ることが困難になっていたとも言える。





高校教師 DVD BOX

高校教師 DVD BOX


『高校教師』(真田広之、桜井幸子、赤井英和、京本政樹、持田真樹、渡辺典子、峰岸徹)の番宣コピーは「卒業する前に、女になっていく」。女子高生、繭(桜井)との偶然の出会いによって、真面目で平凡な男、羽村(真田)が徐々に社会的に転落し、その中で「自分の欲望」を自覚していくというストーリーである。

テーマ曲に使われた森田童子の『ぼくたちの失敗』も話題になった。70年代の喪失感とアンニュイの象徴のような昔の歌手が召還されて、それなりにハマってしまうくらい独特の暗く繊細なムードが、新鮮に受け止められたドラマであった。


ぼくたちの失敗 (CCCD)


各回のタイトルは、「禁断の愛と知らずに」「嘆きの天使」「同性愛」「僕のために泣いてくれた」「衝撃の一夜」「別れのバレンタイン」「狂った果実」「隠された絆」「禁断の愛を越えて」「僕たちの失敗」「永遠の眠りの中で」。

悲劇的な展開の中に散りばめられるのが、男を憎むレズビアンの女生徒や、人気教師による女生徒レイプや、父と娘の近親姦関係(というか性暴力)など、それまでテレビドラマでは決して描かれることのなかったモチーフである。若い女性が家族と一緒に見るにはためらわれるような内容だ。

しかし番組HPの感想欄などを見ると、「あんなにハマったドラマは後にも先にもない」「ハマり過ぎて周囲に危ない人と見られていた」など、視聴者をいかに釘付けにしていたかがうかがわれる。


ドラマには毎回、主人公の高校教師、羽村のモノローグ(基本的に繭に語りかける言葉)が挟まれる。

「あの時の僕たちは、砂の城を築こうとしていたんだね」とか。

「あれから僕たちは、すべてを失ってしまったね」とか。

つまり『野菊の墓』に始まる古典的な純愛物語と同じ、男の回想ドラマなのである。

モノローグはナイーブというか湿っぽいというか、まるで昔の純情文学青年のような語り口。そのもってまわったクヨクヨぶりが男の生真面目さと若干の不安定さを現しており、「母性本能を刺激する」ということでウケていたようだ。

ヒロインの繭にしてからが、初めて女子校に赴任した頼りなさそうな羽村に、「あたしが守ってあげる。守ってあげるよ!」などと言っている。高二の女子が三十男に向かって。


学校で孤立気味な繭は、羽村を慕って何かと寄ってくる。羽村も顧問になったバスケ部で生徒達からの教師イジメに遭い、赴任早々落ち込んだりしているが、繭には教師らしい語りをしようと試みる。

「人間には三つの顔がある。一つは自分の知る自分。二つ目は他人が知る自分。もう一つは、本当の自分」

「ほんとの自分はどうしたらわかるの?」

「さぁ‥‥きっと、自分が何もかも失った時にわかるのかも」

既にドラマの二回目で、「何もかも失う」自分の人生を予言している。

羽村は元は事なかれ主義の常識人であり、本業は生物学の研究者で、大学教授の娘との婚約も決まっていた。たまたま今は慣れない女子校教師の立場に甘んじているが、ゆくゆくは研究室に戻り学者の道を順調に歩いていくという人生設計を立てていた。

しかし婚約者にもその父の教授にも裏切られ、繭の前で「僕は‥‥何もかも失ってしまった‥‥。ささやかな未来も‥‥」と、感極まっておいおい泣く始末。それに共鳴して一緒に泣いてやる繭のメンタリティは、ほとんど「母」である。

一旦は道徳と世間体を優先しようとする羽村だが、互いに孤立した者同士で引かれ合い、二人は結ばれる。しかし繭の父の二宮は、死んだ妻にそっくりの繭に執着しており、繭は父親との間で性関係を強要されていたという異常な展開。


番組HPに当時のTV雑誌から転載された伊藤一尋プロデューサーの談話によれば、「近親相姦」は刺激を求めてのプロットではなく、ギリシャ神話みたいなものをイメージしていると、脚本家の野島伸司は語っていたようだ。

ギリシャ神話、ではないがギリシャ悲劇の近親相姦と言えば、オイディプス王の物語である。

オイディプスは、「親を殺すだろう」という神託を受けたために、生まれてすぐ捨てられ遠い国で育ったが、旅の途中たまたま道で争った男を父と知らずに殺して王の座につき、その妻を母と知らずに娶り、すべてを知った後、自ら盲となって放浪する悲劇の主人公である。

ドラマでのそれは、直接的には二宮(父)と繭(娘)の関係を指すが、実はそれは表面的な設定と私は見る。

羽村(落ちこぼれの息子)と繭(精神的母)の許されない関係こそが、真の近親相姦である。その仲を引き裂こうとする二宮は、繭の心と体を縛りつけている「夫」。羽村にとっては強圧的に立ちはだかる「父」のような存在である。

繭を奪還しようとして羽村に刺された二宮は、死を悟って焼身自殺する。羽村は、「父」を殺し「母」と結ばれるオイディプスなのだ。

犯罪者となった彼は繭と駆け落ちを約束するものの、彼女を自分の巻き添えにできなくなり、一人郷里の新潟へと旅立つ。罪を犯したオイディプスは、旅立つ定めである。


ギリシャ悲劇では、息子オイディプスの妻になってしまった母は首を吊るが、繭は羽村の跡を追ってきて列車の中で二人は再会。

座席に並んで座って仲良く寝ているのか死んだのか、判定が微妙なラストシーンを巡っては、視聴者の間では当時"議論"が巻き起こった。

悲劇を望む場合は心中の道行きで締めくくりたいところであるが、リアルに考えれば羽村は逮捕され、繭は施設送りとなるだろう。「父」に替わって「象徴的父」たる法が二人に罰を下す。それが「自分の欲望」だけに生きた者が甘受せねばならない運命であり、彼らはたぶんそれを知っている。

だから最終回タイトルの「永遠の眠り」とは、赤い糸でお互いの指を結び合って眠りに落ちたまま、永遠に目覚めたくないという二人の(叶えられない)願望である。


『101回目のプロポーズ』と『高校教師』は同じ脚本家野島伸司の手によるものだが、トーンが全く違っていた。

しかし、主人公はある意味で似ている。達郎(武田鉄矢)と羽村(真田広之)が似ていると言っても誰の同意も得られないだろうが、それまでの社会的位相から転落していく男という点では同類である。

達郎を聖母のように抱きしめた薫、若いのに母性を感じさせた繭も、タイプとして同じ(病んでいたところまで)。


「僕はいま、本当の自分が何なのか、わかったような気がする。いや、僕だけじゃなく人は皆恐怖も、怒りも悲しみもない、ましてや名誉や、地位や、すべての有形無形のものへの執着もない、ただそこにたった一人からの、永遠に愛し、愛されることの息吹を感じていたい、そう‥‥ただそれだけの無邪気な子どもに過ぎなかったんだと‥‥」(羽村のモノローグ)。

いい大人が何を眠たいこと言っとんだ?とも思えるセリフであるが、これが当時それなりの共感を得られたとすれば、「社会的成功を目指して生きることに疲弊した男のご破算願望」が強く込められていたからだろう。

羽村の夢は、何もかも捨てて「無邪気」な幼年期に戻り、「母」との幸福な蜜月(身も心も一体化していた純愛時代)を取り戻したいということなのだ。

もちろんそんなことは不可能に決まっていた。(続く)

2007-03-08

日本の純愛史 13 『101回目のプロポーズ』の欺瞞 -90年代初頭(2)

純愛者が奇跡的にも結婚に辿り着いてしまったのが、『東京ラブストーリー』の半年後に放映された『101回目のプロポーズ』(武田鉄矢、浅野温子、江口洋介、田中律子、石田ゆり子)である。

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九十九回お見合いしても結婚できない中年サラリーマン、達郎(武田)と、過去に婚約者を結婚式当日に亡くしたお見合い百回目の美人チェロ奏者、薫(浅野)との出会い。

しかも武田鉄矢の弟純平が、(当時ヘアスタイルが似ていたというだけで?)あろうことか江口洋介。

この設定自体に、既に純愛ものらしからぬギャグの香りが漂っている。意表を突いた取り合わせでまず話題を作ろうという、露骨なキャスティングだ。

武田鉄矢主演の純愛物語だったら、失恋で終わるのはあまりにも普通過ぎるので、「美女と野獣」の結婚という意外なかたちに持ち込むであろうことも、最初から見え見えだった。

が、まあそういう細かいことは措いておこう。それよりも、いったい武田鉄矢なんかが、いや大した地位も金もないサエない中年男が、突然歌手デビューして大ヒットを飛ばしたとかの『愛染かつら』みたいな反則技なしに、どのようにして高嶺の美女の心をゲットするのか? 

要点はそこである。そこだけが、このドラマの推進力となっている。


薫に一目惚れした達郎は純平達に助けられつつ、果敢に不器用なアタックを繰り返すが、あと一歩のところで元の木阿弥に帰して傷つくというパターンが、面白可笑しく描かれる。

達郎の「純愛ぶり」は、すさまじい。

昔、婚約者を結婚式当日に亡くした薫に、

「僕は違う。五十年後の君を今と変わらず愛してる」

と真顔で言う。まだ相手のことよく知らない時点で。薫、不快感丸出し。

達郎の一途さが鬱陶しい薫は、そんなに私と結婚したいなら、競馬の一点買いにボーナス全部突っ込んで一発当ててと、冗談半分の要求を突きつけて諦めさせようとする。が、達郎は真に受けて決死の覚悟でボーナスを馬券に替え、見事全部スッてしまう。バカである。

人を好きになってまた失うのが怖いと薫が言えば、走って来る大型トラックの前にいきなり飛び出してトラックを急停車させ、

「僕は死にません!あなたが好きだから!あなたを幸せにします!」

と叫ぶ。何もそこまで派手なパフォーマンスしなくてもいいわけだが、「一身を犠牲にすることをいとわない」ところを見せて愛と誠意を訴えたい達郎は、何でもやってしまうのだ。


一方薫は、毎回のように昔の婚約者を思い出しグズグズ涙ぐむという、それまでの浅野"トレンディ"温子の役柄からは考えられないような、後ろ向きの女である。

達郎の捨て身の言動についホロリとなってようやく結婚を承諾するものの、その直後に死んだ婚約者にソックリな男が現れ、彼女は簡単に恋に落ちてしまう。

しかもその男は、達郎の上司として赴任してきた人で、いたたまれない達郎は会社をやめ、土方しながら今度は司法試験を目指す。試験に合格して、薫をもう一度振り向かせたい一心。雨の中、ずぶ濡れになって合格祈願のお百度参りまでし、兄に同情している弟が学資貯金を下ろしてくれた百万円で、早々と結婚指輪も買う。

ここまで極端な行動が描かれると、健気というより単細胞というか、単に諦めが悪い男に見えてくる。そして案の定司法試験は落ち、百万円の指輪も無駄になり、精魂尽き果てた達郎はようやくすべてを諦めようとする。

しかし最終回では、ソックリ男の二面性に気づいて恋から醒めた薫が、お約束のウェディングドレス姿で達郎の元に駆けつけるのだ。しかも道端に落ちている鉄のナットを自分の指に嵌めて、土方姿の達郎を抱きしめるという、笑わせたいのか感動させたいのかわからないラスト。


そこでドラマが終わっているからいいのだが、その後大丈夫かということはかなり気になる。

おしゃれな薫と、マティーニをいつまでたっても「マタニティ」と言う達郎。

ガンガンにエアコンかけてソーメンを食べる薫と、エアコンなしで汗掻きながらトンカツ喰ってしまう達郎。

そして、住宅ローンの返済に追われているのに、純愛道をつっぱしるあまり会社もやめてしまった達郎。

結婚という日常生活において浮上する経済問題と、教養、習慣、嗜好の多大な隔たりを、これからいったいどう解決していくのか。

それも、この「男のファンタジー」においては、余計な心配のようだ。そんなことは考えなくてもいい。容姿も収入も社会的地位もモテ趣味も必要ない。誠実でひたむきな愛さえあればいいというのが、ドラマの答だ。それこそ純愛なのだ。

‥‥わかった、それはひとまず了解しよう。





しかし、例の恋の相手から薫の気持ちが離れなかったら、このようなおめでたい結末にはならないはずである。自分は婚約者の幻に囚われていただけだったと彼女が気づいたから、達郎の存在が再び浮上してきたのである。

つまり、一回目に結婚を承諾していた時の薫は、達郎への純粋な愛で動いたのではなく、彼のなりふり構わぬ献身と熱意にほだされ、思わず同情していただけではないか?という疑問が生じる。でなければ、その直後に他の男に気持ちが傾くはずがないではないか。

だから最後の薫の、自分から達郎のもとに駆けつけるという目を見張るような積極的な行動が、いったいどこから出てきたのかが問題となる。それを、「仕事を失ったサエない中年男との結婚」という大博打に出た女の勇気と決断、とだけ見るわけにはいかない。 


土方姿の武田鉄矢、ウェディングドレスの浅野温子、ナットの指輪。これはそれぞれ、モテない男、夢の女、純愛を示している。

ナットの指輪を純愛に見立てている制作者側の意図は、八十年代バブル恋愛へのアンチであり明快だ。道に転がっていた達郎のその純愛を薫は拾い上げて、自分の指に嵌めた(受け入れた)。

もちろん純愛には、純愛で応えねばならない。それは同情ではなく、愛情と性欲だけからなる強い感情であり、「一身を犠牲にすることをいとわない」行動となって現れねばならない。薫が達郎に示すべきなのは、それだけだ(達郎はそれを不器用ながらしつこく示してきたのだから)。

しかし、薫からはそれが感じられない。相手が武田鉄矢だから?ということではなくて、薫が本質的に受け身の女だからである。


薫の愛は、「私を幸せにしてください」(一回目に承諾した時の台詞)と相手に依頼するものであり、「愛してくれる人に精一杯応えていく」(間違った恋から醒めた時の台詞)ものである。

「五十年後の君を今と変わらず愛する」「僕は死にません!あなたが好きだから!あなたを幸せにします!」と達郎が言った言葉に、彼女は結局すがりついているのである。それは、最低五十年間保障つきの(婚約者は死んでしまって保障してくれなかった)、決して裏切られない"安心愛"だ。

もっとも薫は一回目の承諾前に、「結婚ってそういうもんでしょ」と割り切ってはいた。

達郎が求めていたのはひたすら薫自身であったが、薫が求めていたのは、自分をいつまでも愛してくれる男との安定した関係であった。


従ってこのドラマで描かれていることは、二つある。

一つは、走ってくるトラックの前に飛び出るほど「一身を犠牲にすることをいとわない」純愛。

もう一つはその純愛が、モテない男と受け身の女の結婚願望に都合良く一致したということである。





久々に復活した九十年代初頭の純愛ドラマは、積極的に行動し走り抜く純愛者の姿をストレートに描いていた。しかし、ハッピーエンドを迎えたのは男の達郎(101回目のプロポーズ)であり、女のリカ(東京ラブストーリー)ではなかった。

つまり、八十年代後半に仕事で自立し男に伍してやってきたモノをはっきり言う女は、愚直に純愛を貫いても敗北するということである。

男が選ぶのはそういうニュータイプではなく、昔ながらの受け身姿勢を自然に身につけていて男に頼れる女。「東ラブ」の完治がごく普通のわりと真面目な男として描かれたからこそ、その(視聴者にとって受け入れがたい)事実はリアリティを持って迫ってきたのである。


一方、八十年代のバブルおやじ達の陰で地味に生きてきた男は、日の目を見た。ブサイク、中年、貧乏という三重苦を見事にはねのけ、どんでん返しに持ち込むことができた。

これはまさしく、不屈の闘志で頑張れば必ず目標達成できる、最後まで諦めるなという、昔ながらのある意味非常に古典的な「男の物語」である。だから結婚という目に見えるかたちで、話の決着をつけなければならなかったのだ。


「昔ながら」の女にそうでない女が負けた純愛ドラマと、「昔ながら」の男の物語が結婚に結びついた純愛ドラマ。

純愛における男女の真実にいち早く直面させられたヒロインは、二〇〇〇年の『やまとなでしこ』でそれを完璧に逆手にとってみせる。

小倉千加子は、この「ジェンダーを仮装した」ヒロイン神野桜子が、「(ジェンダー規範に抵抗した)リカか(ジェンダーを内面化した)さとみか」の答えであると看破した(「『東京ラブストーリー』と『やまとなでしこ』に見る結婚と愛の劇的変化」/AERA Mook「ジェンダーがわかる。」収録)。

『やまとなでしこ』は「愛は年収」というキャッチコピーで、「東ラブ」=純愛を葬り去った。視聴者が喝采したのはヒロインの浅ましいまでの"本音"であった。


男の方はその後も相変わらず、『101回目のプロポーズ』と五十歩百歩なことを『電車男』でやっていた。だが注目すべきは、前者が笑いと共に好意的に受け止められたのに対し、後者は巷の大ヒットの一方で、非モテ男性から批判が相次いだことである。

九十年代の間に、恋愛を巡る何が変わったのだろうか。次回から、その十年間に話題となったテレビドラマをいくつか見ていく。(続く)

2007-03-03

日本の純愛史 12 『東京ラブストーリー』のウケた理由 -90年代初頭(1)

「トレンド(先端)」という言葉が流行語となった八十年代後半は、一方で、価値観の多様化とか相対化などという言葉も、メディアで飛び交った時代である。

あれもあり、これもあり、それもあり。つまり何でもありだが、コレ!と言える「軸」や価値基準は曖昧。そんなもの別になくていいんじゃないの?無理して決めなくても「トレンド」をネタとして楽しんでれば。そんなお気楽で斜に構えた雰囲気が横溢した時代でもあった。

そういう茫漠とした状況に耐えられなくなった時、人はどこに向かおうとするのか。「なにか確固たるもの」、つまりベタなものである。

「確固たるもの」はそのへんには転がっていないので、過去に遡ることになる。「日本人」「伝統」「家族」。コンサバな人はそっち方面に落ち着いた。「からだ」「食」「自然」。エコ体質な人は、そちらに傾倒した。


しかしそんなものにアイデンティティを見いだせない人は、どうしたらいいのか。「メッシーやアッシーやイブの高級ホテルでのセックス」に飽き飽きした一般女子(実際にしてたかどうかは関係ない)は? 

そこに用意されたのが、しばらく忘れていた「純愛」という一見古風な、しかし新鮮な受け皿である。あなたに本当に必要なのはコレですよ、と。


そういう傾向を先取りしていた『ノルウェイの森』といった小説や、松任谷由実をはじめとするJポップスにやや遅れてテレビドラマの純愛ブームを決定的なものにしたのが、九十一年の「フジの純愛三部作」––––『東京ラブストーリー』、『素敵な片思い』、『101回目のプロポーズ』である。

そこでは、風俗描写が前面に出ていた八十年代のトレンディドラマと異なり、男女の恋愛感情の推移がストーリーの中心に据えられていた。

中身を見れば、特別「純愛」と謳わなくても「恋愛」で十分に通用する内容ではある。しかし、地獄の沙汰も金次第のバブル期に、堕落に堕落を重ねて地に堕ちた現実社会の恋愛の様相(表層)を鑑みて、あえて「純愛ドラマ」と括ることに意義があったのだ。

レジャー恋愛やビジネス恋愛から「真実の愛」を救出するには、純愛しかない。そうでもしないと月曜夜九時の恋愛ドラマの視聴率は、ジリ貧の一途。


「フジの純愛三部作」を仕掛けたプロデューサー、大多亮によれば、たまたま運動会の駆けっこでビリの子供が必死に走っているのを目撃して、「もしかして一番欠けていたものは、結果はビリでも最後まで走り抜くという、あの一途さと言うか、一生懸命さじゃないかなと」と思ったということである。

「勇気みたいなものを描かないとだめだと思いました」「一番の問題は精神性です」(「赤名リカ、星野達郎こそ、脱トレンディーの象徴だ」ロングインタビューより・CREA 一九九一年十一月号。※赤名リカは『東京ラブストーリー』の、星野達郎は『101回目のプロポーズ』の主人公)。

「駆けっこのビリの子供」を見て純愛ドラマを思いつくとは、あまりにもイージーな発想のようにも思えるが、テレビドラマはメッセージがシンプルでなければ受容されないので、まあそんなものかもしれない。

こうして「純愛三部作」では、普段勇気のない人間が「結果はビリ」と予測できてもあえて貫く一途さ、それが純愛を支える「精神性」であると定義された。

それまでのドラマにそういう愛は描かれなかった。トレンディドラマは、好きだけど会えば喧嘩ばかりしてしまう二人が、周囲を巻き込んだドタバタと駆け引きの末にめでたく結ばれるような喜劇が主流であった。

「私だって幸せになりたい。誰かにドキドキとときめいていたい」。『恋のパラダイス』のヒロイン、津波のセリフである。だがそんな願望ばかり並べてる間に、ビリでもいいから最後まで走りなさい、ということになった。


さて、「純愛三部作」と言っても、爆発的な人気を得たのは『東京ラブストーリー』(九十一年一月〜三月)と『101回目のプロポーズ』(同年七月〜九月)の二本である。

『素敵な片思い』(中山美穂、柳葉敏郎)は、平凡なOLを主人公としてすれ違いの恋が成就するまでを描いたもので、特に注目を集めたわけではない。様々な雑誌媒体で取り上げられ、主人公のセリフが流行語となり、社会現象にまでなったのは前の二作であろう。

その現象に輪をかけたのが、ドラマに使われたテーマ曲である。

九十一年オリコン・シングル・レコードチャートでは、一位をChage&Askaの歌う『Say Yes』(『101回目のプロポーズ』)、二位を小田和正の歌う『ラブストーリーは突然に』(『東京ラブストーリー』)が占めている。

ドラマの主題曲が話題になり、その後でシングルが発売され、ドラマ人気との相乗効果でCDが売れまくりカラオケで歌われまくるという、後に恒例の行事と化したテレビ業界・音楽業界タイアップ、いわゆるブロックバスター方式が定着したのが、この頃からだった。

それぞれの曲のメロディラインはドラマで描かれるせつない感情を嫌が上にも盛り上げ、歌詞はまるで主人公の気持ちを代弁しているかのよう(実際、『ラブストーリーは突然に』はあらかじめ脚本を読んだ上で作られた)。

ドラマにハマってなければ、特にその歌手のファンの人以外は、きれいなボーカルだなとか売れ筋のラブソングだなと感じる程度かもしれないが、ドラマにハマればメロディと歌詞の一つ一つがあのシーンこのシーンを喚起する。

そして、ドラマでは冒頭とさわりでくらいでしか流れない曲を、別の時間に別の場所で何回でも聴きたくなり、CDを買わないわけにはいかない仕組みになっている。

つまり純愛ものは幅広く商売としてイケる、ということでもあった。





柴門ふみの人気連載マンガが原作の『東京ラブストーリー』(鈴木保奈美、織田裕二、 有森也実、江口洋介、千堂あきほ)は、当時で常に三十パーセント近い視聴率をキープし「ドラマのフジ」の名を高めた大ヒット作である。

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東京のスポーツメーカーに勤める帰国子女の赤名リカ(鈴木)は、中途入社してきた長尾完治(織田)をいきなり「カンチ」と勝手な愛称で呼んじゃうような、天然で直球な女。彼女は「カンチ」に恋心を抱くが、完治の心のマドンナは、愛媛の高校時代の同級生で今は東京で保育士をしている関口さとみ(有森)。

しかしさとみは、やはり高校の同級生で医大インターン生の三上(江口)と付き合い出し、完治は失恋する。完治の恋を応援していたリカは積極的に彼にアプローチし始め、完治もリカの明るさと奔放さに惹かれていき、カップル誕生となる。ところがプレイボーイの三上に不安を覚え、なにかと心細い声で相談してくるさとみに完治の心は揺れ始める。

完治が三上と別れたさとみに会ったことを隠していたと知ったリカは、彼の嘘に怒り直情的に自分の気持ちをぶつけるが、悩み続ける不器用な完治は、おでん持参で訪ねてきたさとみの涙目に金縛り状態となり、ついにリカとの約束を破る。

別れを決めたリカが出向先のロスに旅立って三年後、さとみと結婚した完治は、帰国していたリカと偶然再会。それぞれの思いを隠し、さわやかに別れていく‥‥というドラマ。


これまでの恋愛ドラマでは見たことのない、天真爛漫直球勝負のヒロイン。

これまでのちゃらちゃらした恋愛ドラマとは一線を画したストーリー展開。

まさに「純愛ドラマの伝説」を作ったと言っても過言ではない盛り上がりようで、「月曜夜九時には街から女の子が消える」とまで言われた。放映時間帯は、日本中の若い女(若くない女も)が、自宅のテレビに釘付けになっていたわけである。

それは、予備校講師などというヤクザな職種でも同様だった。

放映時の年明けから春にかけて、私が関わっていた受験産業は忙しさのピーク時だったが、月曜は八時を回ると周りの女性講師はそわそわし始めた。ビデオ録画しとけばいいって話ではないのだ。リカとカンチの仲がどうなるか、リアルタイムで見ないことには。リアルタイムで泣かないことには。『君の名は』以来の現象だったかもしれない。

「最終回を前に、「カンチとリカがハッピーエンドにならなかったら、フジテレビに火をつけるから」「リカが振られたら生きる自信がなくなっちゃう」などという脅迫めいた電話や投書がテレビ局に殺到したらしい。」(『見渡せばそこにはカンチなやつばかり』より/檜山珠美/CREA五月号)。


ドラマ放映中から、週刊誌にもこぞって取り上げられた。

「超人気!東京ラブストーリー 『SEXしようよ』と明るくいえる奔放娘、保奈美のように生きたい」(微笑・二月二十三日号)

「スクープワイド 湾岸戦争の裏の忘れてはいけない事件(4)あなたの娘や恋人を虜にする『東京ラブストーリー』の『SEXしようよ症候群』に御用心」(週刊ポスト・三月一日号 )

「『東京ラブストーリー』ヒロイン研究 赤名リカみたいな恋がしたい! 必須7か条」(女性セブン・三月七日号)

「『24時間、好きって言って!』人気ドラマ東京ラブストーリーの赤名リカの積極恋愛術に学ぼう」(女性自身・三月十二日号)

「赤名リカのスタイルを盗め! 恋も仕事も東京ラブストーリーがお手本!」(女性自身・三月二十六日号)


女性誌では「生きたい」「したい!」「学ぼう」「盗め!」「お手本!」と絶賛されているヒロイン、リカに対し、オヤジ雑誌は「御用心」である。「SEXしようよ」(実際のセリフは「セックスしよっ」)が強烈過ぎて、そんなもの純愛じゃないと思われたのである。

しかしおじさん達の心配をよそに、純愛とは、単に「まだセックスしてないから、胸がきゅんきゅんしちゃってたまらん」みたいなものばかりではない、という見方は広まった。


リカは、男に媚びを売らない「新しいタイプの女」として描かれていた。媚びない代わりに、「二十四時間好きって言ってて!」などと、事実上遂行不可能な無理難題をぶつける。グラついている男にこんなことを言える蛮勇は、普通の女にはない。

二〇〇五年には、ビールのCMでその立ち過ぎたキャラと大袈裟なリアクションが揶揄されていた。あのリカを弄れるくらい時間は経ったんだなと思ったが、当時はそれがものおじしない率直さとして、新鮮に受け止められていたのである。

だから、大人しい顔でいかにも古風な手を姑息に使った(と見えた)さとみの"略奪愛"は、視聴者の非難の的であった。涙を武器にした女を選びやがってと、完治も非難された。

でもそれは仕方ない。正面切ってぶつかってくる女より、おでんの差し入れしてくれるような女がいいという男は多いだろう。押しまくる純愛は、おでんに負ける定めである。


で、その負けがほぼ決定的となった時に、リカのとった行動が面白い。

完治に裏切られ、彼女は突然仕事を投げ出して失踪し愛媛に行く。愛媛はいつか一緒に行くはずだった完治の故郷である。なぜ一人で行ったかと言えば、彼の出身高校の柱に刻まれた名前の横に、自分の名前を刻むためだ。今さらそんな子どもじみたことをしても仕方ないのに、頑固な女ゆえ無駄な意地を張らないではいられない、という展開。

しかし追ってきた完治が別れもやり直しも切り出せないでいるのを見て、リカは約束した一本前の電車でとっとと去ってしまう。迷ったあげくぎりぎりで駅に駆けつけた完治が目にしたのは、「バイバイ、カンチ」と書かれたハンカチだけ。

なんでそんな突っ張り方をしたかと言えば、たとえ完治が来てくれても、それは愛情ではなく彼の優しさに過ぎないだろうことはわかっているし、来なかったら来ないで自分が一層惨めになるからである。

「こっちから別れてあげた」という形に持ち込むことで、相手の罪悪感を軽減し自分のプライドも守る高度な合わせ技。

男が向こうから来てくれるのをじりじりして待ち、不満があっても譲歩してずるずるつきあい、二股かけられれば被害者ヅラで泣きつき、いざ別れとなるとあの手この手で見苦しく悪あがきするような女には、到底できない芸当だ。リカがやっと泣くのは、一人で乗った電車の中である。


これまで離ればなれになったり、病死したり、心中したり、後追い自殺したりする純愛ものはたくさんあったが、いくら悲劇でも、最後まで二人は愛し合っているという設定だった。ヒロインが他の女に男を取られて一人で泣くなど、ありえない話だった。

しかしドラマに釘付けだった女性達は、圧倒的にリカを支持した。「純愛を生きた正直な女」リカの人気は、絶大であった。

何事も猪突猛進で手加減するということを知らず、常にシロクロはっきりつけたがるリカのようなタイプを、普通の男はちょっと持て余す。そういうことを女は熟知しているので、男の前でさとみを演じてみたりするがストレスは溜まる。

「本当の私」は、リカなのだ。実際にリカのような生き方はできなくても、それに憧れることで「本当の私」を肯定できる。そんな気がしたのだ。


しかし、最後にもしリカが、レジの女や場末のホステスとして、前より見るからに落ちぶれて現れたら、どんなに一生懸命働いていたとしても、視聴者はがっかりしたに違いない。

恋を失った上にキャリアも失い貧乏だったら、いずれは男に頼らざるを得ないかもしれないではないか(頼らず静かに自滅するという選択肢はない)。

そんな惨めなヒロインを誰が見たいだろう。フジテレビと柴門ふみに嵐のような抗議が殺到すること必至である。仮に孤独になったとしても、 "キャリアウーマン"然としたリカが最後に颯爽と再登場したから、視聴者は喜んだのだ。


つまり、「純愛を生きた正直な女」と同時に、「都市に生きる自立した女」というもう一つの理想像も手放したくなかったリカファンの女にとって、リカの純愛の悲劇は、「泣けて安心できる物語」であった。

これが、男女雇用機会均等法施行から五年後、バブル崩壊間際の、名作純愛ドラマの受容のされ方である。(続く)