初詣の旅2012
名古屋鉄道が発行する「昇竜1DAYフリーきっぷ」を使って電車の旅へ。このフリー切符は、名鉄全線に一日乗り放題(※特別車は除く)になるという切符。ただし、有効期間が三箇日限定なので天気が崩れないことを祈ってました。
【岐阜】
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とりあえず名鉄特急(の一般車)で行けるとこまで行ったるわと意気込み、名鉄岐阜駅までやってきた。
岐阜市は岐阜県の県庁所在地で、41万人の人口を擁する県内唯一の中核市。昨今、人口減少・地価下落で凋落傾向にあったものの、この頃は地味に再開発計画が注目されている街。
まずは、名鉄岐阜駅のすぐ近くにあるJR岐阜駅に向い、駅前広場の黄金の信長像を拝した。金ピカすぎてちょっと浮いていた。ちょうど金価格が高騰している時に造ったそうなので、資金調達には苦心したんだとか。
そして駅の中を突っ切ってすぐ南にある加納天満宮へ参拝。途中の路肩には少しだけ雪が残っていた。今季初雪踏み。あえて避けて通ったが、岐阜駅の南口といえばアレな歓楽街があることでも地味に有名(ゲフンゲフン
◇加納天満宮
- 祭神:菅原道真公
- 創建:1445年(文安2年)
- 備考:旧県社
室町時代、斎藤利永によって築城された沓井城の鎮守として創建された神社。沓井城はその後廃城となったが、1601年(慶長6年)に奥平信昌によって加納城が築城されると、その鎮守として現在地に遷座した。
拝殿の前には天満宮ではお馴染みの座牛の像があった。この座牛は、菅原道真公の柩を引いて葬場に向かう白牛が、途中で座り伏して動かなくなったので、その場を葬場とした。のちに、その地に太宰府天満宮が建てたれたという故事に由来するもの。
- 祭神:金大神
- 創建:伝・135年(成務天皇5年)
- 備考:旧県社
岐阜駅の北側にある
社伝では、成務天皇の御代に、国造であった物部臣賀夫城命が国府をこの地に定め、社殿を造営したという。主祭神の金大神については、一説には
◇橿森神社
金神社からしばし北西の方角に歩いたところにある
境内末社(?)に織田信長神社があった。
橿森神社からのらりくらり北上したら見えてくる
主祭神は既述のとおり、第11代垂仁天皇の皇子・五十瓊敷入彦命。社伝によると、朝廷の命により奥州を平定した五十瓊敷入彦命であったが、その成功を妬んだ陸奥守豊益の讒言により、朝敵とされて現在の伊奈波神社の地で討たれたという。
景行天皇14年に武内宿禰が稲葉山(金華山)西北の椿原(現在の丸山)に鎮祭したのが当社の初めと伝えられる。その後の1539年(天文8年)、斎藤道三が稲葉山に稲葉山城を築城するにあたり、現在の鎮座地に遷座した。なおその際、遷座地にもともと祀られていた物部十千根命(五十瓊敷入彦命の臣下)を合祀した。
参道にはズラッと出店が連なっていて賑やかな雰囲気だった。境内では巫女さんたちがシャランシャランと鈴を鳴らしてお出迎えしてくれる親切っぷり。あと、謎のCMソングみたいなのが流れてた。神社オリジナルの。
階段を駆け上がって楼門をくぐると、雪が少し積もったままの拝殿が現れた。本殿は奥まっていて全貌はわからない。拝殿・本殿ともに西向き。境内の隅には
校倉と参道の様子
◆岐阜大仏
伊奈波神社からさらに北に歩くと、金華山(稲葉山)の麓の岐阜公園に着く。その道路を挟んで反対側にあるのが金凰山正法寺。そこにあるのが日本最大の乾漆仏である岐阜大仏。
写真では伝わりづらいが像高は13.7mとかなりデカイ。粘土の上に漆を塗っていく乾漆造という手法で造られている。表面には金箔が施されているので先の信長像ほどではないが金ピカ。
この大仏は江戸時代に38年の年月をかけて1832年(天保3年)に完成したという。また、あまり聞きなれない宗派かもしれないが、当院は
ちなみに大仏殿は西向きで、道路には背を向けている。
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岐阜公園内には、板垣退助の銅像が立っていた。あの有名な「板垣死すとも自由は死せず」の地なんだという。また、名和昆虫研究所記念館や織田信長館跡や、大正天皇即位を祝う御大典記念事業で建てられた立派な三重塔もある。
まだ旅は始まったばかりだというのに、難攻不落の稲葉山城を徒歩で攻略はつらいのでロープウェイに乗って山頂へ。
◆岐阜城
ロープウェイなら簡単アクセスの岐阜城。残念ながら復元天守。だが、眺めの素晴らしさは今まで訪ねた城の中でもトップクラスだった。360度ぐるりと見渡せるが、特に南方の濃尾平野の広大さたるや新年早々いいもん見れたわーと。
初めてこの金華山山頂に砦を築いたのは鎌倉幕府の執事・二階堂行政と伝えられる。戦国時代には『国盗り物語』で有名な斎藤道三の居城になった。その後、道三の孫・斎藤龍興の時代に、一時竹中半兵衛に占領された。1567年(永禄10年)には織田信長がこの城を攻略し、地方一帯を平定した。その際、地名を「井の口」から「岐阜」に改名し、天下統一の拠点とした。
しかし、1600年(慶長5年)8月、関ヶ原の戦いの前哨戦にて、城主の織田秀信(信長の嫡孫・三法師)が西軍についたため、東軍の福島正則・池田輝政らに攻められ、あえなく落城。以後再建されることなく廃城となった。
ぐぐっていたらその時の様子を描いた動画がヒットしたのでこっそり紹介↓
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駅まではバスで戻り、駅前のショッピングビルでお昼をとった。休む間のなく再び名鉄に乗り込み、各務原線で数駅いったところにある手力駅で下車。手力雄神社に参拝した。
- 祭神:天手力雄神
- 創建:伝・6世紀末
- 備考:旧郷社
地元の豪族が山の中腹に磐座を祀ったのが始まりだという。もとは真幣明神という社号であった。1567年(永禄10年)には、織田信長が稲葉山城攻めの戦勝祈願を当社で行い、戦勝後は広大な社領を寄進したという。
祭神は岩戸隠れの際に、天照大御神を引っ張り出した力の神・アマノタジカラオ。社殿はピカピカで真新しかった。
◇伊豆神社
- 祭神:石長姫命
- 創建:不詳
手力雄神社から一駅分西に歩いたところにある。大山祇神の娘・石長姫命を祀っている全国的にも珍しい神社。以前は別の場所に鎮座していたが、水害の為に中山道沿いの当地に遷された。
祭神の石長姫は、妹の木花咲耶姫命が瓊瓊杵尊に嫁ぐ際に、大山祇神の計らいによってセットで嫁いだ女神。しかしながら、妹とは違い容姿の優れていなかった石長姫は、瓊瓊杵尊に送り返されてしまう。大山祇神は落胆して、「繁栄を司る木花咲耶姫命とだけ結婚し、長寿を司る石長姫を送り返した天孫の子孫は、花のように短命になるだろう」と告げたという。
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【愛知】
各務原線の切通駅から一旦岐阜駅に戻って、名古屋本線に乗り換えて一宮市の今伊勢駅で下車した。15分ぐらい歩いて
いわゆる元伊勢の一つ。垂仁天皇の皇女・倭姫命が、天照大御神を祀るのに適した地を求めて全国を行脚した際に立ち寄って、八咫鏡を奉斎した地。
また、当地は良質な米が取れることから酒造師2人が伊勢神宮から派遣されてきて、祭りに供える酒造りをさせたという。
社殿は珍しい北向で、太陽を背にしている。社殿の前には尾張地区には多い蕃塀が建てられていた。また、社殿の傍らには栄水の井という清泉が湧いていて、かつては禊に使っていたという。
◇大神神社
妙興寺駅から北西に少し歩いたところにある
社号からして大和国の大神神社から勧請したものらしい。しかし、別の説もあり決定打には欠ける。
パッと見た感じでは並な町の神社であるが、少なくともかつては名神大社に列していた大社であることには間違いない。あまり大きくないのは戦国時代に一度焼失して荒廃していたためだと思う。
◆妙興寺
大神神社とは駅を挟んで正反対側にある臨済宗妙心寺派の寺院。国の重要文化財に指定されている勅使門を見に来た。
妙興寺駅から一駅先の島氏永駅の近くにある。電車の車窓から社叢らしき森が見えていたので、下車してからそっちの方に歩いていくと、「一之宮大明神」という別の神社だったので慌てて引き返した。
大神社の主祭神の
先ほどの大神神社と同じく、名神大社のわりにはこじんまりした神社だった。あと、隣の家の犬が必死にワンワン吠えてきて落ち着かなかった。
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初詣の〆に熱田神宮に行こうと神宮前駅で降車。が、予想はしていたものの、三箇日最終日でも熱田さんは超込み状態で、押しくら饅頭だった。日が沈みかけてきても参拝列が一向に進む気配がなかったので、熱田神宮は諦めて近くにある境外摂社の
祭神の高倉下命は、神武東征の際、建御雷神の布都御魂剣を神武一行に届けた者とされている。またの名を天香具山命といい、天火明命の子にして尾張氏の祖であるとも。
当社は「高蔵宮」とも呼ばれ、子育ての神として親しまれきたという。現在の社殿は戦後に造営されたものだが、かつては織田信長が建て、蜂須賀氏が修造した尾張造の社殿であったという。
摂社でも名神大社。さすが熱田神宮。
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帰りは名駅で味噌カツを食べて、ビックカメラや高島屋を物色して帰路についた。ケータイ国盗り合戦を埋めるために、地下鉄から豊田市を経由して帰った。
■感想など
そんなに歩いてないのに結構ヘロヘロでした。岐阜が思ったより寒かったので、早足で歩いて体を温めようとしたのが後々響いてきたのかもしれません。尾張の名神大社は、かなり制覇してきたのでもうひと踏ん張りしたいところです。